教員の仕事を辞め、1人で介護を背負い込んだ三女。母の死後、ほとんどサポートしてくれなかった姉たちが予想外の支払いを求めてきて…【2026編集部セレクション】
2025年上半期(1月〜6月)に配信したものから、改めて読み返してほしい「ベスト記事」を選びました。(初公開日:2025年6月22日)**********厚生労働省が公表している2023年の「介護給付費等実態統計月報」によると、85歳以上の59.5%が介護認定を受けています。高齢の親を子どもが介護するケースも増えるなか、「親思いの優しい人間が結果的に損をしてしまう」と語るのは、自身も介護経験がある作家・姉小路祐さんです。今回は、姉小路さんの著書『介護と相続、これでもめる! 不公平・逃げ得を防ぐには』から抜粋し、介護・相続をめぐる事例を紹介します。
【書影】介護・相続トラブルを防ぐには――? 超・高齢社会が進む我が国で、「転ばぬ先の杖」として大事な心構えを綴る。姉小路祐『介護と相続、これでもめる! 不公平・逃げ得を防ぐには』
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脳疾患を患った母親の介護
H子さんは3姉妹の末っ子である。父親はH子さんが大学を出て4年目に急死した。H子さんは大学を卒業したあと、3年間は私立高校の非正規の国語担当の講師として勤め、その仕事ぶりが認められて正規の教諭として採用された。姉2人は結婚して、実家を出てそれぞれ子供をもうけていた。
専業主婦であった母親は、人見知りをする性格で、学校時代からの友人やママ友もほとんどおらず、御近所づき合いも、定年後に町内会長も務めた夫に多くを任せていた。夫婦仲は良かっただけに、父親を亡くしたあとは塞ぎがちになっていた。
父親の死から約2年後、母親は脳疾患を患った。勤務先から帰宅したH子さんは異変に気づいてすぐに病院に搬送したが、右半身に後遺症が残った。
H子さんは介護認定の申請をしたが、その手続は予想していたよりも煩雑であった。要介護・要支援認定申請書、母親の介護保険の保険証、申請者であるH子さんの身分証明書、主治医の病院名や氏名、といったものを提出し、そのあと訪問調査を受けた。退院した母親にどのくらいの運動機能や生活機能などが備わっているか(見方を変えれば、残存しているか)を調べるための訪問である。
そのあと1次、2次のプロセスを経て、要介護度の認定がなされる。
申請が立て込んでいるようで、1ヵ月近くかかって要介護1の認定がなされた。
2人の姉はほとんどサポートをしてくれなかった
認定がされても、それですぐに介護サービスが始まるわけではない。介護事業所からケアマネージャーに来てもらって、ケアプランを作成してもらい、契約を結ぶ必要がある。
H子さんとしては、母親の入院や介護申請などで職場に迷惑をかけていたので、なるべく早く介護を始めたかった。そこでケアマネージャーが早く来てくれる介護事業所にしようと探したが、なかなかすぐにというわけにはいかなかった。
ようやくやってきたケアマネージャーは、頼りない印象を受けた。H子さんが質問しても、明解な答えは返ってこず、スマホで調べる有様だった。それでも早い介護開始をH子さんは優先させた。
その間、2人の姉はほとんどサポートをしてくれなかった。「お母さんが大変なのよ」と電話しても「私も最近は体調がすぐれなくて、そんな余裕がないのよ」「こっちもまだ幼い子供を抱えていろいろ大変なんだから行けないわ」という返答だった。結局、母と同居しているH子さんが1人で背負い込むしかなかった。
H子さんは、仕事のある平日は母親にデイサービスを利用してもらい、夜と休日は在宅で看ることにしようと考えた。デイサービスは9時から17時までということでH子さんの出勤から帰宅までの時間のほうが長いので、玄関をナンバー錠にして、デイサービスの送り迎え担当職員に開け閉めをお願いした。
そうやって態勢を整えたのだが、母親がデイサービスに馴染めなかった。デイサービス施設では、みんなで合唱をしたり、風船つきゲームをしたりして過ごすのだが、「楽しくない。全然つまらない」という感想を述べ、1週間後には「行きたくない。ストレスが溜まる」と通所を拒み始めた。
すぐにケアマネージャーに電話連絡したが「御本人さんが嫌だとおっしゃるのなら、強制することはキビシイです」という答えが返ってきた。H子さんはその日の仕事を休み、ケアマネージャーに会いに行ったが「いい解決法があるのなら、私が教えてもらいたいです」とつれない対応だった。
しまいには「私が担当している要介護者は他にもたくさんいます。受け持ちできる上限いっぱいの人数を抱えているんですよ。H子さんのお母さんだけを担当しているわけではありません」と苛立ちを見せた。それでもH子さんはケアマネージャーに何度も頭を下げて、デイサービスの施設を変更してもらうことにした。
他人に馴染めない母親
しかし、新しいデイサービスに通い始めた母親は、今度は3日目にして「やっぱり行きたくない」と言い出した。何とかなだめすかして行ってもらったが、お昼前に「お母さんが気分が悪いと倒れられて、提携先の病院に運びました」と電話が入って、H子さんは急きょ休暇を取って、駆けつけた。医師は「MRIでは、脳にとくには異常は見られないのですがね」と首をひねった。H子さんの目にも、ベッドの上の母親は苦しそうには映らなかった。
家に連れ帰ってじっくり話を聞いてみると「前のところ以上に、嫌なことがある」とポツリと言った。詳しく問いただすと、古くから通い続けているボスのような女性がいて、「今度の新入りさんは、挨拶もできないのね」と、その取り巻き連中とともに、やんわりとイジメてくるというのだ。
H子さんはケアマネージャーに電話をしたが、「そういうことは珍しいことではありません」と面倒くさそうに答えた。そして「あなたは学校の先生をなさっているのですから、イジメや登校拒否への対応は慣れていらっしゃるのではないですか」と付け加えてきた。H子さんは、「デイサービスと学校とでは違います」と電話を切った。
ケアマネージャーを替えてもらおうかとも思ったが、また似たようなケアマネージャーが担当になるかもしれない。それに問題の本質は、他人に馴染めない母親の性格にあるのではないかとH子さんは考え始めた。それまで友だちらしい友だちもおらず、夫と子供の世話に明け暮れた人生を送ってきた。高齢になって障害を抱えたうえで、急に違う世界に飛び込むことになったなら、ストレスを感じても当然かもしれない。
そう水を差し向けると「あんたはわかってくれるんだね。あんな幼稚園児みたいなお遊戯をやらされるよりも、慣れたこの家で自由に暮らしたいんよ」と答えた。脳疾患の影響からか記憶力は減退していたが、感情面は変わらなかった。いや、頼りにしてきた夫を亡くしたことで、以前よりもナイーブになっていた。
積み上げたキャリアを捨てた
H子さんは、教員を退職して母親に寄り添う意を決した。何回か授業の代行を同僚にお願いしており、もうこれ以上の迷惑はかけられなかった。
中高生向けの通信添削をする仕事を教師仲間が紹介してくれた。その収入と母親のもらう遺族年金で、何とかやっていけそうだった。正規の教員になったばかりのH子さんには貯金はあまりなく、退職金もわずかであったが、必要なときはそれを使うことにした。母親のことが優先だった。
相性が合わなかった担当ケアマネージャーには、「今後はもう介護保険を使わないし、あなたの世話にもなりません」と伝えた。
「ああ、そうですか」という短い答えが返ってきただけであった。
それから11年が経ち、母親は老衰で亡くなった。脳疾患はほとんど悪化しなかった。H子さんは、自分が寄り添う決意をしなかったら母親はもっと早くに亡くなっていたと思っている。その意味では退職したのは正解だった。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
だが、自分自身の人生のことを考えると、無念さはある。正規の教員になるために非正規の講師として頑張って、ようやく認めてもらえた。
その職を失い、交際を始めていた同僚の理科教師とは破局した。彼は通信添削の仕事を紹介するなど、協力もしてくれた。けれども、H子さんのいつまで続くかわからない介護生活を見て、「待っていたら、俺はオッサンになってしまうな」とつぶやいた。
人と協調するのが苦手な母親のほうも、彼とは慣れ親しんでくれそうになかった。H子さん自身も、もし彼と結婚しても、介護者と妻の役割を両立していける自信はなかった。ましてやそこに子育てが加わったなら、空中分解しかねなかった。
姉たちが相続を求めてきて……
母を亡くしたH子さんは、40歳近くになっていた。その年齢で正規の教諭に採用してくれる学校は、公立も私立もなかった。進学塾の講師の職に何とかありついたが、1年ごとの契約更新がされる不安定なものであった。婚活サイトにも登録したが、40歳近いとなるとなかなか良いオファーもなかった。
そして2人の姉から、相続をどうするのかという提起がなされた。母親とずっと暮らしてきた家にH子さんが住み続けるのには異議はないが、不動産価格の3分の1ずつの代償金を支払ってほしいと求められた。
それだけでなく姉たちは、H子さんが母親の年金を生活費に使っていたことを問題にした。母親のために使った分はしかたがないが、H子さんが自分の食費などの生活費に使った分は返却すべきだと言われた。H子さんは「私は母親のために、せっかく正規の教諭になれたのに退職したのよ」と反論したが、「それはあなたの勝手よ。辞める必要なんてなかったはずよ」と聞き入れない。
トラブルを好まないH子さんは、実家を売却することにした。そして自分の相続分である3分の1の売価を、母の年金を使った相当分だとして姉たちに渡した。
実家を出たH子さんは小さなアパートを借りて、塾講師を続けている。教員時代の交際相手だった理科教師はとっくに結婚して、今では学年主任を務めていて教頭候補だ。H子さんは、もう結婚も子供を持つことも諦めた。姉の子供たちは、すくすくと成長して高校入学や成人式を迎えている。その姿を見ると羨ましく思うこともあるが、これが自分の人生なのだと自身に言い聞かせている。
※本稿は、『介護と相続、これでもめる! 不公平・逃げ得を防ぐには』(光文社)の一部を再編集したものです。
