1949年、小田原の銭湯で一家5人が惨殺された。犯人は隣家に住む18歳の少年。女湯の覗き見を咎められたことへの逆恨みが、凶行の引き金だった。残忍かつ身勝手な犯行から死刑になると思いきや、事態は思わぬ方向へ進展する⋯⋯。鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』よりお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)

【写真】この記事の写真を見る(2枚)


写真はイメージ ©getty

◆◆◆

「趣味は女風呂の覗き見」

 1949年(昭和24年)9月14日、神奈川県小田原市で銭湯を営む一家5人が殺害された。ほどなく逮捕された犯人は隣家に住む18歳の少年。女湯を覗いたことを注意されたことへの逆恨みが犯行動機で、裁判では未成年ながら死刑判決が下される。しかし、その後、恩赦を受けて無期懲役に減刑され仮出所したものの、それから15年後に女子中学生2人に対して殺人未遂事件を起こし再び逮捕、刑務所に収監された。

 犯人の杉山優は1931年(昭和6年)、横浜市で生まれた。幼いころに両親と死別し、弟とともに叔父に引き取られる。中学を卒業後、旋盤工として町工場に勤務していたが、1947年、16歳のときに窃盗事件を起こし逮捕。1949年2月には職場を解雇され、以後、定職に就くことはなかった。

 当時、杉山が住んでいたのが小田原市井細田の下宿屋の2階。隣に1928年開業の銭湯「田浦湯」があり、杉山は、自宅の部屋から女風呂を覗き見することを趣味にしていた。

風呂屋の主人に見つかり「逆恨み」

 それを風呂屋の主人、石川さんに見つかり、激しく咎められたのが事件3ヶ月前の1949年6月。杉山はそんな事実はないと覗き見を否定したが、石川さんは防止策として隣家との境界にある薪置場の屋根の上に目隠し用の簾を立てる。この行為に杉山は激怒、石川さんに対して一方的な恨みを募らせ、やがてそれは明確な殺意へとエスカレートしていく。

 同年9月14日午前1時40分ごろ、杉山は浴場通用口から石川家に忍び込んだ。このとき手にしていたのは1ヶ月前に購入し犯行に備え研いでいた刃渡り約22センチの肉切り包丁と、同家の薪置場に置いてあった鉈。杉山はまず、就寝中だった主人の石川さん(当時45歳)、妻のよしさん(同43歳)、石川さんの母親(同81歳)に鉈を振り下ろして殺害。

 さらに夫妻の次女(同7歳)と長男(同4歳)を電気コードで首を絞めた後、包丁で滅多刺しにして命を奪う。当時19歳だった長女も鉈で殴られ包丁で胸部を中心に8ヶ所を刺され重傷を負ったが、奇跡的に一命を取り留めた。犯行に要した時間は約40分。長女以外、全員が即死だったという。

 杉山は犯行後にタンスを漁り、現金600円(現在の貨幣価値で約2万4千円)を奪って逃走。そのまま、育ての親である叔父の家に向かい全てを打ち明ける。仰天した叔父は杉山を説得し、促される形で同日午前9時30分に足柄下地区警察署(現・小田原警察署)に出頭。その場で逮捕された。

死刑になるかと思いきや⋯

 殺人罪および同未遂罪で起訴された杉山の裁判は事件翌月の1949年10月から横浜地裁小田原支部で始まり、3ヶ月後の1950年1月12日に判決公判。裁判長は犯行時18歳4ヶ月という未成年ながら、身勝手な理由で何の落ち度もない5人の命を奪った罪は重大として、杉山に死刑を宣告する。

 杉山は判決直後に控訴したが、後に「贖罪したい」として控訴取り下げを申し立てた。度々拘置所を訪れ接見していた弁護人から説得を受けても翻意せず、拘置所長も最終的に控訴取り下げの手続きを取ろうとしていたところ、予期せぬ人物が事態を動かす。

 一審で死刑判決を下した裁判長の三淵乾太郎(1906−1985)が直々に杉山を訪ね、控訴するよう強く説得したのだ。

◆◆◆

 5人殺害した少年はなぜ死刑を逃れたのか? そして刑務所を出たあとに犯した「さらなる罪」とは⋯⋯。

5人殺害の少年が「死刑」にならなかった“衝撃の理由”(昭和24年の事件)〉へ続く

(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))