夏・第1夜「計画する男」


「それでさ、新冠(ニイカップ)の奥に行くと、信じられないくらい神秘的な場所があるんだ。

観光地なんかじゃない。僕が小さい頃から親父と山菜を採りに行く、大切な秘密の場所だ。…大切な愛華にも見てほしいな」

夫以外の男性からこんなふうに囁かれると、退屈で孤独な転勤妻のギスギスした心が癒される。

私は喜びを噛みしめながら、それを表に出さないように、「ふうん?」と微笑んで見せた。人妻の余裕で、独身の彼の焦燥感を煽る。

アウトドアには興味がないけれど、「禁断の恋人」と北海道の美しい自然の中で密会する自分を想像して、体温が上がった。

しかも、大切な場所に連れて行きたいなんて、独身の彼らしい、清潔ないじらしさを感じる。

「わかった。日帰りでいいんでしょう?なんとかするわ」

私の言葉に、彰人は同い年の31歳だというのに、少年のように無邪気に笑った。

「本当!?嬉しいよ。僕たちは人目があるところだと、いつもコソコソしているけど…その場所なら誰にも会わないから堂々と手をつなげる。どこに誰と行くのかは、二人だけの秘密だよ」

私の胸は、期待でいっぱいになった。


北海道で暮らす転勤妻・愛華が、背徳の秘密を抱えたきっかけとは?


札幌での邂逅(かいこう)


外資系の製薬会社でMRをしている夫の慎一は、年俸こそよかったが、転勤があることが問題だった。

「半分は東京だし、日系の会社ほど地方異動はないから」と言ったのに、結婚して1年、去年のはじめに札幌転勤になったときは閉口した。

「札幌のタワーマンションなら住みやすいし、東京とさほど変わらないよ」と友人たちに言われて、気を取り直したのもつかの間。

「僕は仕事で車を使うし、愛華も北海道で車ナシはきついだろ?駐車場2台分必要だから、市内のタワマンだと無駄なコストがかかるよ。家賃補助は月12万円と決められてるんだ。

それよりも、僕は別荘みたいな一軒家に住んでみたい。せっかくだから、東京じゃ経験できないことをしなくちゃ」

慎一は、そういうと、札幌市内ではなく近郊の北広島市で、小高い丘の上の一軒家の資料を見せてきた。

家賃は15万円で、車が2台平置きできる。しかし駅徒歩39分の表記にうんざりして突き返した。

だいたい東京生まれ東京育ちでマンションしか住んだことがない私に、北国の一軒家の管理などできるはずもなかった。

「無理よ。雪道をどのくらい運転できるか、自分でも自信ないし…」

しかし、強引に東京から内見に連れていかれると、たしかにその物件は素晴らしいものだった。

なんと小さいが暖炉まであり、田舎のモルタルを想像していた私は、正直言って驚いた。

「ここに住んだら、週に1、2度は家事代行を頼もう。愛華が掃除するには、ちょっと広すぎるもんな」という言葉にも釣られて、うなずいてしまう。

しかし、東京で友達からの熱烈な送別のあとに引っ越したその家での生活は、幽閉という言葉さえ浮かぶほど退屈だった。

中学から私立一貫校のあと慶應に進学し、楽しくて生活レベルが同じ友人が指数関数的に増える一方だった東京生まれの私は、自分の特殊性について無知だった。

見知らぬ片田舎の一軒家で、仕事も友人もなく暮らすということに適応できる人間と、できない人間がいるのだ。私は後者だった。

東京では全てを持っていたのに、ここでは何一つ持っていない。

フラストレーションはの矛先は、こんな境遇に私を追いやった夫に向き、雪で思うように外出できない中でイライラすることが増えていく。




そんな人生のエアポケットに現れたのが、慶應の同級生・名波彰人だった。

去年の初夏のことだ。

札幌に一人で買い物に行ったとき、ランチタイムに百貨店の中にある人気のイタリアンに入ると、隣の席に彼が座っていたのだ。

「愛華!?びっくりしたなあ、なんで札幌?旅行か?」

屈託なく笑う彰人が、迷わず私のテーブルに移って来た時。

引っ越してきて2ヶ月、一人も友人ができなくて人と話すのに飢えていたからだろうか、思わず懐かしくて涙ぐんでしまった。

大学時代の男友達と、気楽で楽しかった頃と同じようにおしゃべりに興じるほど、楽しいことはなかった。

だから別れ際に、連絡先を改めて交換してしまったのも…その後何回か食事に行き、深い関係になってしまったのも、夫を裏切る、という話とはまた別次元の話だったのだ。



「周囲の人に、どこそこに山菜を採りに行くとか言わないでよ。秘密の場所を荒らされたくないからさ」

「言わないよ、だいたい言うような友達はいないもの」

実家が北海道でガソリンスタンドやホテルを広域に経営しているという彰人は、大学卒業後に大手商社に勤めたあと、30を機に家業を継ぐため北海道に帰っていた。

社会人になってからは疎遠になっていたから、そんなにも名家のおぼっちゃまだとは知らず、複雑な気持ちにもなった。学生時代に知っていたら、もっと違うふうに彼を見ていたかもしれない。

「じゃあ明日、愛華の家の近くのショッピングモールの駐車場に車停めて待ってるよ。トレッキングのあとは、帰り道に温泉入ってゆっくりしよう。心配ない、夜までには送るよ」

それを聞いて、私は体の奥がしびれるような感覚があった。

彰人はきっと、「あの話」の続きをするつもりだ。明日が待ちきれない。


北海道の秘密のトレッキングで、予想もしない事件が起こる。


緑の沼


「わあ…静かで素敵なところね」

北広島からドライブすること1時間、あっというまに自然豊かな景色に変わる。

午前11時頃、私たちは車を降りた。国道沿いのちょっとした場所に車を止めると、彰人が嬉しそうに道なき道を先導してくれる。

「熊が出ることもあるからさ、食事はトレッキングが終わってから、午後ゆっくり温泉旅館でとろう」

「え、クマ!?熊が出るの?ここに?いやよ、私、そんなの」

「大丈夫、だからさっきタバコ吸っただろ?熊はタバコのにおいが嫌いなんだ。それにこっちから音を出してれば近づいてこないよ。大丈夫、車でここまできちゃえば、歩くのは30分くらいだ」

こんなとき、いくら大学が同じだからと言って、彰人とはまったく違う世界で育ったのだと実感する。彼はこういう時に身を守る術は熟知しているようだった。

この秘密の散歩場も、私には行ってみようとも行きたいとも思ったことがないようなところだ。

森林の中は、白樺の間を初夏のさわやかな風が吹き抜けていて明るい雰囲気ではあったが、国道を離れてからは方向感覚もすっかり失ってしまった。

しかし彰人は、まるで森のすべてを把握しているかのように、力強く歩いていく。木漏れ日が、キラキラと二人に静かに降り注いだ。

「…ねえ、彰人。この前の話だけど。私ね、やっぱり夫と別れる。少し時間はかかるかもしれないけど、彰人とのことは知られてないし、そんなにひどいことにはならないと思う。無事に独身になれたら、堂々とデートできるし、札幌で小さなマンションを借りようかなって」

彰人は札幌の郊外の大きな実家でご両親と住んでいて、もちろん行ったことはないけれど、二人のデート場所にはとても苦労していた。

いくら事業のイロハをしっかりと習うのに便利だからといって、もう32歳。実家暮らしという年齢でもない。

「じゃあ、そうなったら二人で住もうか」と言ってくれるかなと思ったが、彰人はにこにこと無言のまま、前に進んでいく。

「愛華が別れたら、僕たちは一緒になれるね」という言葉までは期待していなかったが、肩透かしを食った気分だった。

小鳥のさえずりと、どこかで小川が流れる音だけが耳を打つ。

私は、次第に小さくイライラし始めていた。

― いくら二人きりになりたいからって、山道を歩く必要ってある?もっと貴重な時間、うまく使えばいいのに…。

しかし、彰人のいう「想い出の場所」に行かずにもう温泉宿に行こう、というのも可愛げがない。私はもう少しだけ我慢して歩こう、と思う。

「愛華!見て、この下が、僕の秘密の場所だよ!」

「え?本当?どこ?」

不意に声を掛けられ、ちょうど身長くらいの右手の斜面下、彰人が指さす方向を見た。そこには小さいけれどもとてつもなく綺麗な青緑の沼があった。




「嘘…!天然でこんな色なの?」

「愛華見て!あそこにキツネがいるよ!」

彰人が指さす方向に首を伸ばす。そのとたん、伸びあがった足の下の地面が、池に向かってずるりと緩んだ。

「あっ…!」

バランスを取ろうとしたときはもう遅く、地滑りが起きて、尻もちのようなかたちで数メートル下に落ちてしまった。

「や…!冷たいよ…!どうしよう」

膝から下が、ずぶりと青緑の池に浸かる。デニムをはいてきたが、みるみるうちに水を吸ってしまう。早く立ち上がらないと、下着まで濡れてしまうかもしれない。

反射的に斜面に投げ出されている上半身を起こし、池の浅瀬に立ちあがろうとしたその時。

これまで1度も体験したことがない、ゾッとするような音を立てて、池の底が抜け、一気に下半身が水に沈んでしまった。

「なにこれ!彰人…!助けて!沈む!」

とっさに、蟻地獄が頭に浮かんだ。

藻がからみ、底なし沼のように動くたびに沈んでいく感覚がある。叫びだしそうな恐怖をこらえ、必死に動きを止めて頭上の彰人に助けを求めた。

そのとき、私と、彰人の視線がたしかにぶつかった。

彼は、ぞっとするほど冷たい目でこちらを見ていたのだ。

「待ってて、ここ降りられないから、迂回してすぐいくよ」

「待って!行かないで、もう沈んじゃう、飛び降りてきて!彰人!」

叫びながら、私は本能的に、デニムを脱ぎ捨てようとしたが、ぬかるみの中ではどうしようもなかった。

ずぶり、とまた音を立てて体が沈む。もうへその上まで水が来ていた。

必死に手を伸ばし、なにかつかまるものを探す。

池のほとりからは、ほんの50cmほどだというのに、どうしても岸に上がることができない。

― どうしよう、落ち着いて、少しでも地面に近づかなきゃ…!

そのとき、岸に向かって必死に振り回した指先に、木の細い根っこが触れた。

細いロープのように、池のほとりから中心に向かって伸びている。

震える手で、無我夢中でそれをつかんで引き寄せた。

気がつくと、肩で息をしながら私は池のほとりに体を投げ出すことに成功していた。

― な、なに、今の…これ、下手したら…。

頭上で広がる青空と小鳥の声と、今しがた自分に起こった危機のギャップに、私はただただ震えるばかりだった。

白いトップスが、べったりと藻の緑に染められている。

「愛華、大丈夫?びっくりした…」

もう息が整い始めた頃、頭上から声をかけられた。恐怖からへたり込む私に、彰人が笑顔で左手を差し出している。

「な、なんですぐ助けてくれなかったの…!私、もう少しで…」

取り繕う余裕もなく、私は彼をなじり、さらに罵声を浴びせようと大きく息を吸って彼を見たとき。

私は、目前に差し出された彼の左手の薬指に、細いリング状の跡があることに気がついた。

私の左の薬指と同じ。

逢瀬の時には、結婚指輪を外している私と同じように、くっきりと根本に跡がついている。

”今日、何処に誰と行くのか、誰にも言ってはいけないよ”

田舎の名家が保守的だとして、次期当主の女がらみの醜聞が、どのくらいダメージを与えるものなのか、私にはわからない。

もしかして、私が出会った彰人と、この北の田舎で暮らす彰人には、大きな乖離があるのだろうか?

私は、大きな間違いを犯したのかもしれない。

― 今日、私が帰らなかったら、誰が探してくれるんだろう…?

新たにわきあがってくる体の震えで、私はカタカタと鳴る奥歯を必死に噛みしめた。

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