来年のNHK大河の主人公豊臣秀長とその兄・秀吉はどんな関係だったのか。歴史の謎を探る会(編)『秀長と秀吉 豊臣兄弟の謎がわかる本』(KAWADE夢文庫)より紹介する――。(第4回)
豊臣秀吉像(画像=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■鶴松の誕生が変えた豊臣家の命運

淀殿が男子を産むと、秀吉は「棄丸」と名付けた。棄て子はよく育つという迷信が由来である。のちに「鶴松」と改名しているが、改名の理由と時期はわかっていない。

鶴松誕生の年、秀長は秀吉の命で淀城の普請に携わっていた。開始時期は天正17(1589)年正月30日。淀殿の居城であるため、鶴松誕生後を想定した工事である。大和郡山への帰還は5月12日。その約2週間後に鶴松は誕生した。

嫡男誕生によって、秀吉の後継問題は大きく揺らいだ。『鹿苑日録』によると、6月6日には早くも「当壁(後継者指名)の命」があったと記されている。養子・血縁者による後継は見直され、有力候補と目された秀秋も候補から外されて丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)に飛ばされた。

おそらく秀長・秀次への政権移行も白紙となったはずだ。鶴松誕生を知った諸大名は続々と秀吉のもとに参上し、寿ぎの言葉と品々を贈った。9月には公家や大名の行列をともない大坂城へと上坂し、「生まれながらの天下人」であることを世間に知らしめている。

翌天正18(1590)年2月13日には聚楽第に入り、北政所や有力公家と盛大な宴が催された。満1歳に満たないうちから各所にお披露目されるところに、秀吉の喜びようと期待がうかがえる。

■秀吉を揺さぶった「2つの正義」

しかし、鶴松誕生と権力移行の白紙化により、秀吉と豊臣一門とのあいだに亀裂が生じることになるのである。

鶴松誕生で混乱したのが関白職の行方だ。秀吉は近衛家と二条家間の争論を利用して関白の座につき、豊臣姓を賜わった結果、自らの血筋が関白を継承していく体制をつくり上げた。

しかし実子がいなかったので、関白の継承先はいなかった。『関白職幷六宮御身躰文書案』によると、秀吉は後陽成天皇の弟である六宮(八条の宮智仁親王)に関白職を譲与する予定だった。関白職は将来的に近衛家へと返還すると約束したうえでの就任だったので、明らかな盟約違反である。

それでも秀吉は後陽成天皇と「御契約」を結び、六宮を猶子(実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子)とした。天皇に奏上した時期は、聚楽第行幸かその直前だとされている。近衛家も相手が天皇の弟では口を挟めず、関白の後継問題は一応の解決をみた。

そこで起きたのが、嫡男・鶴松の誕生だ。後陽成天皇は六宮との契約を白紙とし、鶴松に関白職を譲るべきと意見した。秀吉は「六宮様との御契約を破るのは忍びなく、鶴松もまだ幼少なので先はわからない」と辞退している。

■弟・秀長には託されなかった

それでも天皇は幾度も譲与をすすめ、ついには「誰であっても秀吉が相続にふさわしいと認めるなら、譲与しても差し支えなし」と言い渡した。

ここで秀吉も折れ、鶴松への関白譲与を決めたとしている。『天正十八年正預祐父自記』によると、その時期は天正17(1589)年12月1日であるようだ。

秀吉が再三の叡慮(天皇の意向)を拒み続けたのは、関白譲与にかんする言質を取りたかったからだとされる。「秀吉の意思で関白を相続可能」とする天皇の発言により、実子以外の血族や幼児への御与奪(譲与)への道が開かれた。これによって豊臣家の相続と関白譲与を一体化させ、関白職を秀吉の一門で独占することも可能になった。なお、鶴松の関白任官は、乳児であるため延期となっている。

武家関白制度と鶴松任官をつなげる騒動。それは、秀長にとって関白任官と後継者指名の道が閉ざされたことを意味する。

■家臣の不祥事が兄弟関係に影を落とす

ただ、秀長がそれらを狙っていた根拠はなく、秀吉の決定に異を唱えた形跡もない。だが嫡男誕生の前後より、兄弟間がこじれ出したのは事実だ。不仲の始まりは家臣の不正売買事件である。紀州の材木は木奉行の吉川平介が差配を任されており、大坂に運搬して販売を行なっていた。

その際に代金を多めに受け取り、差額を着服していたことが天正16(1588)年12月に発覚したのである。大仏殿建立用の材木だったこともあり、平介は秀吉の命で12月5日に西大寺で処刑された。そして怒りの目は秀長にも向けられている。

『多聞院日記』天正16年12月7日条によると、秀長は天下の面目を失ったと世間に揶揄されていたようだ。改易や処分こそなかったが、『多聞院日記』天正17年正月5日条によると、謝罪のため上坂した秀長との対面を秀吉に拒まれている。

この時期には淀殿の懐妊が発覚しており、心情の変化が秀吉に影響を及ぼしたとも考えられている。ただ、『旧記雑録後編』によると、正月1日に諸大名と並んで秀吉への新年祝賀の行事をしている。関係性は多少なりとも改善はしていたようだ。

そうした不安定な状況のなかで淀殿懐妊が発覚し、秀長は淀城普請を命じられることになったのだ。

■信頼から不信へ。兄弟の間に広がる溝

鶴松誕生後、秀吉の身内に対する風当たりは強まっていったという。天正17年10月18日には、領地不足を不服とした豊臣(小吉)秀勝に秀吉は所領没収と勘当を言い渡した。

小田原の戦い前後に和解するが、鶴松の誕生を境に一門への風当たりが強まっていたとも考えられる。それは秀長に対しても同じだったという。天正17年9月朔日(1日)に、秀吉は全国諸大名に夫人を連れた3年間の在京を命じた。そのなかには、秀長と郡山1万石以上の知行衆の夫人らもいた。

豊臣版の参勤交代というべき人質政策の対象とされたことに、秀吉に芽生えた弟への不信感が表れているともいえよう。翌月の10月、秀吉は奈良へと出向いている。秀次や宇喜多秀家などの有力武士と公家衆を引き連れた大所帯であった。

目的は鷹狩りと東大寺蘭奢待(正倉院に収蔵されている香木)の切り取りだったと、『多聞院日記』同年10月15日条は記す。

秀吉らの宿舎は興福寺の諸坊があてがわれ、在家信者が奈良をあげてもてなした。しかし蘭奢待の切り取りは中止され、鷹狩りだけを楽しんだあとに郡山へと赴いた。そして20日に大坂へと一行は帰還している。

■領地・郡山で姿を見せなかった秀長

この行程に、秀長は一切関与していない。大和は秀長の領地であり、関白秀吉の下向とあれば、かかわらないのは不自然である。

家康や毛利家相手のように、自ら出迎えてもおかしくはない。19日には郡山へと移動し、雨によって20日まで滞在しているというのに、秀長の動きはまったく記録されていない。体調不良のためともいうが、秀吉との関係の冷えこみを表しているともいわれる。だが実際の理由は定かでない。

家中が嫡男誕生に沸くなかで、秀吉の天下一統も大詰めを迎えていた。関東最大勢力の北条家は秀吉の関東・奥州の惣無事を拒んでいたが、婚姻関係にある徳川家康の仲介で天正16(1588)年8月22日に臣従を表明した。

だがその見返りとして、真田家との沼田(現在の群馬県沼田市)領有権問題の解決を秀吉は迫られた。秀吉は沼田城を含む上野国利根郡(同群馬県北東部)の大半を北条家、それ以外の吾妻郡(同)を真田家の領地とした。

さらに家康には真田家への代替地の引き渡しを命じ、信濃国伊奈郡(同長野県南部)が与えられることになる。こうして領土問題は解決し、当主氏直の父である北条氏政が天正17(1589)年中に上洛することになった。

■天下統一目前、病に伏した「豊臣の柱」

ところが、11月3日に北条家家臣の猪俣邦憲が真田家の名胡桃城(現在の群馬県利根郡みなかみ町)を奪取してしまった。関白の裁定を無視した所業に秀吉は激怒し、11月24日に北条征伐の意向を示す。

北条家には当主上洛による弁明を命じるが、氏直はこれに応じなかった。この態度を受けて、秀吉は12月10日に全国諸大名へと北条征伐の陣触(出陣命令)を発する。こうして天下一統前最後の合戦、小田原の戦いが幕を開けた。

2024年の小田原城天守(画像=Akonnchiroll/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

秀吉が小田原の戦いに導入した兵力は約19万。上杉景勝、毛利輝元、前田利家、黒田官兵衛などの有力大名や側近の評定衆に加え、九州から伊勢志摩までの水軍をも導入した大兵力である。

その先鋒を任されたのは徳川家康だ。領国が北条家の伊豆・相模(現在の静岡県から神奈川県の一部)と隣接していたことと、婚姻関係にあるため謀反の噂があったこと、そして関東惣無事遂行の責任者であったからだ。

ただし、この決戦に秀長は参戦していない。九州攻めを境に、秀長は体調不良に襲われていた。

■兄を支え、心をすり減らした「陰の関白」

天正15(1587)年11月ごろから体調を崩し、翌年の6月から湯山(現在の有馬温泉)に湯治に出かけている。ここでは回復したが、天正17年11月4日以降からまたも湯山へ向かっていた。

歴史の謎を探る会(編)『秀長と秀吉 豊臣兄弟の謎がわかる本』(KAWADE夢文庫)

このとき、徳川家康は11月4日付で藤堂高虎宛てに見舞いの書状を出している。『御神事之記』では風邪を患っていたとしているがその症状は重く、『多聞院日記』天正17年12月3日条では、湯山からの帰還途中で症状がぶり返し、京都で療養したと記されている。

興福寺など奈良の有力寺院が快癒の祈禱を行なっても病状は回復せず、天正18(1590)年正月以降も京都にとどまっている。結局、秀長は小田原攻めには参加せず、3月1日の秀吉出陣を見送ることになる。

秀長の病は連日の接待疲れが祟ったとも、鶴松誕生からの心労が重なった結果ともいわれている。

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歴史の謎を探る会(レキシノナゾヲサグルカイ)
歴史の中に埋もれている“ドラマチックな歴史”を楽しむべく結成された、夢とロマンを求める仲間たちの集まり。学校では教わらない史実の裏側にスポットを当て、一風変わった視点からのアプローチには定評がある。
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(歴史の謎を探る会)