日本のサッカーは強くなっているのか。強くなっているとすれば、どの程度なのか。カタールW杯でクロアチアにPK負けしたことで、それはより分かりにくい混沌としたモノになっている。

 勝利していれば自己最高位であるベスト8だったが、ベスト16は2002年日韓共催W杯、2010年南アフリカW杯、2018年ロシアW杯に続く4度目の成績だ。開催国特権に恵まれた2002年を除けば3度目となる。それらと比べたとき、日本のレベルは上がっているように見えるが、この話をするときには複合的な目が不可欠になる。

 この欄でも述べてきたように、競技力が常に右肩上がりを続けるサッカー競技の特性に従えば、自らの過去と比較したとき、現在は常に勝る。いつでも現在が最強だ。ボールを操作するのは足なので、手でボールを扱う球技に比べて競技性に伸びシロがある。技量的に改良の余地が残されている。プレッシング戦術の浸透で、プレッシャーのきつい環境設定になっていることも、技術の向上に拍車が掛かる原因となっているが、いずれにせよ、日本だけが巧くなっているわけではないのだ。比較対象をその過去に求めることは、サッカー競技の本質から外れる行為になる。

 問われているのは伸び率だ。冒頭で分かりにくい要因として引き合いに出したクロアチアだが、視点を変えると、日本の現在位置を探る上で貴重な対象として浮かび上がる。同国とはW杯本大会で今回のカタールW杯を含めて過去3度、対戦している。これはベルギー、コロンビアの各2回を抑えて最多の数になる。

 初回は1998年フランス大会(0-1)。2回目は2006年ドイツ大会(0-0)、そして2022年のカタール大会(1-1、延長PK負け)だ。基本的に毎度、接戦だが、試合内容は過去2戦が40対60だったのに対し、今回は45対55の関係だった。先制点を奪い、少なくとも前半は53対47ぐらいの関係で勝っていた。それが、90分の戦いで50対50の関係に引き戻され、延長で45対55に引き離され、終盤は日本がPK戦に逃げた格好だった。

 PK戦には敗れても、内容が50対50以上ならば、過去との比較で日本の進歩は明らかになっていた。しかし、その弱々しい終わり方を見ると、差は詰まったと胸を張ることはできない。

 だが、この展開は必ずしも選手の力量を反映したものではない。延長PKに逃げるような、チャレンジャー精神に欠ける守備的サッカーの旗振り役を演じていたのは他ならぬ森保監督だ。交代枠を使い切らず、後方を固める5バックを採用したことと45対55の展開は、深い関係にあった。

 過去2回のクロアチア戦(1998年と2006年)は、監督が誰であれ、勝利を収めることは難しそうだったが、今回は上手く戦えば、少なくとももっとよい終わり方ができたと考える。日本がレベルアップしたか否かを語る時、監督采配が欠かせぬ要素であることが、2018年ロシア伊大会に西野采配に続き、明らかになった。

 選手、監督だけではない。監督を招聘した人物(田嶋会長)、監督を評価する人物(反町技術委員長)しかりだ。日本サッカーの世界的な偏差値は様々な要素から構成されている。サッカー協会、Jリーグ、各クラブ、メディア、ファン、審判、育成、さらにはスタジアムなどもその大きな要素の一つだと考える。そして各要素は影響し合う関係、悪く言えば、お互いがお互いを相殺する関係にある。今回のクロアチア戦ではないが、選手の最大値が監督采配によって発揮されないケースがある。

 日本人選手と日本人監督、レベルが高いのはどっちという問題で、監督は選手を超えていないと筆者は確信しているが、その統括をしている協会側にその自覚は薄い。日本のサッカー偏差値を押し下げている要素であることに気付けずにいる。