開業医の家に嫁いだ女の、地獄のような結婚生活。名誉と引き換えに失ってしまった、何よりも大切なもの
「親を大事にしろ」
人はそう、口を酸っぱくして言うけれど。
生まれてくる親を、子は選べない。
名誉や金にすがった親の“自己愛”の犠牲となった、上流階級の子どもたち。
代々続く地方開業医の娘として生まれた七海(31)も、そのうちの一人であった。
父の死をきっかけに、母は本性をあらわした。そんな母との関係に苦悩する女の、“幸せをかけた闘い”が幕をあけるー。
父の死後、少しずつ様子がおかしくなっていく七海の母・真由美。
さらに “親に祝福されない結婚”に対する世間からの冷たい視線に苦しみながらも、ついに七海は結婚式を挙げ、ようやく母から脱却したのだった。
一方、母・真由美の本心とは-?

母の本心
桐谷家に嫁いだ、あの日。
私の心を満たしたものは、愛する男と一緒になったという幸福感よりも、これまで味わってきた苦痛から逃れられたという解放感だ。
結婚披露宴は、帝国ホテルで執り行われた。私は、夫が一目惚れしたというこの極上の笑顔を顔にはりつけて、高砂から会場を見下ろしている。
夫は、出会ったその日に、私の美貌の虜となったようだ。この美しさを自分だけのものにするため、夫はかなりの苦労をして、当初結婚に反対していたはずの義理の両親を強引に説得したのだ。
桐谷の家の人たちや大勢の医療関係者の中で、私の両親や兄弟たちの円卓だけが、なぜかぽつんと浮いて見える。
見たこともないフルコース料理を目の前に、頬を紅潮させる父や母。おそらくこんな豪華な食べ物を口にするのは、彼らにとって最初で最後となるだろう。
それから、私の兄弟たち。着飾っているはずなのにどうしてこんなにみすぼらしいのだろうか。
品のない笑い声をあげている彼らから目を背け、「まあ、いいか」と心の中でつぶやいた。惨めな思いをするのも、今日限りだ。
幼い頃から、貧しい家庭の長女として生まれ育ち、あらゆることを我慢しながら生きてきた。近所に住む、良家の子供たちと道端ですれ違うたびに、どうして私ばかりがこんな思いをするのかと疑問を抱いていた。
神様、お願いだから、あの子たちと私の人生を取り替えてください-。
あの頃なんども唱えた私の願いを、神様はようやく叶えてくれたようだ。
これでもう、二度と苦労することはない。そう、安堵していた。
しかし、本当の地獄は、結婚した後に待ち構えていたのだ。
身分違いの結婚をした故に苦しんだ母の結婚生活とは…。
育ちも悪く、学もない嫁
姑や、夫の兄弟姉妹たちは、口ではなにも言わなかったが、その目を見れば私を侮蔑していることは明らかだった。
-育ちも悪ければ、学もない女が、桐谷家に迷い込んできた。
顔には、はっきりとそう書いてある。
敵は、桐谷の人々だけではない。地元で代々知られる医院に嫁いできた、どこの馬の骨ともわからないよそ者を、町中の人たちが監視している気がした。
ところが沙耶を身篭ったとき、姑は豹変して私に対して優しくなった。「これで、桐谷医院も安泰ね」と繰り返しては、私の大きなお腹をなでる。

しかし子供の性別が女だとわかった瞬間から、ドブネズミを見るかのような視線を向けられたのだ。男の子が産まれなかったのは、すべてこの私の責任なのだと言わんばかりだ。
産声をあげる沙耶を抱きながら、私は義母に対して恐怖心を抱いた。
-もしも、この子が将来、この家の期待を裏切ったら、どうなる?…全ては私のせいだと言われる。
そこからは、必死だった。
特に自分の学歴にコンプレックスがあった私は、なにがなんでも勉強だけは出来る子供にしなくてはと心に誓い、沙耶にも七海にも、小学生の時からとにかく勉強ばかりさせた。
漫画を禁じ、大量の本を読ませ、テレビも娯楽番組は一切見せない。テストも満点以外は認めなかった。
夫が「厳しすぎるんじゃないか」と苦言を呈することもあったが、私は耳を貸さない。
だって、もしも子供の成績が悪かったら…。私の遺伝子が、この桐谷家の血を汚したのだと思われてしまうから。
長女の沙耶が自ら医師の道を目指すと言ってくれたあとは、沙耶の教育にばかり必死になったが、七海には特になにも言わなくても自分の意思で一生懸命勉強をしてくれたので助かった。
ところが沙耶が医学部受験に失敗したとき、その話はあっという間にこの小さな町を駆け巡り、私は外を歩くだけで、人々の嘲笑や哀れみの視線にさらされたのだ。
そしてその後、沙耶は医師専門の結婚相談所に登録をしたが、そこでもまたうまくいかず情緒不安定になってしまった。
取り乱す沙耶の姿を見たときに、私は彼女を抱きしめて「もう、沙耶ちゃんは無理しなくていいから。自分の好きなように人生を歩みなさい」と泣きながら叫んだのだった。
この時点で、私は悟った。子どもに病院を継がせるのは、無理だー。
しかし、そんな中でもなんとか私の面子を保ってくれたのは、七海が一流大学の学歴を手にし、さらには一流企業に就職してくれたことだ。娘たちを医者にできなくても、桐谷家の名誉を何とか保ちたかった。
大丈夫。これからも、七海が私たちを救ってくれるはず。
七海は昔から、なにも言わなくても私の願いを叶えてくれる子だった。あの子ならきっと、崩れかけた私のプライドと、桐谷家の名誉を、取り戻してくれる…。
それなのに七海は、私の期待を180度裏切った結婚を選んでしまった。
そして次にポイズン・マザーの犠牲となるのは…?
唯一残された光
最近、沙耶は結婚生活がうまくいっていないようで、ヒステリーが日増しにひどくなっている。沙耶をこんな風にしてしまったのは、私と夫の責任だから、見捨てることはできない。
今や唯一私に残された希望の光は、沙耶の息子だ。孫は中学受験を控えており、一流の私立中学を目指して必死で勉強している。沙耶は、精神が不安定で毎日無気力に過ごしているため、私が代わりに受験のフォローをしているのだ。
そうしていると、七海のことを思い出す。中高大の受験勉強を一緒に二人三脚で乗り越えたあの頃が蘇る。合格を勝ち取るたびに七海が「ママのおかげだよ」と言って笑ってくれた、私の栄光の思い出…。
だけど孫は、七海とは違う。七海のように素直ではないし言うことも聞かない。それに成績も思うように上がらない。
孫から冷たい態度を取られるたびに、七海の優しい笑顔が恋しくなって、何度も電話をしようか悩んだ。だけど迷った挙句、どうしても出来なかった。
だって、七海は、私よりも相手の男を選んだのだ。もう私だけのかわいい娘ではなくなってしまった。
だけどあの子は、元気にしているだろうか。ちゃんと食事はしている?仕事で追い詰められたりしていない?病気にはなっていない?
ねえ七海、あなたはママがいなくても、幸せに暮らしている?
◆

「七海、久しぶり!」
中学の同窓会のために、私は久々に長野に帰っていた。中学・高校が同じだった親友の美寿々と合流してから、私は同窓会の会場へ向かう。
同級生たちは皆、中学当時の面影を残したまま大人になって、だけどあの頃とは違うそれぞれの人生を歩んでいた。結婚して子供がいる母親になった子もいれば、仕事に没頭しているキャリアウーマンもいる。
そして私も。仕事は変わらず続けているし、諒太との結婚生活も順調だ。子供はまだいない。結婚前にあれほど苦しんだ母のことも、自分の新しい家庭ができてしまうと、不思議と気に留めなくなった。
「ねえ、そういえば七海はあれから、茉莉と連絡とってる?SNSでの妊娠報告は見た?」
美寿々と二人きりになった帰り道で、不意に尋ねられた。
「連絡は取っていないけど、SNSは見たよ」
私が小さく微笑むと、最近茉莉からLINEが来たのだという美寿々は少しうんざりした顔をした。
「産まれる前から、もう子供は医者にするって決めてるんだって張り切ってたよ。しかも名門幼稚園に入れるために、山王病院で出産するんだとか、色々得意げに言ってたわ」
「そうなんだ」
私は、結婚式の一件のあと、参列へのお礼は伝えたものの、その後は茉莉と連絡をとらなくなった。
「七海、今日はホテルに泊まるんでしょう?明日は東京に戻る前に、何か予定入れてるの?」
「…うん。明日はね、どうしても寄りたいところがあるんだ」
そして七海が向かった、ある場所とは?

過去からの旅立ち
翌日、少し早起きをして松本市内のホテルをチェックアウトすると、電車に乗って実家があった町を訪れた。
特に用事があったわけではない。だけど、あの時父が突然亡くなって、悲しみにくれていたら、あれよあれよという間に実家の売却が決まった。きちんとこの場所にお別れをしていなかった気がして、どうしても来ておきたかったのだ。
かつて住んでいた家の前を通ると、桐谷医院は看板だけが別の医院の名前になって、あとはそっくりそのまま、あの頃と何一つ変わっていない。
かつて当然のように暮らしていた家も敷地も、こうして外から見ると広すぎるくらいだ。子供の頃からずっと、友達が家にくるたびに「大きなおうちに住んでいていいな」と言われてきたことを思い出す。
-七海ちゃんは、お金持ちでいいなあ。
幼いころはあまり分からなかったが、たしかに私は恵まれた生活を送っていた。
これからの人生で、同じだけ裕福な暮らしを手に入れることはないとしても、今の方がずっと幸せだ。だって私は、自分の人生を手に入れることができたから。
お金や名誉が幸せをもたらしてくれるとは、限らないのだ。
そのときカバンの中で私のスマホが鳴って、画面を見ると姉の家からだった。怪訝に思いながら通話ボタンを押す。
「七海ちゃん!」
それは、姉の息子からだった。
「タケル、どうしたの?何かあった?」
「…ううん。最近、七海ちゃん全然遊びに来てくれないから。僕、毎日勉強ばっかりで退屈なんだよ。おばあちゃんが毎日うちに来て、勉強勉強ってうるさいの。七海ちゃん、たまには遊びにきてよ!」
口を尖らせる甥っ子の姿が、目に浮かぶ。
「…そっか。会いにいけなくて、ごめんね」
何の罪もない甥を寂しがらせているかと思うと、申し訳なくなって、私は唇を噛み締めた。
「ねえ、七海ちゃん。おばあちゃんとお母さんと、喧嘩しちゃったの?早く仲直りしなよ」
ただ「ごめんね」しか答えることのできない私に向かって、甥は続ける。
「でも、おばあちゃん、七海ちゃんのこと怒ってないよ。だって、僕見ちゃったんだ」
「見ちゃったって…何を?」
「おばあちゃんね、七海ちゃんからの手紙、いつも手帳に挟んで、大切そうに持ち歩いてるんだよ…」
家の前には、細くて長い道がまっすぐ続いている。昔、学校のマラソン大会で上位を取りたくて、この季節になると早起きしてこの道を走っていた。母は隣で自転車を漕ぎながら、いつも伴走をしてくれたっけ。
「ありがとう、ママ。…いつか、会えるといいね」
そうつぶやいて、私はその場を離れた。
Fin.

