「息子はマザコン気質」「江戸城内で刃傷沙汰」将軍の母・桂昌院が“不人気だった”歴史背景〉から続く

 5代将軍・綱吉の背後で「生類憐れみの令」を操ったとされる母・桂昌院。「八百屋の娘から大奥の頂点へ」というシンデレラ・ストーリーの裏に隠された“本当の出自”とは。江戸の庶民から「しゃしゃり出てきた悪役」と嫌われ、激しい誹謗中傷を浴びた理由を現代のSNS社会と重ねて読み解く。ライターの小林明氏の新刊『毒婦の日本史』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

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小心の将軍を裏で操る「ゴッドマザー」

 桂昌院は京都から綱吉の側室を招いた。これは将軍の胤を残すのが大奥の至上命題だった当時にあって、まっとうな政治判断だが、覗き趣味が大好きな江戸の庶民たちは「また母親がしゃしゃり出てきた」と揶揄した。桂昌院は今度も悪役だった。

 綱吉については「理想主義者ではあるが、小心の専制君主」(『徳川綱吉』塚本学/吉川弘文館)と、パラノイア的な資質を指摘する研究者もいる。犬・鳥・魚などに対し慈愛を持つのは理想主義的ではあるものの、「生類憐れみの令」に至っては確かに偏執的だ。

 そうした特異なキャラクターのせいか実像が伝わりにくく、いまだに不可思議な将軍として、霧の中に立っている。そして、綱吉の背後には、現代なら「ゴッドマザー」というべき存在の桂昌院がつねにいて、将軍を意のままに操っている──と、少なくとも江戸の町人たちには、そう見えたのだろう。

 さて、桂昌院の出自に話を戻そう。彼女は本当に「八百屋の娘」だったのか?

 筆者の意見をいわせてもらうなら、下級武士の家の出身だったと見て、ほぼまちがいない。

桂昌院の威光で一族は大名にまでなった

 低い身分から家光の側室となったといわれる女性は、桂昌院だけではない。4代・家綱の実母であるお楽の方は下野国(栃木県)の農民出身で、春日局が浅草参りの帰路、美貌に目を留めて大奥入りさせたと伝わっているし、甲府藩主・綱重を産んだお夏の方も、出自は京都の町人だったという。

 しかし、このうち町人出身の女性だった可能性があるのは、大奥の雑用係である「御末」だったといわれる、お夏だけだろう。雑用係は井戸から水をくむなど力仕事が多いため、農民や町人の娘が就いていた。だが、将軍に御目見得(直接拝謁する)できる身分ではない。それをたまたま、家光が入浴する際の世話係をしていた関係でお手付きになったのが、お夏だという。ただし、そもそも風呂に入っているときに女中と関係を持つエピソードは徳川家康にもあり、その逸話を模倣した作り話といえなくもない。

 その他のお楽とお玉の2人に関しては、身分が低かったというのは単なる俗説である可能性を疑う必要がある。

 実際、桂昌院の父・本庄宗正の素性は、関白九条家の家司(家政をつかさどる者)・北小路太郎兵衛(本庄)宗正だったという。この人物はいわゆる青侍(公家に仕えた身分の低い侍)とみられており、まがりなりにも武士階級だ。そして、いくら下級とはいえ、京の公家に仕える武士が後妻として八百屋の女性を娶り、その連れ子(または2人の間に誕生した)が桂昌院であるなどというのは、どう考えても無理がある。

 武士だったからこそ、宗正の血統はのちに大名に取り立てられた。宗正長男の血筋は美濃国(岐阜県)高富藩主の高富本庄家、次男の血脈は常陸国(茨城県)笠間藩主を経て、丹後国(京都府)宮津藩主の本庄松平家となり、いずれの藩も幕末まで存続した。

 そんな一族の娘の出自が「八百屋」とは、あり得ないだろう。

 後世になると、将軍の側室は最低でも「旗本の娘」という条件付きであったことが知られるようになるが、家光の時代は庶民の女性が一発逆転でシンデレラになり得るとの“都市伝説”的な逸話が好まれており、そうした大衆のニーズによって創作された物語と見るのが自然だと思う(ただし、本庄氏の系図が信ぴょう性に難があるといわれている点は付記しておく)。

誹謗中傷の的に

 このように桂昌院の親族の子孫は、大名として出世している。だが、その一方、桂昌院本人はさまざまな誹謗中傷の的となってしまった。玉の輿への妬みに加え、「生類憐れみの令」を発案して息子をたぶらかしたやら、従一位という身分相応の官位を賜ったやら、嫉妬が二重三重にも積み重なった結果、大衆の憎悪を一身に受けるのである。

 現代でも、実業家と結婚するなど「玉の輿」の女性芸能人は敵意を向けられ、SNSで批判されることが多い。江戸時代も現代も、嫉妬が向けられる先は、さほど変わらない。

(小林 明/Webオリジナル(外部転載))