インディーズデビューから20年の節目。「現状に満足できない」思いはこれからも続くと語る

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第1回【音楽で生きるために「学校もやめてしまった」 志磨遼平を突き動かしたもの】のつづき

 18歳で突然上京してから数年。バンドメンバーを揃えた志磨遼平はバンド「毛皮のマリーズ」としてデビューを果たした。ドラマーに新たな人材を加え、2005年にリブートした「毛皮のマリーズ」は順調にファンを増やしていったが、志磨の20代の終わりとともに活動に終止符を打った。そして新たに立ち上がったのが「ドレスコーズ」だった。

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下手になったら人気が出た

「毛皮のマリーズ」の新たなドラマー、富士山富士夫の加入がバンドの追い風になったことは確かだ。

インディーズデビューから20年の節目。「現状に満足できない」思いはこれからも続くと語る

「都合よく、嫌なことを忘れているだけかもしれませんが、新しいドラマーが入ってからは全てが上手くいくようになりました。彼にはドラムの技術なんてないから、小賢しいことができない。スタジオに呼んで、初めてドラムセットに座った日に『じゃあ2週間後ライブね』と伝えました。その日から僕たち3人も彼に合わせて、テクニックではなく、エネルギーだけで演奏するバンドに生まれ変わった。言ってしまえば、パンクみたいなスタイルに限りなく近い。きっとそれ以前の僕たちは小賢しいところがよくなかったんですよ。それを全部かなぐり捨てて、ステージに上がったら無心で大暴れして……。そうすることでバンドの評価がガラッと変わった。面白いことに、下手になったら人気が出たんです(笑)」

 ライブの客が増え、話題に上るようになり、先輩バンドがライブに呼んでくれる機会も増えた。2005年の暮れには、インディーズレーベルのオーナーに渡した自主製作盤が評価され、同レーベルと契約。2006年9月にインディーデビューとなるアルバム「戦争をしよう」をリリースする。

「この世代のミュージシャンなら、みんなもちろん共感してくれるでしょうけど、自分の作品がCDケースに入って届いた時の感激というのはすごいもので『ついに僕も自分の作品を世に出すことができたんだな』と、胸がいっぱいになったのを覚えてます」

 ちなみにこのインディーデビュー作「戦争をしよう」は、今年3月に「ファースト」と改題された。志磨は「ぼくにそれ(改題)を決めさせたのは民衆を弾圧し命すら奪おうとする世界中の独裁者たち」と世界情勢を憂えている。

この現状に満足してたら「ライブハウスから出られない」

 高校を辞め、突然上京する形で突き進んだ一つの到達点がこのインディーデビューだった。ある時、スタッフに、自身らのバンドの行く末を聞いたこともあった。

「ベテランのローディー(※ライブの機材搬入から本番中のサポートまでを一手に引き受けるスタッフのこと)さんで、実は今もお世話になっている人なんですが、最初のアルバムが出たばかりの頃に『僕ら、有名になれますかね?』って何気なく聞いたら『大丈夫だよ、なれるよ』って言ってくれたことがあったんです。それが妙に心強くて、それからは何か上手くいかないことがあっても『あの人が大丈夫って言ったから大丈夫だろう』と思い込んで前に進むことができました」

 ベテランローディーの“予言”が当たったのはご存じのとおり。各地でツアーを行えば盛況で、話題作を世に送り出しながら、2010年には日本コロムビアからメジャーデビューを果たした。だが、志磨の中には渦巻いている思いがあったという。

「このままだとずっとライブハウスから出れないんじゃないかという焦りもあった。今、いくらちやほやされても、自分の目標はここじゃないぞ、と。いつも必死にもがいて、メンバーも僕の要求に必死に食らいついてくれたんですが、結果的にすごく負担をかけてしまって。ライブ中もメンバーに文句を言ったり、それが逆に評判を呼んだり、すごくいびつな形でどんどんお客さんが増えていくという、アンビバレントな(矛盾した)状態でした」

2年なら何とかします

 メジャーデビュー前からバンドは話題になっていたが、上手くいっているように見えても、志磨自身の中では「これでいいのか」という思いがあった。ステージ上でのメンバーの喧嘩や、「やってられるか!」と公演を放棄するような素振りが逆に喜ばれるなどして「バンドがめちゃくちゃになるところを見てやろうとお客さんが集まる」状態だった、と振り返る。

 メジャーデビュー前の2009年に出したアルバム「Gloomy」に当時の思いは現れている。日本コロムビアとの契約のきっかけにもなった作品だが、「暗い」とか「陰鬱な」を意味するタイトルは、志磨の内情を表していた。

「『Gloomy』の時点で毛皮のマリーズはもう長くない、と感じていたんです。なのでメジャーレーベルからお誘いがあったときにも、『2年なら何とかします』と僕のほうから期限を決めた上で契約しました」

 最初からゴールありきで、そこに向けてどこまで高みに届くかの2年弱……2011年いっぱいで「毛皮のマリーズ」は解散した。

30代で「ドレスコーズ」に

 だが、志磨自身がそこで止まるわけではなく、解散直後の2012年頭にはバンド「ドレスコーズ」を結成した。当初は4人組バンドだったが、現在は志磨のソロプロジェクトだ。

「毛皮のマリーズが、テクニックを度外視して破壊衝動だけで突き進んだバンドだったんで、今度は技術も創造性も持ち合わせた才能あふれるメンバーに声を掛けたんです。そういう人たちと衝突しながら音楽を突き詰めようと。つまり、ようやく純粋に音楽と向き合うことになったんです」

 だが現実は想像よりも難しかった。

「音楽っていうのは音楽だけでは成り立たないというか。人間関係や思いやりがあってのものなんでしょうね。時には自分の意見を譲ったり曲げたりすることも必要で、今度はそこに悩むようになった。本心を隠してメンバーの顔色をうかがいながら、自分の中にドロドロしたものが溜まっていくという、ある意味で少年時代と同じ状況になってしまった。またしてもそれが爆発を起こして、結成から2年でソロプロジェクトになってしまいました」

 あえてバンド名の「ドレスコーズ」は残した。あくまでもバンドであり続けると主張したかったことと、抜けた3人にも誇りに思ってもらえるような活動を続けていこうという気持ちがあったからだ。

楽曲提供は「プレゼント」

 志磨遼平を語る上では、楽曲提供者としての横顔に触れないわけにはいかない。SMAPから氣志團、ももいろクローバーZ、菅田将暉、PUFFYら、様々なアーティストに楽曲を書いてきた。

「人に曲を贈るのは好きです。いわゆる職業作曲家みたいな仕事に憧れがずっとあるんですよ。筒美京平さんのように、この曲も、これもこれも全部あの人が書いていたのか、というような才能に憧れる。米国のバート・バカラックやフランスのセルジュ・ゲンスブールなんかもそうです。方法は自分の曲を作るときと変わりませんが、人に曲を書くときは、プレゼントに悩むような気持ちで作る。あの人に似合うかな、気に入ってもらえれば嬉しいし、せめて部屋の隅にでも置いといてもらえればという気持ち。提供するアーティストのファンの人にも同じように喜んでもらえるようなものを贈る、そういう気持ちですね」

 王道的に似合うものだけをあげても「似たようなもの(曲)をいっぱい持っているならこれはあげてもしょうがない」。むしろ「意外と似合うけど持っていなさそう」といった視点から、提供曲を考えていくという。

次が最高傑作と信じて

 2025年には10枚目のアルバム「†」をリリースした。そのアルバムを引っ提げたツアーを収めたのが、今年3月発売の映像作品「grotesque human」だ。

「初心に返るというか、すごくシンプルなものを作りたくなって。自分じゃないほかの誰か、今からデビューする新人になったつもりで作ったアルバムでした。最初のアルバムというのは余計な心配をしなくていい。過去のアルバムと比較されることもなければ、わざわざ新しいことに挑戦する必要もない。ただただ自分の得意なスタイルを突き詰めたアルバムです。そのまま新人のつもりで全国を回ったツアーが今回映像化されて。僕はライブの流れや演出にすごくこだわるほうで、曲の繋がりにもすべて意味を持たせています。1曲目から最後の曲に至るまでの流れが僕には重要なんです。終盤に向けて観ている人が自ずと高まっていくような工夫をしているので、最初から最後まで止めずに観てほしいと思いますね」

 毛皮のマリーズでのインディーズデビューから20年の節目を迎えて、気持ちも新たにしている。

「現状に満足できない、目指すべきはここではない、という思いはこれからもずっと拭えないと思います。心から満足する作品を残したいけど、そんなものは生涯生まれない気もする。次のアルバムが自分の最高傑作だ、といつも思っています。完成するたびに満足はするんですが、次にはそれを更新するものを作りたくなる。みんながひっくり返るようなとんでもないものを作ってみたい」

 周囲を驚かせてきた歩みを止めることは、これからもなさそうだ。

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 第1回【音楽で生きるために「学校もやめてしまった」 志磨遼平を突き動かしたもの】では、音楽経験もないままに音楽に没入した経緯や突然の上京などについて語っている。

デイリー新潮編集部