信長が目をかけて家臣にした竹中半兵衛。彼が体現した真に主君を思った行動とはどのようなものか。歴史研究家の皆木和義さんは「本当の忠義とは、上司や主君の命令であっても、それが主家のためにならなければ敢えて逆らうことあるべしという意味だ。半兵衛はまさにこの精神で、家臣16人を率いて難攻不落の稲葉山城乗っ取りに踏み切った」という――。

※本稿は、皆木和義『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。

竹中半兵衛像(禅幢寺所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■秀吉が天下を獲るまでを支えた軍師

秀吉に天下を獲らせた軍師として、黒田官兵衛と双璧をなすのが竹中半兵衛である。半兵衛は秀吉が大きく世に出るまでを支え、官兵衛は半兵衛亡き後、秀吉が天下を獲るまでを軍師として支えた。軍師の役割をリレーしたといっても良いかもしれない。

半兵衛は、数えの36歳という若さでの夭折だったが、日々全力を尽くして前向きに生きた。その前のめりの生き方は、現代に生きる我々にも大いに参考になるだろう。

人間はいつ死ぬかわからないが、短くとも昂然(こうぜん)と光を放った半兵衛の爽やかな生涯は、いつまでも日本人の心をとらえて離さない。だからこそ、今も人気があるし、伝説的な人物となっている。

半兵衛は秀吉を軍師としてよく助けた。『名将言行録』には、「敵を制すること神の如し」との記述がある。半兵衛の智謀はあたかも神のようであったというわけだ。秀吉は多くの軍功を上げたが、それは半兵衛の功績だったと記している。

さて、半兵衛の父・重元は美濃国(岐阜県)の戦国大名・斎藤道三に仕えていた。そして永禄年間のはじめごろに菩提山(ぼだいさん)に城を築き、六千貫文(三千貫文という説もある)を領していた。

菩提山は岐阜県不破郡垂井(たるい)町にある標高425メートルの山である。

半兵衛は重元の長子で、幼いころから身体が弱く痩身であった。容姿は「状貌婦女(じょうぼうふじょ)如し」(『名将言行録』)といわれるほど優しく、色白で、女性のようだったという。

性格も温順で細かいことにこだわらない鷹揚(おうよう)な人物であったようだ。少年のころから読書が好きで、中国の張良や諸葛孔明、武経七書(ぶけいしちしょ)などの兵法書を読みふけって兵法を研究していたという。

■難攻不落の稲葉山城

半兵衛は戦にかけては実に沈着冷静な謀略を実行に移せる知勇兼備の知将であった。彼を一躍有名にしたのが、稲葉山城(岐阜城)乗っとりである。

稲葉山城は、織田信長も、その父の信秀も何度も攻めたが落とせなかった難攻不落の城である。なぜそんなに難しいのかと思い私は稲葉山城に登ったことがある。

現在は金華山ロープウェイで山頂付近にまで行けるため楽だが、戦国時代に徒歩で攻め登ろうとすると大変だったろうと思う。標高329メートルだが、徒歩で登ると普通の人で大体1時間ぐらいかかる。1567年(永禄十年)9月に、織田信長がようやく美濃を攻略し、この美濃国井ノ口を岐阜と改めるまでは、この城は稲葉山城と呼ばれた。

他に、金華山城という呼び名もある。たおやかに滔々(とうとう)と流れる長良川の対岸から稲葉山を見ると、山全体が金の花のように見えることから、その名がついたという。

岐阜県岐阜市の金華山にある稲葉山城(現在の岐阜城)(写真=Alpsdake/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

岐阜は、信長の知恵袋ともいうべき僧の沢彦(たくげん)の進言により、古代中国の周王朝の文王岐山によって天下を平定したのにちなみ城と町の名を「岐阜」と改めたという。

美濃を攻略した頃から、信長は本格的に天下統一を目指すようになり、「天下布武」の朱印を用いるようになったといわれている。

■女性のような優しい容貌と侮られ

さて、城乗っ取りである。1564年(永禄7年)2月、その難攻不落の稲葉山城を斎藤家の家臣だった竹中半兵衛が一日にして攻略したという。このことは、『明叔録』の快川紹喜(かいせんじょうき)による禅昌寺(ぜんしょうじ)宛の書状や、『名将言行録』に載っている。

この事件は、さぞ織田信長や周辺の大名を驚かせたことだろう。また、この離れ業の稲葉山城攻略は、「美濃に半兵衛あり」と全国にその名を轟かせた。

さて、半兵衛が全国に知られるようになった稲葉山城乗っとりの事の顛末はこうだ。当時の美濃では、1556年4月に斎藤(さいとう)道三(どうざん)が嫡子の義龍(よしたつ)に討たれ、道三の娘婿である尾張の織田信長と抗争状態となっていた。

しかし、義龍は1561年5月に35歳で急死。嫡子・龍興(たつおき)が家督を継いだ。このとき、1548年生まれの龍興は数えの14歳だった。

龍興は、政務に関心を示さず、日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)や斎藤飛騨守(ひだのかみ)などの一部の佞臣(ねいしん )だけを重用して、遊興に溺れ、有力家臣だった西美濃三人衆(安藤(あんどう)守就(もりなり)、稲葉(いなば)良通(よしみち)、氏家(うじいえ)直元(なおもと))や知略に優れた竹中半兵衛を重用していなかった。そのような状況だったので、斎藤家の家臣団の心は徐々に離れていった。

『名将言行録』などによれば、斎藤龍興は女性のような優しい容貌の半兵衛を侮り、家臣達までもが半兵衛を馬鹿にした振る舞いが多かったという。

■半兵衛、「逆命利君」をなす

あるとき、龍興の家臣が櫓(やぐら)の上から半兵衛に小便をひっかけて小馬鹿にしたことがあったが、半兵衛は何食わぬ顔で小便を拭いて、菩提山城に帰った。

半兵衛とて悔しく激怒しただろうが、その家臣たちのバックには主君の龍興や側近の奸臣がついているので、その場は黙って忍耐したのだろう。

しかしながら半兵衛は、龍興を始めとする側近たちの横暴や度重なる無礼に、怒りを募らせていた。我慢できなくなった半兵衛は、これを懲らしめるべく妻の父、美濃北方城主・安藤守就(もりなり)に相談した。安藤はそれを聞き軽挙妄動を戒めたが、これを半兵衛は聞き流したという。

このまま手をこまねいて佞臣たちの側近政治を放置しておいては、人心は離れ美濃の国自体がおかしくなってしまう。主君と家臣の心が離れて、国がバラバラになれば、この戦国の世、いつ何時敵に攻め込まれるかもしれない。主君に目を覚ましてもらわなければならない。大義とは何か。半兵衛はそう思い、策を練ったに違いない。

きっと半兵衛は「逆命利君(ぎゃくめいりくん)」たらんとしたことだろう。これは、中国の古典『説苑(ぜいえん)』に出てくる言葉である。

「逆命利君、謂之忠」(命に逆らっても君を利す、之を忠と謂う)とある。「本当の忠義とは、上司や主君の命令、たとえ国家の命令であっても、それが主家のため国家のためにならなければ敢えて逆らうことあるべし」という意味である。

1564年(永禄7年)2月のことである。稲葉山城には人質として送っていた半兵衛の弟の久作(きゅうさく)(諱は重矩(しげのり))がいた。このように、当時は有力家臣が人質を出すことは通例だった。

半兵衛は久作と示し合わせ、彼に病と偽らせた。夕刻、頃合いを見計らった半兵衛は、弟の見舞いという名目で長持ち(和櫃(わびつ)の一種で、衣類や蒲団、調度品等を入れておく長方形をした蓋付きの大きな箱)に武具を隠して雑人にかつがせ、家臣16人を引き連れて稲葉山城へと向かった。

門番が長持ちを不審に思って問いかけると、これは人々に振る舞うための酒食と説明し、咎められることなく城内に入った。半兵衛らは城内の一室で武具に身を固め、一気に奇襲を開始した。

半兵衛はまず宿直の番将の斎藤飛騨守をまっぷたつに斬り伏せたという。大将を真っ先に叩くのが戦いの勝利の常道である。

■信長の意表を突いた言葉

その異変に気づいて駆けつけた番兵の多くを、半兵衛は16人の家臣たちと一丸となって斬り捨て、稲葉山城を瞬く間に制圧。油断していた城兵は夜間ということもあって慌てふためき、龍興もなすすべもなく寝巻のまま城から脱出したという。

これを伝え聞いた織田信長は、「稲葉山城を明け渡すならば美濃半国を与えよう」と半兵衛に申し入れてきた。しかし半兵衛は「我は国土を他国人に引き渡すことは望むところに非ず。我は、主君の行動を諫めるために決行しただけであり、主君が反省すれば、城は本人に返すつもりだ」ときっぱり拒絶した。

野心のまったくないこの発言は、親子兄弟が血で血を争う下剋上の戦国の世にあって信長の意表を突く言葉だったろう。半兵衛はその言葉通り、後半年ほどして龍興に城を返した。

岐阜公園正門と若き日の織田信長像(写真=杉山宣嗣/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

このエピソードは純粋に国のことを思う半兵衛の智謀とあわせて、武将・半兵衛の剛毅な実践者の面を表しているのではないだろうか。

「動機善なりや私心なかりしか」という京セラの稲盛和夫元会長の言葉があるが、半兵衛は、動機が善で、私心がなかったといえよう。半兵衛の無私の精神をよく表しているエピソードである。

同時に、「治国平天下」を目指して国を治める場合、「逆命利君」の人材登用が重要である。主君の龍興は、自分の耳に良いことばかりを入れてへつらうイエスマンばかりを集めて政治を行った。それが理由で人心を離反させ、国を危うくしていたので、半兵衛は警鐘を鳴らしたわけである。

■住友財閥の発展に貢献した人材登用

これは企業の経営においてもマネジメントにおいても注意しなければならないことだ。

私自身も経営者として、人材登用や人事評価において、実力主義にもとづく適材適所の公正な登用や評価をするということに留意した。特に、イエスマンばかりを登用していないか、好き嫌いで人を評価していないかなど、厳に注意した。

このことの重要性については、明治維新の激動を乗り越え、住友財閥の基礎を作った住友初代総理事の広瀬宰平も同様に述べている。

広瀬は「逆命利君 謂之忠」を終生の座右の銘として、おべっか使いの社員を最も嫌ったという。広瀬は逆命利君の人材を広く登用して住友財閥を発展させた。彼が登用した逆命利君の人材は、伊庭(いば)貞剛(ていごう)、塩野(しおの)門之助(もんのすけ)、阿部貞松などがいるが、彼らは、意見の相違からときには広瀬と衝突しながらも、別子銅山の近代化などをはじめ住友財閥の発展に大きく貢献した。

皆木和義『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)

激動の世や乱世を乗り越えようと思ったら、リーダーは「逆命利君の人材登用」をすることが大切である。また、リーダーはそういう度量を持たなければならないという証拠でもある。まさに今も昔も変わらないといえよう。

さて、半兵衛のその後である。半兵衛は責任をとって、弟に家督を譲り、斎藤家を離れ、近江に隠棲(いんせい)した。先の件より半兵衛に目をつけていた織田信長は、半兵衛を家臣にしたいと考え、木下藤吉郎秀吉に半兵衛を説得するよう命じた。しかし、半兵衛は秀吉の度重なる誘いにも、なかなか首を縦に振らなかったという。

秀吉は「三顧の礼」を尽くして半兵衛を説得。ついに半兵衛は信長の家臣となり、秀吉に仕えた。半兵衛は秀吉の人物に何か感じるものがあったのだろう。重い腰を起こし、信長に、そして秀吉に尽くすことを決意した。

----------
皆木 和義(みなぎ・かずよし)
経営コンサルタント、作家、歴史研究家
1953年、岡山県生まれ。早稲田大学法学部卒。東京理科大学大学院修了。経営コンサルタント、作家、歴史研究家として幅広く活動。平成ニュービジネス研究所所長、(株)ハードオフコーポレーション(東証プライム)代表取締役社長、特別注意銘柄に指定された(株)リソー教育(東証プライム)再建、(株)大戸屋社外取締役、経済産業省消費経済審議会委員、駒沢女子大学非常勤講師などを歴任。著書に『教養としての日本史』(KADOKAWA)、『稲盛和夫と中村天風』(プレジデント社)、『MBAビジネスプラン』(共著、ダイヤモンド社)など多数。歴史に学ぶビジネス戦略や生き方、経営哲学をテーマに講演・研修活動を行っている。
----------

(経営コンサルタント、作家、歴史研究家 皆木 和義)