生活の激変で急激に収入が減ることは十分、ありえることだ。しかし、対処の仕方によっては豊かで、シンプルな暮らしを手に入れるチャンスなのかもしれない。そこで、生活縮小(ダウンサイジング)を余儀なくされた人たちに、急激な収入減を乗り切った知恵を聞いた。

「漫画家としてスランプに陥り、この家も売ろうと決めたときに女房が看護師として働き助けてくれました。外で働く彼女に刺激を受け、僕も警備員や清掃員をしました」

そう語るのは漫画家の吉沢やすみさん(66)。傍らで夫人の文子さん(65)がほほ笑む。

吉沢さんは’70年に『少年ジャンプ』誌上で『ど根性ガエル』を発表し漫画家デビュー。同作から生まれたピョン吉は国民的キャラクターとしていまも親しまれる。生みの親である吉沢さんはこのデビュー作で一世を風靡。コミックの印税やアニメ化の著作権料、グッズが売れたお金も入り22歳から年収は猛スピードで上昇した。

「年収5千万〜6千万円が6年間続きました」(吉沢さん)

23歳で結婚し、’74年に長女、’75年に長男が誕生。この間も仕事の依頼はひきもきらず。『ど根性ガエル』を超える作品を、というプレッシャーもかかりはじめていた。

「連載を10本以上抱えて、アシスタントも増えていく。寝泊まりするところや、食事の世話もしなきゃならなくて家計は拡大していきました」(吉沢さん)

30坪のマイホームを買ったが、仕事場も手狭になったので、マンションを購入。だが、連載に追われ手の震えや吐き気など体調にも異変が起こる。そして、吉沢さんの重圧が最高潮に達してしまい、運命の日が訪れる。

「すでに『ど根性ガエル』の連載が終わり、新作を描いても人気が出なくて。ある日、仕事場へ向かう途中ポケットを探ったら3万円あった。これがなくなるまでマージャンをして生きようと思ったんです」(吉沢さん)

’82年秋、13本の連載を抱え失踪−−。家に連絡をしたのは3カ月後のこと。大勢のアシスタントには退職金を払い解散。また折悪しく、高収入時の税理士任せにしていた経理の不備が指摘され1千万円の追加課税も来た。

「査察は、稼いでいるときに来てくれればいいのに。当時はほとんど仕事をしていなかったので、マンションを売却し、生命保険を解約してお金を捻出しました」(文子さん)

吉沢さんは「家を売ろう」と提案、だが、文子さんは「もう二度と石神井(東京都練馬区)に家なんて買えない」と猛反対。なんとか死守したが、貯金は底を尽きかけていた。

このときから文子さんが家計の足しにと看護師の仕事に復帰。最初は近所のクリニックで時給千円で1日3時間だけ勤務したが、その後大きな病院に移り夜勤も引き受け朝まで働く日も当たり前に。

「漫画家に浮き沈みがあるのは覚悟のうえ。極力お金を使わないようにしていましたが、そこから、外食はせず3食を手作りしました。夜勤の日は作り置きをして。豪華なものを食べさせたいと思ったときは、おすしも私が握りました」(文子さん)

夫の収入に頼らず、自分の力で家計をダウンサイジングし、立て直すことを文子さんは決意。子供の習い事も見極め、少なくした。「それでも教育は財産だから、削りたくない」と吉沢さんも、プライドを捨て、別世界で働くことにした。

「彼女は働いたボーナスで革ジャンをプレゼントしてくれたりしました。だから僕もまったく描けない時期に、警備員を3年、駅の清掃員を1年半ほどしました。駅では昔のアシスタントにばったり会ったり(笑)。ほかの仕事をしたことがなかったので、いまとなっては、いい経験です」(吉沢さん)

「波瀾万丈の世界を見せてもらってむしろよかった」(文子さん)

いまは年金も入るようになった。しかし文子さんは老後の長い時代だから、将来に備えて70歳まで働くつもりだ。