(※写真はイメージです/PIXTA)

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理想の環境を求めて踏み出した地方移住。長年の努力で住宅ローンを完済し、安泰な老後を目前にした矢先、個人の力ではどうすることもできない「外部要因」によって生活が揺らぐことがあります。ある男性のケースを見ていきます。

ずっとこの町で暮らしていこうと考えていたのに……

「環境のよいところで、子育てがしたかった」

佐竹健一さん(59歳・仮名)。元々は都内の中堅メーカーに勤めていましたが、長男が4歳、次男が1歳のときに家族で地方都市へ移住したのは2011年のことでした。当時、佐竹さんは38歳。年収は850万円ほどありましたが、激務により家族との時間はほぼゼロ。「人間らしい生活がしたい」という強い思いがありました。地元の製造業に再就職した際の年収は450万円。一気に400万円も下がったうえ、3,000万円の一戸建ても購入しました。しかし、質素倹約を心がけた結果、夫婦共働きで住宅ローンは15年で完済したといいます。

「質素倹約といっても、我慢したという感覚はありません。何といっても環境がいい。東京では味わえない自然のなか、お金をかけなくても贅沢な体験ができる。本当にこの町に来てよかった、一生ここで暮らしていこうと考えていたんです」

老後を目前にした現在、2,000万円ほどの貯蓄があります。年金が受け取れる65歳までは細々と働き続け、その後は夫婦で月27万円ほどの年金を受け取る予定です。物価の高い東京では心もとない金額かもしれませんが、ここなら十分やっていける――。「最高の選択をした」と確信していました。

しかし、そんな日常は一気に崩壊します。急激に国内外の観光客が増えたのです。原因はSNSでした。風光明媚な風景が「映えスポット」として拡散され、佐竹さんの生活圏を劇的に変えてしまいました。生活道路は観光客に占拠され、それまで車で10分だったスーパーへの道のりは、3〜4倍の時間を要するようになりました。朝から晩まで話し声が響き、庭先に観光客が無断で侵入することさえあったといいます。

「いっそ、どこに行っても混んでいる東京のほうが住みやすいんじゃないかと……。もう笑えませんよ」

地域では、観光バブルで潤う事業者と、生活を壊された住民との間に深刻な分断も起きているのが実情です。

急増するインバウンドとオーバーツーリズムの影

日本政府観光局によると、2025年の年間訪日外客数は4,268万3,600人で、前年比15.8%増を記録しました。過去最高だった2024年の3,687万0,148人をさらに塗り替え、更新し続けています。

好調なインバウンドの一方で、静かな地方が予期せぬ観光需要の急増によって「住みやすさ」を奪われるオーバーツーリズム(観光公害)が深刻な問題となっています。

近年、SNSの普及により特定の地域へ観光客が集中する現象が加速しました。観光庁の『オーバーツーリズムの未然防止・抑制に向けた対策パッケージ(令和5年)』によると、観光客の増加に伴い、交通渋滞、ゴミ問題、騒音、私有地への侵入といった住民生活への悪影響が全国各地で顕著になっています。公共交通を地元住民が利用できないケースも多く、生活基盤の崩壊を招いています。

また、観光バブルは一部の事業者に経済的恩恵をもたらす一方、佐竹さんのような一般住民には「生活環境の悪化」という負の側面のみを強いる傾向があります。これが地域社会における深刻な感情的対立の火種となります。

こうした地域社会の分断や環境悪化に対し、行政の対策が追いつくのを待つのは現実的ではありません。そこで一つの選択肢となるのが「住み替え」です。

佐竹さんのケースでは、急激な環境変化がきっかけとなりそうですが、地方移住においてこうしたミスマッチは決して珍しいことではありません。15年前の移住当時には予測できなかったSNSの普及やインバウンドの爆発的増加は、個人の努力では抗えない外部要因です。

せっかく住宅ローンを完済し、老後資金を蓄えていても、居住環境そのものが崩壊しては意味がありません。幸い、観光地化によって地価や物件価値が上がっているのであれば、家を高く売却して別の静かなエリアへ移る原資に充てることも可能です。

「終の棲家」という言葉に縛られすぎず、変化に応じて動ける柔軟性を持ち、資金的・心理的な準備をしておく。それが、地方移住における「まさか」に対応する鍵となるでしょう。