新海誠7作目の劇場アニメーション映画として2019年に公開された『天気の子』。「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」というキャッチコピーがつけられ、前作『君の名は。』同様その1年のNo.1ヒット映画になった同作。その最後のセリフがなぜ生まれたのか。アニメ評論家の藤津亮太氏が読み解いた。
※本記事では映画のラストシーンに触れています。

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『天気の子』のラストシーンは「大丈夫だ」という言葉で締めくくられる。どうしてこの映画は「大丈夫」という言葉で締めくくられることになったのか。それはこの映画が無力な子供たちの物語だからだ。


映画「天気の子」の上映に詰め掛けたファン(2019年撮影) ©️共同通信社

『天気の子』に描かれた“ガラス細工のような世界”

 物語の語り手は、家出少年の帆高。故郷の島を出て雨の降り止まない東京にやってきた帆高が出会ったのが陽菜。陽菜は1年前に母親を亡くし、弟・凪と2人暮らし。陽菜は、雨ばかりの世界に晴れ間を作ることができる「100%の晴れ女」だった。

 帆高と陽菜と凪は協力して、依頼者に晴れ間を届ける「晴れ女ビジネス」を始める。子供だからという理由で社会の中にちょうどいい居場所を作れない彼らが、なけなしの力を頼りにささやかな生活を成り立たせる。社会に責任を負わないからこそ得られた小さな自由。それはガラス細工のようなはかなく無垢な世界。

「神様、お願いです」

 この無垢な世界の純度が最も高まるのが、中盤を過ぎたラブホテルのシーンだ。捜索願が出ている帆高のところに警察がやってくる。陽菜と凪の前には、保護者がいないまま子供だけで暮らすのはダメだということで児童相談所がやってくる。3人は自分たちの無垢な世界を守るために家を出る。そして、なんとか入ることができたラブホテルで一夜を過ごす。インスタントフードにカラオケ。かけがえのない時間が流れ帆高は思う。

「神様、お願いです。これ以上僕たちになにも足さず、僕たちからなにも引かないでください」

 このラブホテルのシーンは、映画制作の極初期から想定されていた重要なシーンだ。Blu-rayコレクターズ・エディションに収録されている特典映像「新海誠監督講演映像『天気の子』―物語の起点―」を見ると、2016年の時点で既に「ラブホテル」という陽の当たらない場所に注目している。そしてプロットを構成する時点で、新海監督の制作日誌にはこんなフレーズが書き留められている。

「ラブホテルで神様に祈る。そういうアンダーさはあってもよいのだ。それを挟むものが清浄さに満ちていれば」

 この清浄さとは、無垢と言い換えてもいいだろう。そしてこのフレーズの通り、帆高は完成した映画の中でも神様に祈っている。

語られない「帆高が家出をした理由」

 そもそも帆高がなぜ家出をしたかについて、本編中では詳しくは語られない。新海監督はそれについて様々なインタビューで「トラウマで駆動する物語にしたくなかった」と説明している。

 例えば帆高がなにかトラブルを抱えていて、それで家出をしていたというふうに具体的に描写をしたとすると、自動的に帆高とそのトラブルの関係が物語のセンターに入ってくる。

 そうすると3人の無垢な世界も「トラブルを癒やすもの」だったり「自分に欠けているものを補うもの」としての意味を帯びてしまい、無垢ではなくなってしまう。ただただ純粋に肩を寄せ合う子供たちを描くには、そうした背景はむしろノイズなのだ。

「子供とはいえない」が「無力」な“16歳の少年の物語”

 帆高が東京に出てきた心境を察することができる描写のひとつに、彼が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を持っているというものがある。漫画喫茶でカップ麺の蓋を押さえ付けていたあの本だ。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、1950年代のニューヨークを舞台にした、世間となかなか折り合いをつけることのできない16歳(つまり帆高と同い年)の少年ホールデンの物語である。帆高は、ホールデンほど社会を偽物だと憤ってはいないが、そういう本を家出の時にわざわざ持ってくるぐらいの心境ではあったのだろうと想像ができる。

 そしてこのホールデンという人物を理解するのにも「無垢」というキーワードが重要な役割を果たしている。同書を翻訳した小説家の村上春樹はホールデンについてこう語る。

「つまり主人公であるホールデンは、少年時代のイノセンスからは既にしりぞけられた存在でありながら、大人の世界に入るための資格も得られないでいます。部分的にはすごく早熟で、視点もクリアなんだけど、自分自身の客体化というのはまだなされていない。それは十六歳という設定だからできることでもあります。十八歳くらいになってくると、今度は自分自身が既に脅威になっていくという部分が大きいから。そういう事実を自分自身で認めていかなくちゃいけないわけですよね」(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書))

 この村上春樹の指摘は、ホールデンを経由して、そのまま帆高に、そして陽菜にも当てはまる。

 帆高はもう子供とはいえない年齢だが、社会を背負った大人に対して自分の思いを通そうとする時は、(偶然拾った)拳銃という、社会の外にある力を借りないとならないほど無力だ。拳銃など手にしてはいけないし、家出人は探されなくてはならない。親のいない子供は児童相談所の世話になるべきである。そういう大人の正論はわかっていても、それを受け入れるほど自分を客体化はできないから、それには従いたくない。

 ただ子供時代の最後の名残のような無垢な世界を、それがはかないものだと知っていても、とても慈しんでいる。それがラブホテルでの祈りに繋がる。

 一方、陽菜はラブホテルで“18歳”の誕生日を迎える。そこで陽菜は、帆高に、晴れ女を続けてきた自分の体が、いまや消えそうになっていることを明かす。陽菜は晴れ女=天気の巫女の宿命を自分自身で認め、受け止めようとしている。

 帆高と陽菜が親しくなるきっかけを生んだ拳銃。無垢な世界を維持するには欠かせない「晴れ女ビジネス」。しかし拳銃を使ったことで、警察は帆高を探し始めるし、「晴れ女ビジネス」は、陽菜が天気の巫女として人柱になる運命を指し示すことになる。無垢な世界を支えていた2つの要因が結果として、無垢な世界を壊してしまう逆説。こうしてまるで代償を払うかのように陽菜は空の世界へと消えてしまい、降り続いていた雨は止む。世界の秩序は回復される。そして、帆高は警察に身柄を拘束される。

「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」

 しかし帆高は警察から脱走し、陽菜を空の世界から取り返そうとする。その時、帆高は叫ぶ。「もう二度と晴れなくったっていい。青空よりも俺は陽菜がいい」「天気なんて狂ったままでいいんだ」。天気の巫女が人柱になって世界の秩序を守るという伝説。それを帆高は正面から否定して、陽菜を選ぶ。それはすごく個人的な理由で、世界の形を変えてしまうということだ。

 それまでの帆高は無力な存在だった。だからこそ社会や世界にコミットすることはできず、逆に無垢なままでいることができた。だが空の世界で帆高は、無垢な世界の要であった陽菜を取り返すために、「天気なんて狂ったままでいいんだ」と、世界のあり方に関与することを選ぶ。雨が降り続けば、社会は大きな変動を免れない。そんな道を選んでしまったら、帆高も陽菜ももう無垢ではいられなくなる。無垢な世界を取り返したいという願いが、帆高を無垢でなくしてしまうのである。そして陽菜もまた、それを受け入れ地上に戻る。

 空の世界で世界のあり方を変えてしまった。この事実を知るのは帆高と陽菜の2人だけ。それは、雨が降り続き東京の平野が水没する世界を招いた“罪の自覚”を共有できるのが2人だけということでもある。

 周囲の大人たちは、知ってか知らでか帆高を免責しようとする。まるで帆高は無垢のままであると説得しようとするかのように。「東京のあのへんはもともと海だったんだよ」「世界なんてもともとどうせ狂ってるんだから」。だが帆高はそこに居心地の悪さを禁じえない。帆高には罪の自覚が抜きがたくあるからだ。

「ただいま」から「大丈夫」へ 変化した再会の言葉

 そして帆高は陽菜のもとを訪ねる。

 脚本の段階で2人が再会したときの台詞は、

「おかえりなさい、帆高」

「ただいま、陽菜さん」

 というものだったという。「ただいま」という言葉に、帆高の「変わってしまった世界」で生きていく決意が込められているが、あっさりはしている。

 これが現在の形になったのは、RADWIMPSが脚本を読んだ上で書いた2曲、「愛にできることはまだあるかい」と「大丈夫」の影響が大きかったという。新海は先述の講演会で「2曲が物語の形を変えてくれてアップデートしてくれた」という言い回しで、ラストシーンには楽曲からの影響が大きかったことを説明している。こうして映画は帆高の「僕たちはきっと大丈夫だ」という台詞に収斂していく。

リフレインする「大丈夫」の意味

 帆高はなぜ「大丈夫だ」と言ったのか。

 帆高も陽菜も、世界を変えてしまった罪の自覚を抱えている。2人はもう無垢ではなくなってしまったのだ。にもかかわらず陽菜は、坂の上で一心に祈っていた。それは陽菜が、天気の巫女となってしまったあの日とまったく変わらない。自分にはもう晴れ女の力がないことを知っていながら祈っている姿。あの日、空の世界から陽菜を取り返そうとする時、帆高は「自分のために祈って」と陽菜に言った。それなのに陽菜は、水没した街に向かって祈っているのである。

 無垢でなくなっても、なお人のために、世界が少しでも幸せになるように、祈ること。むしろ、無垢でなくなったからこそ、陽菜の祈りは「より純粋なもの」としてそこに存在している。そんな祈りがあるのならば、自分たちが選んだこの世界、この街で生きていくこともできる。この思いが帆高の「陽菜さん、僕たちはきっと大丈夫だ」という言葉になるのである。

 ラブホテルの夜にあった無垢な世界は消えてしまった。あそこに戻ることは、もうできない。あの夜の楽しい時間は「子供時代のお葬式」だったのだ。だから無垢という言葉を手がかりに、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』からラブホテルの祈りまでをたどっていくと、「大丈夫」という言葉が、無力故に無垢だった子供時代を失っても「大丈夫」という意味合いも帯びてくることがわかる。

 そういえば、ラストシーンの帆高は18歳になっているはず。つまり「大丈夫」とは帆高が大人としての第一歩を、新しい世界に踏み出した印でもあるのだ。

(藤津 亮太)