電波少年「大陸横断ヒッチハイク」で森脇和成が抱いた絶望…極限状態で同行ディレクターが行った「衝撃の行動」
視聴率20%超えが当たり前だった「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」。30年後の今明かされる、国民が夢中になったあの旅の裏側とは!?
松村邦洋(まつむら・くにひろ)/'67年、山口県生まれ。'88年にタレントデビュー。『ものまね王座決定戦』で一躍有名に。'92年から『電波少年』MC、アポなしロケでも活躍
森脇和成(もりわき・かずなり)/'74年、広島県生まれ。'94年、有吉弘行と猿岩石を結成しデビュー。'04年、コンビ解散で芸能界引退。'15年に復帰
土屋敏男(つちや・としお)/'56年、静岡県生まれ。'79年、日テレ入社。『元気が出るテレビ』など演出。『電波少年』ではT部長として出演。現在は「ゴンテンツ」代表
あの旅から今年でちょうど30年
松村 有吉の活躍はもちろん、森脇くんもまた芸能界で頑張っているし、この企画に関わったスタッフも、その後みんな出世しましたよね。人間って「苦労のポイントカード」を持っていて、「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」で這いつくばった人たちは、ポイントがいっぱいになっていたんだろうなぁ。
森脇 苦労のポイントカードかぁ……いい言葉ですね。あの旅から今年でちょうど30年。僕もあの日々があったからこそやってこられたし、いまも頑張れています。
土屋 当初は猿岩石があんな人気者になるなんて、思ってもみませんでした。放送開始から4ヵ月を過ぎたあたりから最高視聴率が20%を超える回が出始めて、凱旋帰国時には西武球場に3万人が集まり、ふたりが歌った『白い雲のように』がミリオンセールスを記録、『猿岩石日記』もベストセラーになり……。初めてこの番組のオーディションに来たときは、お笑いライブに出たことすらない若造だったのになぁ。
森脇 いや、流石にライブには出ていましたし、深夜のネタ番組にちょっと出たりもしていましたよ(笑)!
お笑い芸人になるために、'94年に広島の熊野町から幼馴染の有吉とふたりで東京に出てきたけど、あまりにもカネがないから後楽園の近くで野宿生活をしたこともありました。でも、それがこの企画のオーディション合格の理由になったんですよね?
土屋 野宿経験を買ったのは確かだけど、猿岩石っていう名前もよかった。二人が付き合っていた彼女のあだ名が「猿」と「岩石」だという理由がいいなと思った。
松村 もちろん、最初はヒッチハイクのオーディションだとは知らされていなかったわけだよね。
森脇 ただただ、『電波少年』の新企画オーディションという名目だったと思います。あの当時の若手芸人、たとえばバナナマンとか劇団ひとりとか、みんな受けていたんじゃないですか? 芸人なら誰でも出演したい人気番組でしたから。
本当に何も知らされてなかった
土屋 実は人気番組になってしまったことが、「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の企画を生んだんだ。'92年にはじまった『電波少年』はなんといってもまっちゃん(松村)のアポなし突撃ロケが売り物だった。でも人気が出てくると、突撃先に歓迎されるようになっちゃった。突発的なトラブルこそが面白いのに。
松村 土屋さんは、企画がうまくいかないほうが好きなんです(苦笑)。
土屋 それで番組がまったく知られていない海外を舞台にしようと、まだ若手だったキャイ〜ンが出演したのが「はじめてのおつかい」。二人が隣国に別々に入国して、国境で再会してギャグをするロケ企画だった。
キャイ〜ンにはカネを渡さないから、ヒッチハイクせざるをえない。真面目な天野(ひろゆき)と、何も考えていないウド(鈴木)で旅の過程にも違いが出て、面白いなと思ったんだよ。それがきっかけで、カネのない若手芸人が、ヒッチハイクだけで香港からロンドンまでたどり着けるかという「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」のテーマがまとまっていった。
森脇 それで、'96年の4月に僕たちは何も知らされずに香港に連れていかれたわけですよ。二泊三日分だけの荷物を持って。
土屋 そう。香港での特番の撮影とだけ伝えてね。
松村 本当の企画を聞かされた時はどう思ったの?
森脇 最初は、「え、ネタはできないの?」と思いましたね。香港でネタを披露する企画だと聞かされていて、そのために有吉とずっと稽古してましたから。突然の話にわけがわからなくなりました。
土屋 猿岩石の故郷の熊野町と中継をつなげたけど、ふたりの家族にも企画の内容はまったく伝えていませんでした。
松村 有吉の母さんの「身体だけは……」という息子を思う震えた声は忘れられないよ。それにしても、香港からロンドンまでのヒッチハイクなんて、よくすぐに決断できたよね。
追い詰められた人間の「極限の顔」を映した
森脇 芸人としては、やるしかないじゃないですか。それに、無知だったのでユーラシア大陸がどれくらい広いか、わからなかったんです。最初に軍資金として10万円を渡されたんですけど、「これで旅費は足りるのかもな」と思ったくらいですから。
土屋 正直、ロンドンまでたどりつくとは思っていなかった。途中で断念するなら断念するで、どこかで諦める姿をカメラに収めればモノになるかな、と考えていたんです。
松村 あの企画の苦労は語り尽くせないと思うけど、しんどくなってきたのはいつくらいなの?
森脇 やっぱり、ベトナムに入って、軍資金の10万円が尽きた頃ですね。それまではどこか甘えがあって、「流石に一流のテレビ番組だから、食事も与えられないってことはないだろう」と考えていた。でも、本当に同行するスタッフは何もくれないんです。
土屋 あの頃からだよね、番組の反響が大きくなり始めたのは。視聴者は、人間が本当に追い詰められた極限の顔に惹きつけられた。ベトナムより前に、猿岩石がタバコを吸って休憩しているシーンを同行ディレクターが送ってきたときは、「タバコなんて吸わせるな!」と叱りつけました。
松村 この前、有吉がラジオ収録の休憩中にうまそうにタバコ吸っていましたよ。その経験のせいなんだな(笑)。
森脇 食事も水分もとれず地べたに倒れていると、僕らの顔のすぐ横に、ディレクターがコーラを「もう飲めねぇや」といってボトボトこぼしたんですよ。完全なイヤガラセ。人間ってこんな仕打ちができるんだ、と絶望しました。
【後編を読む】電波少年「大陸横断ヒッチハイク」はもう決して生まれえない企画…土屋プロデューサーがそう断言する理由
「週刊現代」2026年6月22日号より
