長期思考を妨げるハードルをどう乗り越えるか

──はじめに、翻訳者の視点から『グッド・アンセスター』を紹介してください。

「「未来世代から何かを奪えると思う傲慢さ」:僧侶・松本紹圭に訊く「わたしたちは『グッド・アンセスター』になれるか」」の写真・リンク付きの記事はこちら

いま、世界は気候変動や核の危機など、地球規模の課題を抱えています。しかし、企業は四半期決算に、政治は次期選挙に、わたしたち個々人はスマートフォンの通知に追われています。短期的な成果と瞬間的な反応に無自覚的にも縛られて、短期思考に陥っているのです。

本書『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』は、わたしたち一人ひとりが、地質学的な時間軸「Deep Time(ディープタイム)」の視点をもち、長期思考によって未来世代を含めて社会をつくる必要性を説いています。そして、世界各地の社会制度や国家政策の歴史や、さまざまな分野の研究者、団体、市民運動などによる取り組みを検証すると共に、今日の潮流や注目すべき事例を紹介して、それらの内包する課題や可能性を探ります。同時に、長期思考を養う極めて実践的な方法論も「心の中の工具一式(ツールキット)」として提供されています。

常に変わり続ける世界の中でよりよい未来をつくるために、「ディープタイム」の中で長期的視野と思考によって「いま」を生ききる大切さが理解されうる一冊だと思います。

──非常にやわらかく読みやすい日本語で書かれていたので、翻訳は初めてと知って驚きました。なぜ、本書を翻訳することになったのですか。

ローマンとは、リスボン発のグローバルコミュニティ「House of Beautiful Business」での対談で知り合いました。テーマは本書のタイトルと同じく「グッド・アンセスター」。おそらくぼくは「先祖供養をしてきた日本仏教の僧侶」という立場から招かれたのだと思います。読むとすごくいい本だったから、日本語訳がないなら自分が翻訳してもいいんじゃないかと思いました。

ポール・ゴーギャンの作品に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という絵画があります。ぼくは幼いころからこれと同じ問いを抱き続けて、社会の仕組みから距離をとる、寺をもたない僧侶の道を選びました。「わたしたちは、よき祖先になれるだろうか」という本書のテーマは、自分が問い続けてきた問いへのブレークスルーがあると直感したのだと思います。

松本紹圭|SHOKEI MATSUMOTO
光明寺僧侶、未来の住職塾塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。2002年、東京大学文学部哲学科を卒業後、僧侶に。10年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。12年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講。著書多数、『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』は世界15カ国語以上で翻訳出版。

またぼくは、ある概念を自分なりに受容して伝わるかたちに表現し直す“翻訳”が得意でもあります。宗教においては、こうした“翻訳”がずっとおこなわれてきました。例えば、2,500年前のブッダの教えを、日本の法然や道元らは鎌倉時代の状況に合わせて翻訳したと言えるでしょう。いい出合いがあれば、本の翻訳もしてみたいという気持ちがありました。

──日本仏教は、先祖供養を重視してきた歴史があります。「ancestor」を「先祖」ではなく「祖先」と訳したところにも、松本さんなりの“翻訳”があったのでしょうか。

そうですね。お墓に「先祖代々之墓」と記されるように、「先祖」という言葉は血縁のニュアンスが強いですよね。でも、いまの日本では家族の単位が小さくなり、そのあり方も多様化してきました。結婚をせず、子どもをもたずに人生を送る人も増えています。

しかし、ぼくらが過去から受け取っているのは、血のつながりによるDNAだけじゃない。この世界には、ぼくらが生まれる前の時代を生きた、名も知らない人たちが遺したもので溢れています。「ancestor」をすべての過去世代として捉えてもらうために「祖先」と訳しました。

もうひとつ、先祖という「ancestor」を祖先という文脈に橋渡しできれば、日本仏教のユニヴァーサルな価値の“翻訳”につなげられるのではないかとも考えています。

未来世代に対する公正さをどうつくるのか

──『グッド・アンセスター』は、長期思考によって「世代間の公正をどうつくるか」を深く論じています。未来世代とともに、コモンズ(共有地、共通資源)としての未来を考えることは可能だと思われますか。

本書では、未来世代のウェルビーイングを確かなものにするために、世代間の公正に基づいた社会をつくることについても論じています。またローマンは、グレタ・トゥーンベリを含む「時の反乱者たち(Time Rebels )」の運動の拡がりに、現代の民主主義のあり方を変える可能性を見ています。

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ぼく自身も、このテーマについていろんな人と対話を重ねています。先日は、独立数学者の森田真生さんと、彼の新著『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』を巡って言葉を交わしました。

同書では「未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにも与えられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか」と問いかけています。森田さんはまた「未来世代の生存条件を不当に剥奪していることへの罪の意識より、現在自分が受け取っている恵みに対する感謝の思いの方が人を強く突き動かすことがある」とも書かれていて、とても共感しました。

──世代間の公正を考える動機として「罪の意識」より「感謝の思い」のほうが強いのではないかということですね。

さらに言えば、「未来世代から奪うことができる」という考え自体がとても傲慢だと思います。例えば、地球の平均気温が2℃上がったなら、未来世代はその世界の中で、ぼくらが思いもよらなかった仕方で、しなやかに生きていくことだって充分にありえます。それを、いまのぼくらの感覚で「あなたの生まれる世界はディストピアです」と決めつけることはできない。これはすごく重要なポイントだと思うんです。

1万年後にも影響を及ぼすテクノロジーとどう向き合う?

──現代のテクノロジーは、いまや人類の長期的思考の能力をはるかに凌駕する、1万年単位で地球や文明に影響を及ぼすものに進化しています。わたしたちはこうしたテクノロジーとどのように向き合えばよいのでしょうか?

『グッド・アンセスター』では、短期的にドーパミンを刺激するスマートフォンは、草の根民主主義を再生させるポケットサイズのツールにもなりうる可能性を示しています。例えば、20万人以上のマドリード市民が予算編成プロセスに参加するデジタルプラットフォーム「Decide Madrid」などの事例も紹介されています。

つまり、テクノロジーを使う側であるわたしたちの倫理が問われているのだと思います。テクノロジーの発展を止めようとするのではなく、テクノロジーを使うテクノロジーが必要になっていくのだろう、と。

──「テクノロジーを使うためのテクノロジー」とはどのようなものでしょうか。

ぼくは僧侶として、宗教から貢献できるものがあるはずだと考えています。宗教は、ゴーギャンの絵画が投げかけた普遍的な問い、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を考える、ある種のテクノロジーとして発展してきたと言えます。ぼくは、そこに貢献できないような宗教ならいらないとさえ思っています。

ただ、宗教というテクノロジーを宗教者だけにもたせておいては、充分に使いこなせないままになってしまいます。グーテンベルグの印刷技術から現代のプログラミングに至るまで、どんなテクノロジーも民主化の歴史をたどります。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いを宗教者に任せておくのではなく、みんなで深めていくことによって、宗教というテクノロジーを民主化していくなかで、テクノロジーと向き合うテクノロジーも発展させられると考えています。

──民主化のプロセスでは新しいコモンズが生まれる可能性があります。宗教というテクノロジーの民主化においては、どのようなコモンズが生まれると思われますか。

コモンズには、コモングラウンドとなる共通の言語や体験が必要です。多様性の時代においては、コモングラウンドを見つけるのは難しくなっています。しかし、「死」や「死者」は人類にとって絶対に避けられないもの。希少なコモングラウンドになりうるのではないでしょうか。宗教の民主化において、死にまつわる部分をずっと担ってきた日本仏教のお寺は、物理空間としてのコモンズの可能性があると思います。

よりよき祖先になるために最初にできること

──わたしたちの幸せを願っていたはずの過去世代が、戦争を起こし、負の遺産を残すテクノロジーを開発してきたのも事実だと思います。わたしたちもまた過ちを犯すかもしれないなかで、どんなスタンスで未来世代のために行動するべきなのでしょうか。

忘れてはいけないのは、「未来世代のためによき世界であってほしい」と願うぼくたちもまた、100年前の人にとっての未来世代であり、同じように願われた人でもあることです。

100年前の世界を振り返ると、第一次世界大戦(1914〜18年)が終結して、世界大恐慌(29〜30年代後半)が起きています。世界的な惨事のはざまにあって、20年代は戦争への反省から国際連盟が発足し、米国では女性参政権が認められ、日本では普通選挙権や言論・結社の自由を求める大正デモクラシーが起きました。

どんな状況にあっても、その時代のパラダイムのなかで、精一杯考えて行動した人たちがいたこと、彼ら/彼女らから受け継いでいるものがあることを忘れてはいけない。過去世代に願われた人としてぼくたちも「Life is good」を生きて、よりよき祖先であることを願うなかで、自分なりの発想で社会の課題に取り組んでいけたらよいと思います。

──「よき祖先」よりも「よりよき祖先」という言葉のほうが幅がありますね。

本書を翻訳しているとき、台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンと言葉を交わす機会がありました。「これからの人類にとって、本当にわれわれがもつべき最も重要な問いは何ですか?」と質問すると、「社会の参加者全員がよりよき祖先になれるような、社会的規範の形成とインフラの構築はどうすればできるのか」と答えてくれました。

翻訳を終えたいま、オードリーの「よりよき祖先」という表現には、実は重要なニュアンスが含まれていたことに気づきました。わたしたちがいまという時代のパラダイムのなかにいる以上、常に課題の設定そのものに限界があります。また、未来は予測不可能性を含みますから、絶対的なよき祖先にも悪い祖先にもなることはできません。

「better ancestors」という複数形には、「自分がよき祖先になるぞ!」と個人として力むのではなく、「わたしたちがよき関わり合いのなかでよりよき祖先たちになっていくんだ」という、どこか他力的なニュアンスがあります。残された者の視点から見てみても、個人として立っているうちは、まだまだ充分に祖先じゃないというか。複数形でこそ、本当の祖先という感じがします。

ローマンから投げかけられた「わたしたちはよき祖先になれるだろうか」という問いに対して、オードリーを含めた東アジア的な翻訳で、「よりよき祖先であるためにぼくらは何ができるんだろうか」というレスポンスを返せるのかもしれないと思っています。「よりよき祖先」になるには、ある種の慎みをもつべきだと思うんです。

──未来世代への慎みをもちながら、よりよき祖先であるためにまずわたしたちにできることは何でしょうか。

いますぐにできるのは隣人を助けることでしょうか。ぼくらは未来世代どころか、実は隣にいる人のことをどうやって助けるのが正解かもわかっていません。しかし、未来世代と違って、隣人からはその場でフィードバックをもらえます。それを確かめながらやっていくことが、よりよき祖先への道につながっていくのだと思います。

──日本での翻訳出版後、さまざまな感想が届いていると思います。翻訳者として、本書を起点として始まることにどんな期待がありますか。

おそらく、本書を読んだ方は「確か日本文化には長期思考的なものはたくさんあった」と納得すると思うんです。だけど、実際にはかなり短期思考的になって生きています。まだぎりぎり受け継げるタイミングだと思うので、それぞれの場所で長期思考的な取り組みをつくり直していけたらうれしいです。

ぼく自身も、本書が起点となって日本仏教の見方、これからできそうなことの射程がずいぶん拡がりました。僧侶としては、先人に思いを向ける習慣を大事にしてきた伝統仏教のいとなみにアクセスできます。改めて、血のつながりを越えてたくさんの祖先から恵みを受け取っている感覚をみなさんと共有できたら、現代仏教僧としてのぼくも、よりよき祖先になれそうです。