戦前期に計画された帝都東京の交通網 世界恐慌と資金難により夢と消えた幻の鉄道3社
「このあたりに他線へつながる鉄道が走っていたら便利なのになぁ…」。ホームで電車を待つ間、そんなことを思い浮かべたことはないだろうか。今から100年前となる昭和のはじめごろは、帝都東京に鉄道を張り巡らせようと、いくつもの鉄道会社が新しい路線の建設に名乗りをあげた。ほどなく、世界恐慌による公共事業の打ち切りや、日中戦争(1937/昭和12年〜)がはじまるなど、次第に日本国内は戦時体制となった。鉄道事業も迫りくる不況と資金難により、鉄道建設は中止、撤退へと追い込まれた。未成に終わった計画路線とは、どんなところを走る予定だったのか。当時の計画図をもとに、線路なき線路をたどることにしたい。
※トップ画像は、京王・井の頭線の明大前駅(世田谷区松原)〜永福町駅(杉並区永福)の間にある「玉川上水」の跨線水路橋。ここを通る電車は京王・井の頭線で、その左側に見える空きスペース2線分が、戦前に計画された通称「第2山手線」のために用意された線路用地だ=2026年1月21日、杉並区和泉
第2の山手線構想 〜東京山手急行電鉄〜
JR山手線(当時は鉄道省)が環状運転をはじめた1925(大正14)年ごろになると、鉄道沿線の宅地開発は郊外へと拡がりをみせていった。東京の鉄道は、山手線を基準として放射線状に線路が敷設されたこともあり、縦方向をつなぐ鉄道がないに等しかった。そこに目をつけた起業人たちは、こぞって帝都東京を縦横に結ぶ路線を計画した。
山手線のような環状構想を描く鉄道は2路線が計画され、そのうちの一つが、1921(大正10)年に起業した「東京電気鉄道」だった。この鉄道は、1926(大正15)年に社名を「東京山手急行電鉄」と改め、環状鉄道の建設を推進しようとしたが、折からの世界恐慌とその余波を受けて資金難に陥り、工事に着手したのは1932(昭和7)年のことだった。
当初の計画では、大井町駅(品川区大井)を起点にぐるっと東京を大回りする環状線とする計画だったが、その規模は日本を取り巻く経済情勢とともに大幅に縮小され、「C」の字を描くような路線形状となってしまった。それでも、大井(現・大井町)〜小山(現・武蔵小山/品川区小山)〜三軒茶屋(世田谷区太子堂)〜代田橋(世田谷区大原)〜中野(中野区中野)〜東長崎(豊島区長崎)〜下板橋(豊島区池袋本町)〜板橋(北区滝野川)〜田端(北区東田端)〜尾久(北区昭和町)〜北千住(足立区千住旭町)〜鐘淵(現・鐘ヶ淵/墨田区隅田)〜向嶋(京成線の廃止駅/墨田区八広)〜平井(江戸川区平井)〜洲崎(すさき/旧・深川区西平井町/現・江東区東陽のあたり)という、壮大なスケールには変わりなかった。
ところが、1936(昭和11)年になるとさらに規模を縮小し、終点を洲崎から駒込(豊島区駒込)までの31.2kmに改めた。そして、土地の収用が困難な地域を避けるように、途中の世田谷区を通るルートの一部も変更した。その区間には、今なお建設当時の痕跡を見ることができる場所がある。京王線の明大前駅近くを流れる現在は暗渠となっている「玉川上水の水路橋」がそれである。

東京山手急行電鉄あてに鉄道省から発出された免許状=資料/国立公文書館蔵

壮大なスケールを誇った東京山手急行電鉄の当初の路線計画図。地図上に朱書きで「の」の字のように描かれている=資料/国立公文書館蔵

「の」の字から「C」字を描くように縮小された東京山手急行電鉄の路線計画図=資料/国立公文書館蔵

地図上に「帝都電鉄」の名で記された東京山手急行電鉄の路線計画の一部。大井(大井町)〜駒沢=資料/国立公文書館蔵

中野〜駒込間に見る計画路線が点線で描かれている東京山手急行電鉄の計画図=資料/国立公文書館蔵

東京山手急行電鉄(大井駅〜駒込駅間)の列車ダイヤ想定案=資料/国立公文書館蔵
94年前に造られた水路橋は今も現役
明大前駅の近くに、井の頭線を跨ぐように造られた玉川上水の水路橋があるのをご存じだろうか。1933(昭和8)年に開通した京王・井の頭線を建設した当時、この周辺は高台であったがゆえに、土地を掘り下げて線路を敷設した。このため、地表を流れていた玉川上水は宙に浮くことになり、これを回避するため水路橋を建設したというわけだ。
架橋された水路橋の完成は1932(昭和7)年で、実に築94年にもなるコンクリート製の故老橋だ。工事は、帝都電鉄(建設当時の社名は東京郊外鉄道)が行い、当時は「玉川上水水路下越橋」や「玉川上水交叉水路函型隧道」と呼ばれていた。完成後は、「玉川上水交叉跨線水路橋」と呼んだ。
水路橋の下には当然、井の頭線が通っているわけだが、その線路は上りと下りの2線であるのに対し、よく見ると4線分のスペースが確保されている。永福町駅側を背にして水路橋を見ると、右側2線を井の頭線が通り、左の2線分は空間のままになっている。この空いている場所に、“第2山手線”と呼ばれた環状鉄道「帝都電鉄(旧・東京山手急行電鉄)」が走る予定だったのである。
当時の計画文書には、「(水路橋の)付近において井の頭線と帝都電鉄線(旧・東京山手急行電鉄線)の共同停車場(松沢駅)を設置し、線路交叉を為す」とある。しかし、初期のころの計画では、現在の明大前駅( 開業時の井の頭線の駅名は西松原といった )の場所に、「帝都電鉄線と井の頭線の駅」を造る計画はなかった。これは、井の頭線(渋谷急行電気鉄道)と帝都電鉄線(旧・東京山手急行電鉄)は、別々の会社だったため、歩調を合わせることはしていなかった。
ところが、1929(昭和4)年に渋谷急行電気鉄道の経営陣が刷新され、東京山手急行電鉄の社長だった利光鶴松氏(小田原急行鉄道→のちの小田急電鉄の社長)が、社長に就任したのだ。これにより両社は急接近し、井の頭線(渋谷急行電気鉄道)は、1931(昭和6)年に東京郊外鉄道(→東京山手急行電鉄から社名変更、のちの帝都電鉄)と合併した。これにより、井の頭線と帝都電鉄線はそれまでの計画を変更し、現在の明大前駅(当時は京王電気軌道の松沢駅)の場所に、井の頭線と帝都電鉄線の駅も併設するように計画を変更したのだった。
帝都電鉄線は、現・明大前駅の手前(渋谷寄り)で井の頭線に合流〜交叉(線路の順番を入れ替える)して、そのまま明大前駅へと進み、甲州街道と玉川上水の水路協をくぐり抜け、帝都電鉄線は右に逸れて中野駅方向へと向かう計画となった。井の頭線はその後、1933(昭和8)年に渋谷駅〜井の頭公園駅間が開業したが、帝都電鉄線はというと、1940(昭和15)年4月に「交通情勢に多大の変化を生じ、線路用地の買収もままならない」として「起業廃止」となった。結果、”第2の山手線計画”は中止となり、幻の鉄道として消え去った。
同じ会社の事業ならば、水路橋を建設するときに、将来の線増分(東京山手急行電鉄分)を見越して造っておこう、という考えがあったからこそ、いまでもその痕跡を見ることができるわけだ。余談だが、井の頭線を運営する京王電鉄が、1998(平成10)年6月まで「京王“帝都”電鉄」と名乗った理由には、この帝都電鉄が関係していたのだった。

明大前駅付近で東京山手急行電鉄(破線で描かれる)と井の頭線(渋谷急行電気鉄道)、京王線(京王電気軌道)とが交叉していることがわかる路線計画図。この線形は実際の施工計画とは異なり、明大前駅を経由していない=資料/国立公文書館蔵

玉川上水水路橋(玉川上水交叉水路函型隧道)の位置を示した地図=世田谷区が作成した現地案内図に筆者加筆

井の頭線の車内から見た「玉川上水交叉跨線水路橋」。左の2線分が帝都線用のスペースだった=2026年1月21日、井の頭線(永福町駅〜明大前駅間)

暗渠と化した玉川上水。この写真に見る奥側に水路橋(水路函型隧道)がある。明治大学和泉校舎正門前の歩道橋上から撮影=2026年1月21日、杉並区永福

暗渠と化した玉川上水の上を公園として整備した杉並区立「玉川上水公園」。入口にはモニュメントとして橋の親柱と欄干が残されている=2026年1月21日、杉並区永福

水路橋(水路凾型隧道)上を流れていた玉川上水は、1960年代はじめに水路橋の前後周囲は暗渠となり、橋上部分は導水管(写真左側の黒い管路)に切り替えられた。その導水管(水路)を挟むように左右に歩道が設置されているが、写真に見る右側の歩道は閉鎖されており通行できない=2026年1月21日、杉並区永福

明大前駅の井の頭線ホームのようす。東京山手急行電鉄(帝都電鉄線)の乗り入れを想定していたためか、敷地そのものが大きく確保されている=2026年1月21日、世田谷区松原

東京山手急行電鉄(帝都電鉄線)と井の頭線は、明大前駅と東松原駅の間で交叉しながら合流する計画だった。そのあたりの線路敷地が大きく確保されているのは、計画の名残なのだろうか=2026年1月21日、世田谷区松原
もうひとつの環状鉄道構想 〜大東京鉄道〜
第2山手線を江戸城を基準とした城西・城南地域に位置する鉄道とすれば、もうひとつの環状鉄道構想は、城東・城北地域を中心とした半環状に加えて、千葉・埼玉方面へと鉄路を伸ばす野望を抱いていた鉄道会社だった。その母体となったのは「金町電気鉄道」で、1927(昭和2)年に鶴見(横浜市鶴見区)〜金町(葛飾区金町)間の免許出願を行ない、翌1928(昭和3)年にの免許状下付を受けた。その年には「大東京鉄道」と社名を変更し、東京山手急行電鉄と似て非なる路線構想を描いていた。
当初計画された、鶴見〜金町(葛飾区金町)間の路線は、神奈川県(旭村、日吉村、橘村、中原町、高津村)〜東京府(玉川村、世田ヶ谷村、松沢村、高井戸村、和田堀内村、杉並町、野方町、中新井村、下練馬村、赤塚村、志村)〜埼玉県(戸田村、横曽根村、川口町、青木村、南平柳村、鳩ケ谷町)〜東京府(舎人村、伊興村、淵江村、花畑村、東洲江村、水六村、諸町村)を経由するという、壮大なものだった。
その後も、荻窪〜大宮(さいたま市大宮区)、新宿(東京都新宿区)〜中新井(なかあらい/当時の東京市北豊島郡中新井村/現・練馬区豊玉のあたり)と計画を推進していった。これと同時に、すでに鉄道敷設免許を取得していた北武(ほくぶ)電気鉄道と、東京大宮電気鉄道を手中に収めるなど、東京から千葉・埼玉方面をもカバーする鉄道建設を目論んだ。
具体的には、北武電気鉄道の計画路線として日暮里(にっぽり/荒川区西日暮里)〜三河島(荒川区西日暮里)〜西新井(足立区西新井栄町)〜舎人(とねり/足立区舎人)〜鳩谷(埼玉県鳩ケ谷市)〜越谷〜野田(千葉県野田市)と、東京大宮電気鉄道の巣鴨(豊島区巣鴨)〜板橋(北区滝野川)〜志村(板橋区志村)〜戸田(埼玉県戸田市)〜蕨(埼玉県蕨市)〜浦和(さいたま市浦和区)〜大宮、それぞれの鉄道敷設免許を手中に収めるなど、大規模な鉄道建設を企てていたが、やはり不況下となる時代背景もあり、1935(昭和10)年に「起業廃止」を申請し、すべての計画は頓挫した。

大東京鉄道の計画当時の文書や図面類をつづった公文書の簿雑=資料/国立公文書館蔵

金町電気鉄道(→のちの大東京鉄道)が昭和2年11月5日にてう同省あてに提出した電気鉄道敷設免許申請書=資料/国立公文書館蔵

大東京鉄道の認可や免許に関することが記された公文書=資料/国立公文書館蔵

大東京鉄道の路線計画が記された地形図=資料/国立公文書館蔵

鶴見駅から伸びる大東京鉄道の計画路線。大井町駅から伸びる東京山手急行電鉄(東京郊外鉄道→のちの帝都電鉄線)が併記されている=資料/国立公文書館蔵

大東京鉄道の路線計画が記された地形図=資料/国立公文書館蔵

千葉・埼玉方面へと延びる大東京鉄道が記された地形図。路線計画が幾度となく変更されていることが読み取れる=資料/国立公文書館蔵
いまでいう東陽町発→千葉ニュータウン経由→成田行き 〜成田急行電鉄〜
東京メトロ東西線と京成成田スカイアクセス線がつながるような路線として計画された鉄道があった。起点は、東京山手急行電鉄にも出てきた洲崎(すさき/江東区東陽のあたり)。「成田急行電気鉄道」と名乗ったその鉄道は、1923(大正12)年12月に免許申請を出願し、その経路はまさに東京メトロ東西線と千葉ニュータウンを経由し成田とを結ぶ、現代にありそうな路線そのものだった。
経由地は、当時の地名だと東京市(深川区東平井)〜東京府(南葛飾郡砂村、葛西村)〜千葉県(東葛飾郡南行徳村、中山村、法典村、鎌ヶ谷村、千葉郡豊富村、印旛郡白井村、公津村、成田町)。現代なら、洲崎〜砂町〜葛西〜南行徳〜中山〜船橋法典〜鎌ヶ谷〜豊富〜白井〜公津の杜〜成田、といったところだろうか。
経営の内容も、本業の鉄道のほか、沿線の住宅開発、遊園地などの施設を為すと書かれており、先見の明があったのでは、と思う構想だった。しかし、この鉄道は「(当時)目下の交通状態において敷設必要なきものと認められる」として、1924(大正13)年6月にその申請は却下・返戻されてしまった。
その後は、東京成芝電気鉄道として1927(昭和2)年に千葉県印旛郡成田町(現在の成田市)〜同・本埜村(もとのむら/現・印西市)などの鉄道敷設免許を出願して再起を図るが、1928(昭和3)年に利権争いに端を発した発起人会(46名)の内乱もあり、免許(成田町〜松尾町)をその反乱者たる8名の発起人らが起業した「成田芝山電気鉄道」へと譲渡されてしまう。その成田芝山電気鉄道も、1929(昭和4)年に「成芝急行電鉄」と社名を変えた途端、9名の発起人のうち3名が脱退するなど、安定経営とはいかなったようだ。
これと前後するように、東京成芝電気鉄道は当時の政権を握っていた立憲政友会による濫許と“我田引鉄”によって、翌年に洲崎(東京市深川区東平井町)〜安食町の鉄道敷設免許を取得する。その後、東京成芝鉄道は解散し、免許は印旛電気鉄道(→のちの成田急行電鉄)へと渡ることになる。
その後誕生した成田急行電鉄は、1929(昭和4)年にこれまでの二つの鉄道から免許を引き継ぐが、他の鉄道と同様に資金難に苦しみ、ライバル路線となった京成電気軌道(→のちの京成電鉄)から反発を受けるなど、思うように鉄道建設を進めることができなかった。そして、設立から11年が経過した1940(昭和15)年に「起業廃止」を申請し、すべての計画は消え去ってしまった。この時代の鉄道経営は、資本や財力がないと為せない事業だった、という一言に尽きるだろう。
帝都東京における戦前期の鉄道起業や路線計画の話は、目黒玉川電気鉄道(目黒〜鎌倉)、目黒蒲田電鉄(渋谷〜成城学園前・五反田〜京浜蒲田・旗の台〜池上)、鶴見臨港鉄道(大森〜浜川崎)、西武鉄道(高田馬場〜早稲田)、京成電鉄(押上〜浅草雷門)などなど、尽きることがない。もったいぶるわけではないが、これらの話はまたの機会に。

成田急行電気鉄道として免許申請を行った際の申請書類の写し。大正12年8月1日に鉄道省へ提出したもの=資料/国立公文書館蔵

成田芝山電気鉄道が、施工認可申請期限延期を願い出た際の公文書。東京成芝電気鉄道から免許譲渡を受けたことが記されている=資料/国立公文書館蔵

成田芝山電気鉄道が、昭和4年7月1日付で成芝急行電鉄に社名を変更した際の届出文書=資料/国立公文書館蔵

成田急行電鉄の計画路線が描かれた地形図。中央下寄りに右書きで「鉄電行急田成」と書かれているのが読み取れる=資料/国立公文書館蔵
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。
