兄・秀吉の天下統一の真実を握る男、羽柴秀長51年の生涯とは

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2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・羽柴秀長。秀長は、兄・秀吉の唯一無二の補佐役でありながら、これまでその存在が広く知られることはありませんでした。秀長は、どのような生涯を送ったのでしょうか。

『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 豊臣兄弟! 豊臣秀長とその時代』から、同ドラマの時代考証を担当する柴 裕之(東洋大学・駒澤大学非常勤講師)さんによる最新研究に基づく解説記事『羽柴秀長 51年の生涯』をご紹介します。

『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 豊臣兄弟! 豊臣秀長とその時代』書影

(1)秀吉・秀長兄弟とその家族

農民の出自とされてきた秀吉・秀長兄弟。しかし、父の木下弥右衛門は清須織田家に仕える武士だった。謎に包まれた秀長の出自とは?

生母と兄弟の構成

 羽柴秀長(羽柴は苗字、豊臣は氏姓<しせい>)は、天文9年(1540)に尾張国中々村(おわりのくになかなかむら)(愛知県名古屋市中村区)で生まれた。父は天文12年8月2日に亡くなった法名「妙雲院殿栄本(みょううんいんでんえいほん)」を名乗る人物で、母は尾張国御器所(ごきそ)村(愛知県名古屋市昭和区)出身の天瑞寺殿(てんずいじでん)である。天瑞寺殿については、「仲」または「なか」の実名が知られているが、確かな史料では確認できない。この二人の間には、ほかに女子が二人、男子が一人いる。女子は、姉として天文元年に生まれ、のちに出家し「瑞龍院日秀(ずいりゅういんにちしょう)」を名乗った女性(一般に「智」または「とも」とされるが、確かな史料では確認できない。以下、「瑞龍院殿<ずいりゅういんでん>」とする)、妹には天文12年に生まれた南明院殿(なんめいいんでん。実名は「旭<あさひ>」とされる)がいる。そして、秀長の兄にあたる一人の男子こそ、天文6年2月6日に生まれた秀吉で、秀長とは3歳差だった。

父の死後の兄弟たち

 彼ら兄弟姉妹の父親について、延宝(えんぽう)4年(1676)以前に土屋知貞(つちやともさだ)がまとめた『太閤素生記(たいこうすじょうき)』には、瑞龍院殿と秀吉の父は織田家に仕え戦場で負傷し百姓として生活していた「木下弥右衛門(きのしたやえもん)」で、秀長と南明院殿の父は「木下弥右衛門」の死後に天瑞寺殿が再婚した「筑阿弥(ちくあみ)」だったとする。このことから、一般に瑞龍院殿・秀吉と秀長・南明院殿とは父親が異なるといわれる。

 ただ、『太閤素生記』は、「木下弥右衛門」とされる人物の死を「秀吉8歳」の時とする。同書は、秀吉の誕生日を天文5年1月1日とするので、それによると「木下弥右衛門」の死去は天文12年のことである。この年8月2日には、前述のように、法名「妙雲院殿栄本」を名乗る人物が亡くなっている。この人物が「木下弥右衛門」、「筑阿弥」のどちらにあたるのか、それとも両人が同一人物だったのか、定かではない。しかしながら、天文12年8月2日に亡くなったという事実に注目すれば、秀吉・秀長兄弟姉妹の父親は同一であったとみるべきであろう。

 父親を亡くしたとき秀吉は7歳、秀長は4歳、いずれも幼少だった。彼らは中々村で百姓を営むことが難しく、生家は貧苦を極め、村人の世話を受けながら生活し、百姓身分からは凋落していったらしい。そのため秀吉は、やがて家を出て各地を放浪することになり、秀長は家族とともに家に残った。なお、秀長の幼名として、「小竹(こちく)」が知られる。しかし、「小竹」は秀吉も筑阿弥の子として呼ばれていた渾名(あだな)であり、秀長の幼名ではない。

<羽柴家略系図>

(2)織田家臣としての活躍

織田家臣となった秀長は、兄・秀吉の与力とされた。秀吉が安芸毛利方の攻略を命じられると播磨へ出陣。但馬・竹田城「城代」となる。

信長に仕え、兄の与力となる

 永禄(えいろく)元年(1558)、放浪の末に尾張国へと戻った秀吉は、清須城(愛知県清須市)の織田信長に仕えた。この頃、信長は織田家一族内部の対立を鎮め、尾張国の戦国大名として歩み始めていた。その後、信長は永禄3年5月の今川義元(いまがわよしもと)との桶狭間合戦に勝利し、尾張国東部地域を奪還したうえ、尾張国北部の平定と敵対する美濃一色(みのいっしき。斎藤<さいとう>)家への対処を進めていった。そのなか秀吉は、織田家臣として出世を果たし、永禄8年に信長が尾張国を平定すると、当時の史料でもその名をみられるようになる。

 秀長がいつ織田家に仕えたか、その具体的な時期は不明だが、秀吉の出世に伴ってのことであろうことは間違いない。秀吉の推挙を経て、織田家臣となり、信長から一字を得て「木下小一郎長秀(こいちろうながひで)」と名乗り、兄の政治的・軍事的配下である与力(よりき)の立場で活動した。ただ、秀長の活動が史料でみられるのは、天正(てんしょう)元年(1573)8月に織田家に敵対した近江浅井(おうみあざい)家の居城・小谷(おだに)城(滋賀県長浜市)攻めの際、黒田郷(くろだごう)(同前)の住人の帰還と軍勢による破壊・略奪行為の取り締まりを保証したのが最初である。

但馬・竹田城の城代を務める

 その後、秀吉が新たに築いた長浜城(滋賀県長浜市)を居城に信長から管轄領域である長浜領(旧浅井領国)の統治を認められた「織田大名」となると、秀長は兄と同じく羽柴苗字を名乗るようになる。天正5年10月、秀吉が天下人信長を主宰者とした織田政権に対立する安芸毛利(あきもうり)方の攻略を担当することになると、秀長は兄に従い播磨(はりま)国へ出陣した。そして、但馬(たじま)国を攻略した後には、同国の要城であった竹田城(兵庫県朝来市)の城代として配置された。しかし、秀吉が別所長治(べっしょながはる)ら播磨国衆と対立し、再び播磨・但馬両国が混乱をみせると、秀長は兄に従い、その鎮圧にあたった。

 天正8年、秀吉が播磨国の平定をほぼなすと、秀長は但馬国の再攻略に遣わされ、5月に同国を平定した。その後、竹田城代として管轄領域(竹田領)の統治と同国の諸将の統率をおこないながら、翌天正9年の因幡鳥取(いなばとっとり)城攻め、さらには天正10年の備中(びっちゅう)国における毛利方勢力の攻略に参戦している。そして同年6月、秀吉の指揮のもとで備中高松(たかまつ)城(岡山県岡山市)を水攻めとし、毛利輝元(もうりてるもと)らの軍勢との対決にあたり出陣してくる信長の到着を待っていた最中、秀吉・秀長兄弟の運命を変えることになった「本能寺の変」が起こる。

(3)本能寺の変後の政争と兄弟の飛躍

本能寺の変を知り、毛利氏と和睦した秀吉は山崎で明智光秀を破る。賤ヶ岳の戦いにも勝利し、兄弟の地位は大きく飛躍する。

山崎の戦い後、丹波国を攻略

 天正10年(1582)6月2日、織田家重臣の惟任(これとう。明智)光秀が京都にいた主君の織田信長・信忠(のぶただ)父子を討った。「本能寺の変」である。秀吉・秀長兄弟は、備中高松城を攻囲中に本能寺の変の報を知り、毛利家との和睦を遂げたうえで、急ぎ畿内に取って帰った。そして、6月13日に織田信孝(のぶたか。信長の三男)が率いる織田方の軍勢に合流し、信長・信忠父子を討った惟任光秀の軍勢を「山崎合戦」で撃ち破った。

 この時、秀長の軍勢は、天王山方面の「山之手」に陣を取って惟任方の軍勢と戦い、戦後は光秀が治める領国としてあった丹波国の攻略を担当した。その恩賞に、秀長は新たに丹波国福知山領(京都府福知山市)を得ている。

賤ヶ岳合戦の勝利で飛躍する兄弟

 6月27日の「清須会議」によって、信長の嫡孫・三法師(さんぼうし。のちの織田秀信<ひでのぶ>)を当主に、柴田勝家(しばたかついえ)・羽柴秀吉・惟住(これずみ。丹羽<にわ>)長秀(ながひで)・池田恒興(いけだつねおき)の宿老4人の補佐による運営のもとで、織田政権は再始動することになった。しかし、直後から政権内部の主導権をめぐって、信雄(のぶかつ。信長のニ男)・信孝兄弟、宿老の秀吉と柴田勝家が対立し始めた。この対立は、やがて抗争へと事態を発展させ、最終的には天正11年4月の「賤ヶ岳合戦」へと至る。

 賤ヶ岳合戦の勝利で、織田政権の運営はこの対立状況のなかで三法師「名代」(代理)の当主となった信雄を秀吉が補佐して進められ、秀吉は織田家諸将のうえに立つ主導者となっていった。そのなかで、秀長は但馬国竹田領に加えて播磨姫路城(兵庫県姫路市)の城主として飾東郡(しきとうぐん)・多可郡(たかぐん)・加東郡(かとうぐん)の管轄領域(姫路領)の支配を任される一方(丹波国福知山領は返還)、播磨・但馬両国の諸将を率い、毛利家との外交や軍事的備えに従事した。

 一方、秀吉は惟住長秀や池田恒興ら織田家諸将の支持を得たうえ、織田家に代わる天下人としての態度を示し始め、自身の判断のもとで「天下」の政務をおこないだす。この事態は、主君である信雄との対立を生じさせ、天正12年3月に「小牧・長久手合戦」が起きる。

 秀長は、この合戦で伊勢方面の攻略や美濃国大垣(岐阜県大垣市)で畿内との通路確保にあたる一方、その最中にはそれまでの実名「長秀」を「秀長」に改め、織田家に代わる天下人へと歩み始めた秀吉を支える「羽柴家一門衆」としての立場を明確としていった。

 そして11月、秀吉は信雄・徳川家康を優位な戦局のもと講和に追い込み、勝利する。

(4)豊臣政権の成立

小牧・長久手合戦の勝利で、織田家との主従関係を逆転し、天下人となった秀吉。秀長は秀吉の名代として、信雄上洛や四国攻めを実現する。

織田信雄を臣従させる

 羽柴秀吉は、小牧・長久手合戦に勝利することで、織田家当主であった信雄と主従関係を逆転させるという、「下剋上」を実現させた。そのうえで天正12年(1584)11月、秀吉は朝廷からも天下人の立場を認められ、従三位権大納言(じゅさんみごんだいなごん)となった。これにより、官位による国内序列においても正五位下左近衛権中将(しょうごいのげさこんえのごんちゅうじょう)にあった信雄を凌駕し、名実ともに天下人としての立場を明確にした。しかし、織田家が天下人秀吉に従う存在であることを世間に示すには、信雄を上洛させて、秀吉の面前で臣従を誓わせる必要があった。

 そこで信雄の上洛交渉に、翌天正13年1月、秀吉は弟の秀長を自身の「名代」として信雄のもとへ向かわせ進めた。秀吉の意を受け、秀長は信雄を説得し、上洛することに応じさせた。そして2月、信雄は秀吉のいる摂津大坂城へ出頭して、臣従の姿勢を示した。翌3月、秀吉は信雄を朝廷へ執奏し従三位権大納言としたうえで、自身は従二位内大臣へと昇進した。この昇進で、秀吉は官位による国内序列において従三位権大納言にあった織田信雄と足利義昭よりも上位にあることを確認したうえで、初めて正親町(おおぎまち)天皇のもとへ参内を遂げた。ここに、天下人秀吉を主宰者とした中央政権である、“豊臣政権”が成立した。それに伴い秀長は、天下人秀吉の一門(羽柴家一門衆)を代表する「弟」として豊臣政権での活動を求められていく。

秀吉の名代として功績を上げる

 さらに秀吉が和泉・紀伊両国の敵対勢力の討伐にあたると秀長も参陣し、敵対勢力の攻略に従事した。また、引き続いておこなわれた土佐長宗我部(とさちょうそかべ)家に対する四国攻めでは、羽柴軍の先手(さきて)大将として出陣し、秀吉が中央や北陸への対応に追われて出陣しなくなったため、実質的に総大将を務めることになり、長宗我部家の臣従と戦後の四国における統治整備にも従事した。

 これらの働きの後、その功績を賞されて、大和・紀伊両国と和泉国の大部分、その後に伊賀国での所領を加え、日本の中央であった京都を中核とした五畿内(ごきない)の南部を統治する「豊臣一門大名」(豊臣政権下における羽柴家一門衆の領国大名)となる。その領国規模は、羽柴家一門衆筆頭にふさわしく、一門衆のなかで最大であった。この領国を、秀長は郡山城(奈良県大和郡山市)を居城に家臣とともに経営していく。

(5)「天下一統」の達成へ

秀長は一門筆頭の大名として領国経営をおこなう一方で政権の執政(宰相)も務めた。長年の激務は体を蝕み、「天下一統」を見届けて病死する。

「一門筆頭の執政」に上り詰める

 羽柴秀長は豊臣一門大名として五畿内の南部に展開した領国経営をおこなう一方で、羽柴家一門衆の筆頭として政権の執政(宰相)を務め、一門・重臣を率い政権運営に活動した。そうした秀長の地位は、天下人の従一位関白(じゅいちいかんぱく)・太政大臣(だじょうだいじん)の秀吉を主宰者とした豊臣政権内部の身分序列に用いられた官位の面においても、天正14年(1586)10月に秀吉の面前で臣従を誓い、豊臣大名に列した「義弟」の徳川家康(臣従に際して妹の南明院殿が正妻として嫁ぐ)と同格で、ともに従二位権大納言へと上り詰めている。

 その一方、「一門筆頭の執政」として秀吉の意向に従いながら政権運営に携わり、豊臣政権と諸大名との関係維持に努めた。そのため、秀長は「指南」(政治的後見役)として、織田信雄、徳川家康、毛利輝元、大友宗麟(おおともそうりん)・吉統(よしむね。初名は義統<よしむね>)父子、島津義久(しまづよしひさ)・義弘(よしひろ)兄弟といった諸大名と、彼らが上洛した際の接待や日々の贈答を通じて、交流を深めていった。そして、政権のもとでの国内秩序を乱す存在には、秀吉とともに豊臣軍(羽柴家だけでなく諸大名を従えた豊臣政権の軍勢)を率い、場合によっては秀吉に代わり豊臣軍を率いる大将として軍事討伐に従事し、終戦・占領後には該当地域の戦後処理と統治のための体制を整備する、「仕置(しおき)」の実務を指揮した。実際、天正15年におこなわれた九州討伐で、秀長は「一門筆頭の執政」として、この役割を果たしている。そのほか、羽柴家の本城である摂津大坂城や山城淀(やましろよど)城(京都市伏見区)など豊臣政権の畿内統治における拠点城郭の普請も、秀長の監督のもとで、諸大名や諸将が率いておこなわれた。

秀長は「天下一統」を見届け病死する

 秀長が豊臣政権で「一門筆頭の執政」の立場にあったのは、彼が天下人秀吉の信頼する実弟であったことに源泉がある。そのため、秀長は秀吉からの絶大な信頼を受けながら、才覚を発揮し続けていくことで応え、豊臣政権のもとでの国内諸勢力の統合である「天下一統(てんかいっとう)」の達成のために自身に課せられた役割に尽くしてきた。

 しかし、その功労の裏での激務は、やがて彼の体を蝕んで大病を患わせ、天正18年以降は病状がたびたび危篤に陥った。そして、豊臣政権のもとでの「天下一統」実現を見届けた後、天正19年1月22日に秀長は52歳でこの世を去った。「一門筆頭の執政」秀長の死去は、その後の政権運営に軌道修正を余儀なくさせてしまうことになる。

『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 豊臣兄弟! 豊臣秀長とその時代』は、以下の構成で豊臣秀長について、歴史学第一線の研究者が最新の研究成果から分かりやすく解説します。

【構成】
巻頭紀行 大納言・秀長の城を行く 郡山城はいま
「豊臣兄弟!」歴史人物相関図
第1部 羽柴秀長51年の生涯
第2部 クローズアップ人物伝 秀長が取次・指南を務めた11人
第3部 人物事典 織田豊臣政権の人々
第4部 羽柴秀長と天下一統への道
第5部 最新研究 羽柴秀長
特別記事 知られざる秀長の妻「慈雲院殿」の実像 
特別インタビュー
コラム 秀長 ゆかりの地を行く

柴 裕之

しば・ひろゆき。1973年生まれ。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東洋大学・駒澤大学非常勤講師。主な著書に『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院)、『徳川家康―境界の領主から天下人へ』『織田信長―戦国時代の「正義」を貫く』(以上、平凡社)、『清須会議―秀吉天下取りへの調略戦』(戎光祥出版)、『羽柴秀長―秀吉の天下を支えた弟』(KADOKAWA)、『秀吉と秀長―「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版)、編著に『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版)などがある。2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当。

◆『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 豊臣兄弟! 豊臣秀長とその時代』より「羽柴秀長51年の生涯」
◆柴 裕之
◆トップ写真:「奥の院 豊臣家墓所」GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート
※書籍に掲載の写真と本記事の写真は異なります。