「女将の許しを得た」若い女中と肉体関係を持ったのちロープで⋯戦後最悪の殺人犯が「たった10歳の少女の力」で逮捕された理由(昭和39年の事件)
〈「とにかく女にモテた」「肉体関係を持った相手まで殺害」5人を手にかけた“戦後最悪の連続殺人犯”の正体(昭和38年の事件)〉から続く
甘いマスクで女性をだまし、関係を持った相手さえ手にかけた連続殺人犯・西口彰。全国を逃げ回った“戦後最悪の男”は、なぜ逃亡の果てに捕まったのか――その鍵を握っていたのは、わずか10歳の少女の違和感だった。
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男の最後を、鉄人社の新刊『高度経済成長期の日本で起きた37の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

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甘いマスクで女性たちをだまし⋯
ここで散財した西口は引き止めるゆきさんを振り切り宿を出て広島、徳山、沼津と渡り歩く。広島では地元の孤児院に寄付するという名目でテレビ5台(22万円)を購入し、仕入先に金を支払わず、これを質に入れて8万円を手に入れた。
徳山では東大教授と称して2泊し、「女将の許しを得た」と言う若い女中と肉体関係を持つ。とにかく、西口は女にモテた。
11月14日、再び貸席「ふじみ」を訪れる。ゆきさんは大喜びし、西口を自分の部屋に招き入れ、毎日のように体を貪りあった。しかし、金が底をついた18日、西口はゆきさんと母はる江さんをロープで絞殺。
家にあった宝石や貴金属などを質屋で4万8千円に換金し、翌日には藤見家の代理人を装い電話回線を10万円で売却、静岡から逃走した。
22日に2人の遺体が発見されると警察庁は西口を重要指名被疑者として特別手配することを決定。行橋署の捜査官が別府に出向き、西口の家族に自首を促す手紙を書かせ全国紙に掲載した。
一方、当の本人は12月3日に千葉地裁で会計課職員になりすましたうえで、長男の交通違反の罰金を払いに来た母親から6千円を騙し取り、千葉刑務所では弁護士を騙り、勾留中の男の母親から保釈金5万円を詐取。
その後、福島で弁護士の襟章を盗んでから北海道へ向かい、地元の事業主から5万円をゆすり取り、さらに東京へ南下し、証券詐欺で捕まった男性の兄に保釈手続きの費用と偽り4万円を騙し取った。これらの事件を知った警察は、西口の顔写真入りの指名手配ポスターを5千枚印刷し、全国に配布する。
12月下旬、西口は東京地裁の控室でたまたま見かけた弁護士・神吉梅松さん(同81歳)を次の標的に選んだ。まず神吉さんに「民事事件を依頼したい」と偽りの電話をかけ、同月29日に外出先で面談。
その後、言葉巧みに東京都豊島区の神吉さんのアパートに同行し、部屋に入るや背後から頭を殴り、ネクタイで首を絞めて殺害。現金14万円相当を奪い、それから4日間、遺体をタンスの中に入れたままこの部屋で過ごした。
弁護士を偽ってお寺に入り込み⋯
年が明けた1964年1月2日、西口は東京の弁護士「川村覚次」を名乗り熊本県玉名市の立願寺に現れる。
この寺の住職は、福岡刑務所の教誨師もしている古川泰龍さん(同43歳)で、当時、免田栄さん(1948年に熊本県人吉市の祈祷師夫婦を金銭目的で殺害したとして確定死刑判決を受けたが、冤罪の疑いが濃いとされていた)の釈放運動に尽力していた。
古川さんは10年前、福岡刑務所にも講話のため訪れたことがあり、当時服役中だった西口は彼を覚えていたが、逆に古川さんに西口の記憶はなく、釈放運動を支援したいと言う西口を喜んで招き入れた。
家族が歓迎ムードに包まれるなか、古川家の二女るり子さん(同10歳)だけは川村弁護士を訝しむ。彼の人相が町の掲示板に貼られた連続殺人犯、西口彰の指名手配写真に酷似していたのだ。
西口彰だと確信した少女は⋯
るり子さんは小学校の同級生に西口と一文字違いのクラスメイトがおり、通学中に手配写真をよく見ていた。
るり子さんは改めて顔写真を確認、そこに見られるような二つのはっきりとしたほくろが川村弁護士にもあることにも気づき、両親に彼が殺人犯の西口だと訴える。しかし、古川さんは客人に対する無礼な態度だと怒り、川村弁護士を免田さん釈放運動を支援すると約束した「幸福の使者」と口にした。対して、るり子さんは「いや、彼は悪魔の使者だ」と強く反論。
娘のあまりに真剣な告発に、古川さんはいま一度、川村弁護士の顔や言動を注視する。と、川村がベテラン弁護士を自称しているにもかかわらず、法律の知識は素人並みであることがわかった。そこで、自ら指名手配のポスターを見に行き、娘の言うとおり、川村と西口は同一人物だと確信する。
古川さんは悩んだ末、西口を油断させたまま家の一部屋に泊め、寝ている間に警察を呼ぼうと決心。まず別部屋の一つに鍵を取り付け、家族をそこに避難させた。鍵を打つ間は、絶対に気づかれないよう音に注意し、妻が西口の話し相手となり気を逸らせた。
警察へ相談すると⋯
23時過ぎ、西口の部屋の電気が消え、眠りについたことを確認すると、古川は妻と長女を玉名署へ送った。同署は指名手配中の連続殺人犯がこのような辺鄙な町に来るとは予想していなかったため、逃亡犯を逮捕するのに十分な人員を集めるには数時間かかると2人に伝え、いったん家に帰らせる。
その後、調べたところ、男が名乗った「川村覚次」という弁護士は東京に実在していたが、確認のため電話すると川村弁護士は東京の自宅にいることが判明。熊本県警本部にも連絡のうえ大量の捜査員を動員し、古川家を取り囲む。
1月3日午前4時ごろ、西口は早起きして一家に挨拶したが、異変を感じたのか、急いで荷物をまとめ、すぐに福岡へ向かわなければならないと告げた。が、家を出ようとした瞬間、包囲していた警察官によってあっけなく逮捕。逃亡生活は78日間で終わりを告げる。
懲役は⋯
逮捕に際し、警察庁長官は「(これまで動員された)警察官12万人の目は、1人の少女の目にかなわなかった」というコメントを発表した。
行橋署に護送された西口は素直にこれまでの犯行を認めたうえで、折を見て古川さん一家を皆殺しにして金を奪い、沖縄に逃亡する計画だったと供述する。
福岡地裁小倉支部で開かれた一審で、検察側は論告にあたり西口を「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と形容し死刑を求刑、1964年12月23日に同地裁は求刑どおり死刑を宣告する。
判決文には「悪魔の申し子」と書かれていた。翌1965年8月28日に福岡高裁が控訴を棄却し、1966年8月15日に西口自ら上告を取り下げたことで死刑が確定。福岡拘置所に収監された西口に対し、危うく殺されかけた古川さんは「犯罪者は心の病気」という信念のもと、罪を憎んで人を憎まずの精神で文通を続けた。
死刑執行は1970年12月11日(享年44)。
処刑前、西口は「(すでに亡くなった)母の後に逝けるのが何より幸せです。遺骨は別府湾に散骨してください。アーメン」と語ったそうだ。
映画化は断念されが⋯
世間を恐怖に陥れた西口の犯行は、すぐに映画化の話が持ち上がり、逮捕から1ヶ月後にはすでにシナリオの決定稿が完成していた。タイトルは「一億人の眼」。
監督は新人が起用される予定だったが、西口の父親が、息子はともかく映画化によって孫までもが断罪されるのは許してほしいと嘆願したことで映画会社が断念。
今村昌平監督の「復讐するは我にあり」が公開されるのは、西口の死から9年後の1979年のことだ。
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))
