『木挽町のあだ討ち』永井紗耶子が新作『めぐる糸』で死者に代弁させた思い。「理不尽に奪われていい命などない」【インタビュー】

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『木挽町のあだ討ち』(新潮社)で直木賞・山本周五郎賞をダブル受賞し、同作の映画化も話題となった永井紗耶子さんが、このたび新たな連作短編集『めぐる糸 明治浪漫霊異譚』(双葉社)を上梓した。本書は、霊が視える斎木啓吾と、名家に生まれた変わり者の連翹寺正周のバディが数々の霊異に向き合う。恐怖心を煽る怪談話ではなく、浪漫と人情味あふれるエピソードが印象深い一冊だ。霊異をテーマに据えたきっかけ、「恵まれた」人間を描く際の心持ち、登場人物の台詞に込めた思いについてうかがった。
――本書は、死者の霊や生霊が章ごとに登場します。以前から、このような怪異や霊異に興味があったのでしょうか。
永井紗耶子(以下、永井):もともと怪談は好きで、『夢十夜』や『文豪怪談』の類を興味深く読んでいました。日本最古の説話集、『日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)』の研究をした体験も大きかったですね。私は、幼稚園と中高がミッションスクールだったので、歴史小説を書くに当たって、仏教や日本文化の知識が足りないと感じていて。それで、社会人になってから、通信で佛教大学の大学院に入学したんです。『日本霊異記』の研究は、そこで先生から勧められました。
当時、大学の先生に「幽霊は気体であって、それが腕を掴んだということですか?」「ロジカルに、現実的にどうなんですか」などと無粋なことを聞いてしまって。そうしたら、「いや、違うんだ」と。「当時、その人はそう見えたんだから、とにかく感じた通りに受け取りなさい。Don't think.feelだよ」と言われました。それで研究の際に、“視えるってどういう感じ?”という部分を積み上げていく中で、資料だけではなく、色々な人の体験談も聞きました。
――霊異に関する体験談には、どのようなものがありましたか。
永井:体験談にしても、『日本霊異記』にしても、おどろおどろしく怖がらせようとする語りではなく、「幽霊出てきたんだよね、あはは」みたいなあっけらかんとしたノリが多かったですね。「あれってさ、おばあちゃんの死んだお兄さんじゃない?」のように、身内の話だったり。もちろん、中には怖い話もありましたが、どちらかというと本書と似たような雰囲気の話が多かったです。
――時代背景を明治時代に設定したのはなぜでしょうか。
永井:はじめは奈良時代を舞台に書いてみようと思ったのですが、あまりにも現代と時代がかけ離れているので、そこにファンタジーの要素を取り入れると、もうわけがわからない感じになってしまって。デビュー前、現代版で書いてみたりもしたのですが、それもうまくいきませんでした。それで、諸外国の宗教や文化が入ってきた明治時代に、日本霊異記の物語をはめてみたらどうなるだろうと考えたんです。
整然とした宗教観があるわけではなく、むしろそれが一度クラッシュされた状態の明治時代と、仏教が伝来したばかりの奈良時代は、似ているような気がして。混沌とした時代に語られる不可思議な物語は、面白いかもしれないと思いました。

■善悪で分けられない人間をフラットに描きたい
――本書に登場する正周は、名家の生まれでありながら風変わりな人物で、興味のある事柄をためらいなく追求していきます。『青青といく』の海保青陵、『木挽町のあだ討ち』の篠田金治のように、永井さんの作品には、家柄やしきたりに縛られず自由に生きようとする人物がたびたび登場します。彼らを描く際、大切にしている思いはありますか。
永井:いわゆる「恵まれた」立ち位置の人は、どの時代にも存在します。代表的なところで言えば、武士で、男で、名家の生まれで、という人々です。身分によって生じる格差は、旧社会の問題点の一つと言えます。だからといって、正周のような立場の人たちを一方的に悪者に描くのは、逆におかしいと思っています。彼らを描く際に大切にしているのは、フラットさですね。
生まれ落ちた立場が社会構造的に恵まれていたとしても、必ずしも幸せとは限らない。正周もそうですが、良家の生まれで裕福で、ある意味では約束された地位があるわけだけど、その中で異端であるということの窮屈さ、「変な人」と言われる痛みもあります。でも、その“変な”彼だからこそ見えているもの、気づける痛みがある。私は、そういう描き方をしたいです。
――正周の祖母である寿照尼もまた、他者の「痛みに気づける」人物でした。「私の手は仏様ほど大きくない。縁あって出会った人に差し伸べることしかできん。(中略)それでも、何もせぬよりは幾らか良かろう」寿照尼のこの言葉が、強く印象に残っています。
永井:私自身もボランティア活動をさせていただくことがあるのですが、「偽善じゃないの?」という思いがブレーキになっていた時期もありました。でも、じゃあ、やらないことは善なのか? と考えた時に、できること、気づいたこと、目の前にある「やったほうがいい」ことはやろうよ、という感覚があってもいいのかな、と吹っ切れたんです。
寿照尼は、この台詞の前に、「所詮、豊かな者が施しをして悦に入っているだけとお思いか」と口にします。そのように見られる、思われるかもしれないと恐れて、反発や非難ばかり想像して動かないよりは、動いたほうがいいんじゃないかと思っています。
――重いテーマを据えた時、絶望に飲み込まれず、正周や寿照尼のように希望を手放さない人々を同時に描くのは、胆力のいることだと思います。そこで生まれる葛藤、わかりやすい方向に引きずられそうになる難しさはありますか。
永井:ありますね。割り切れたらいいのに、とよく思います。悪は裁かれ、善は救われ、努力は報われる。それがやっぱり理想じゃないですか。だけど、そうきれいには割り切れない部分が世の中にはあって、霊異や宗教はその割り切れなさを割り切るためのものなのかなと思っているんです。おとぎ話の構造のように、悪人をヒーローが叩きのめす。これってすごくシンプルで、白黒がパキッとしますよね。でも、それをやってしまった時に、負けた側、叩かれた側、あるいは“悪”とされた側に理屈はゼロだったのかといえば、そんなことはない。
だけど、その一方で、確実な悪意というのも存在しているとは思っていて。その矛盾が、物語を描く上でとても難しいと感じます。ただ、善悪で分けることの怖さにはすごく気をつけていて、そこを譲ってしまったら、自分の作品じゃなくなってしまうような気がしますね。

■「被害者は何も悪くない」と言い切りたかった
――人間は善悪できっぱり分けられない。とはいえ、「確実な悪意」は存在するとのお話でした。本書においては、第五話「生きていた令嬢」に登場する絹子(霊)を殺した犯人がそれに当たると思われます。恨みを抱く絹子に対し、正周が語りかける台詞が温かく、この一節に救われる人がたくさんいるだろうと感じました。
永井:殺された人間が復讐をする物語は、いわゆる怪談だとよくある話です。私は、それがずっと割り切れなくて。だって、悲しいばっかりじゃないですか。恨みを残して犯人を祟る。それは、なんだかすっきりしない。どうしたら救われるのかと考えるたび、こう思うんです。だって、この人なんにも悪くなかったのに、って。
現代でも、子どもや女性、お年寄りなど、弱い立場の人たちが犠牲になる理不尽な事件がたくさんあります。そういう時、殺された人は何も悪くないのに、「不注意だったんだ」とか、「警備が甘かったからだ」とか、被害者側や守る側の責任みたいに言われるのが納得できません。だから、「やった人間が悪いんだ」ということを言いたかったんです。
――「憎しみや悲しみ、怒りを抱いたことは何も悪くない。だから、貴女はまず、貴女御自らを許してあげて下さい。犯人ではなく、貴女を」正周のこの台詞には、永井さんの強い思いが込められているのですね。
永井:たとえば痴漢された場合でも、被害者のほうが「私が油断していたからだ」みたいに自分を責めたりしますよね。あるいは、なんらかの被害者遺族が「なんで迎えに行ってあげなかったんだろう」とか。その苦しみは、そもそも犯人のせいなんだって、言いたいじゃないですか。犯人が悪い。犯人が悪いっていうことを、一回ちゃんと言おうよって、すごく思ったんですよね。
この思いをファンタジーに入れ込むにはどうしたらいいんだろう……と悩みましたが、とにかく、このよくわからない泥を引っぺがして向こうに投げたいんだ! みたいな感覚があって。それをなんの屈託もなく言えちゃう人は、もしかしたら正周なのかな、と。ためらいもなく「それ間違ってるよ」と言える、自己肯定感のお化けみたいな正周だからこそ言える台詞が、一つの救いになればと考えたんです。とにかく、絹子をちゃんと幸せに向こうへ送りたい。それだけを考えて、この章を書き上げました。

■理不尽に奪われていい命などない。「死者」に語らせた理由と思い
――永井さんのお話をうかがっていると、好奇心旺盛なところも含めて、正周と似通ったところがあるように感じます。
永井:たしかに、正周が持つ強い好奇心は自分にもあります。霊異について調べる際も、「なんで?」「どういうふうに視えているの?」「何が視えているの?」「どんな感じ?」と質問攻めにしてしまうので。「映画『シックス・センス』が私の感覚にすごく近い」と、霊体験を持つ方に教えてもらった時は、すぐに作品を鑑賞しました。
正周のキャラクターは、すごく動かしやすかったです。霊が視えるのは啓吾ですが、啓吾は“視えているだけ”の常識人なので。そこにド変人の正周をぶつけることで、この物語が成立しました。
――物語を通して、死者に語らせたいと思った理由を教えてください。
永井:今この瞬間も世界では戦争が起きていて、「何万人の死者が」などと報道されます。その人たちが何を成したか、成さなかったかということとは全く関係なく、理不尽に奪われていい命などない。そのことを、私たちは忘れちゃいけないと思うんです。だからこそ、死者は「生きていた人」であると如実に伝えるために、霊に語らせました。
第一話に登場する坂本宗五郎も、内乱の最中に死んでしまった人物です。でも、当然ながらその人にはその人の人生があって、思いがあった。そういう部分を大切にできる世の中であってほしいです。
――見えなくてもあるもの、「声なき声」を掬い上げるところが、本書の軸であるように感じました。現代社会において、これらの声は十分に可視化されていると思いますか。
永井:可視化されていないと思います。苦しいことを口にするのはためらう人が多くて、そうじゃないほうの声が大きいと感じるんです。本当に助けを求めている人のところに、助けが届いていない。
でも、「見えなくてもあるもの」に対する敬意みたいなものは、根本的には日本の文化の中で大切にされてきたはずなので、そういうものがもっと可視化される社会であってほしいです。かつ、そういう声を拾い上げることができるようになれたらいいなと思いますね。
取材・文=碧月はる、撮影=後藤利江
