なぜ森永のキャラメルには「エンゼル」が描かれるのか…甘いお菓子のウラにある創業者の底なしの「母への渇望」

■「母の日」に森永製菓が深くかかわっているワケ
5月といえばゴールデンウィーク。その陰で、うっかり忘れられがちなのが第二日曜日の母の日である。スーパーの店頭にはカーネーションが並び、母への感謝を促すBGMが流れる。現在、すっかり定着しているこの行事には菓子メーカーの森永製菓が深く関与している。同社は戦前の1937年(昭和12年)から「森永母をたたえる会」(現在は「エンゼル母をたたえる会」)という活動をスタートし、全国から図画を募集するなどして、母への感謝を啓蒙し続けてきた。
なぜ、一介の菓子メーカーがこれほどまでに「母」という存在にこだわるのか。そのルーツをたどると、創業者である森永太一郎の、底なしの「母への渇望」に行き着く。
太一郎は1865年(慶応元年)、現在の佐賀県伊万里市に生まれた。生家は伊万里焼や魚を広く扱う大きな問屋だったが、父の代で没落する。太一郎がわずか6歳の時に父は他界し、全財産は債権者に持っていかれた。悲劇はとまらない。さらに悲惨なことに、残された母は他家へ再婚して家を出てしまい、太一郎は親戚の家を転々とする孤児同然の身となってしまう。
少年期に親の愛を奪われた経験は、彼にとって終生のトラウマであり、同時に巨大なエネルギーの源泉となった。後年の「母をたたえる」活動の裏には、永遠に手の届かない母を求め続ける、一人の寂しい少年の姿が透けて見えるといっても言い過ぎではないだろう。
■23歳で妻子を置いて単身渡米
親の愛を知らずに育った太一郎は、やがて身長6尺(約181センチ)の大男に成長する。「相撲取りにならないか」と本気でスカウトされるほどの立派な体格だった。焼き物問屋を営む伯父の世話になり、10代からこんにゃくや野菜の行商で小銭を稼ぐうちに商売の面白さに目覚める。
伯父からは「不正直な品を売るな」「適正と信じた価格は絶対に下げるな」「急がず10年を一期として働け」という商人のイロハを徹底的に叩き込まれた。この教訓はのちに森永の骨格となる。
太一郎という男はとにかく性格が極端で「直情径行」だった。これが長所でもあり短所だった。「物事に熱中する代わりに、こうと信じたら貫徹しようとする」――つまり、熱中したら最後まで貫かずにはいられない性分――と自身で自己分析しているように、ブレーキの壊れたダンプカーのようなところがあった。
1888年(明治21年)、23歳になった太一郎は「九谷焼をアメリカで売って一旗揚げる!」と突如思い立ち、妻子を残したまま単身で太平洋を渡ってしまう。英語も話せないのに九谷焼をどう売ろうとしたのかは謎だが、無鉄砲な挑戦は当然のごとく大失敗に終わる。あっという間に無一文に転落する。

■信心深い老夫婦との出会い
当時のアメリカは黄禍論が渦巻いており、東洋人は「ジャップ」と蔑まれる人種差別のドン底だった。学校の使い走りやホテルの下働きなどを転々とし、安月給で酷使される日々を送る。
そうした放浪生活の中、サンフランシスコ近郊のオークランドで雇われた際、信心深い老夫婦に出会う。彼らは人種差別をせず、太一郎を人間として優しく扱ってくれた。異国で蔑まれていた孤独な巨漢は、この無償の愛に触れてキリスト教に「熱狂的」に入信してしまう。どこまでも直情径行なのだ。
アメリカに来た初志はどこへやら、太一郎は急旋回して、「この素晴らしい教えを故郷のみんなに伝えねば!」と謎の使命感に燃え上がる。決めたら行動は早い。一文無しのくせに船の臨時雇いになって日本へ舞い戻る。
ところが、意気揚々と帰った故郷の伊万里では「あいつは邪教に染まった」と親戚中からドン引きされる。四面楚歌に陥り、打つ手もなく、わずか3カ月で再びアメリカへととんぼ返りする。行動力は異常だが、計画性は常にゼロである。
■3時間睡眠で洋菓子修行
再びアメリカに戻った太一郎は、自分で働いて伝道資金を稼ぐ「使徒パウロ」の生き方に感銘を受ける。そして、当時日本にはまだなかった「洋菓子の製造」を天職と定めた。何かの勘違いなような気もするが、古今東西、名経営者は思い込みが激しい特性がある。
折しもアラスカでゴールドラッシュが起き、仕事には困らず、高給でコックの誘いもあったが、「洋菓子が天職だ」と思い込んでいる太一郎は見向きもしない。
ここからの没入ぶりも常軌を逸している。パン屋の下働きからキャンデー工場まで職を転々としながら製法を学び、睡眠時間はたったの3時間。「目的のために倒れるのも本望」と、猛烈な自己搾取を続け、案の定、肋膜炎を患って生死をさまよう。

足掛け12年にも及ぶ凄まじい執念の末、1899年(明治32年)、34歳でついに帰国する。そして、東京・赤坂溜池の借地に建てたわずか2坪のバラック小屋で、「森永西洋菓子製造所」の看板を掲げる。最初に手掛けたのはマシュマロだった。
ただ、当時の日本人はミルクやバターの味を知らない。問屋に持ち込んでも「口に合わん」と突き返されてしまう。おまけに日本の高温多湿な気候のせいで、アメリカ仕込みの菓子はすぐに傷んでしまう。毎夜、返品された菓子の山を捨てるはめになる。大赤字だ。それでも、太一郎は律義に新品を作り直しては届け続ける。その愚直な取り組みが、駐日外国人の妻たちや宮内省からの信用を少しずつだが勝ち取っていった。
■身長差24センチの凸凹コンビ
太一郎を町工場のオヤジから大企業へと押し上げたのは、運命の出会いだった。1905年(明治38年)、太一郎は約10歳年下の松崎半三郎を支配人として迎え入れる。立教学院出身の秀才でキリスト教徒の松崎は、身長5尺2寸(約157センチ)。181センチの太一郎と並ぶと、さながら大人と子どものようなコンビだった。
松崎は入社にあたり、太一郎に「あなたは製造に専念し、私は営業を担当する」「個人事業を将来株式会社にする」という条件を出した。太一郎はこれを快諾し、両者は互いの領分を侵さない不可侵条約を結ぶ。「製造の森永、営業の松崎」という最強の布陣がここに完成した。
1914年(大正3年)、森永の代名詞「ポケット用紙サック入りミルクキャラメル」が発売される。高温多湿な夏場対策として高価なブリキ缶から紙サックに改良し、大正博覧会で売り出すと、これが飛ぶように売れ、会社の屋台骨を盤石なものにした。
このコンビの凄みは、不況期や有事にこそ発揮された。1923年(大正12年)の関東大震災では、太一郎自らが陣頭指揮を執り、被災者にビスケット6万袋やキャラメル10万箱を無料で配りまくった。内務大臣の後藤新平に直談判して配給米を買い入れ、玄米の握り飯と梅干とたくあんで寝ずの救助活動を展開した。
■当時は珍しい1日8時間労働を厳守
また、昭和恐慌で日本経済がどん底にあった1931年(昭和6年)にはライバルがこぞって値下げに走る中、森永は伯父の教え通り「正当な値段は絶対に下げない」と自分の考えを貫いた。
その代わり、複葉機「森永号」をチャーターし、全国80都市の空を飛び回るという前代未聞の「飛行機セール」をぶち上げた。上空からビラやパラシュートをばらまき、地上ではキャラメル30銭分の購入につき紙製飛行機の模型を進呈。模型は最終的に300万個が消費者の手に渡った。満州事変前夜の息苦しい世相の中、このド派手なキャンペーンは全国で熱狂的に迎えられ、見事なV字回復を遂げるのである。
経営者として素晴らしいのは、彼らが「女工哀史」とは無縁だったことだ。1919年(大正8年)、日本で初めて工場従業員に1日8時間労働制を導入した。出来高制のせいで休まない女子工員を見かねて、主任が休憩室のドアにカギをかけて無理やり休ませたというエピソードに、太一郎と松崎のキリスト教的な博愛精神が表れている。
■酒も飲まないと商談にならない
森永製菓といえば、羽根を広げた「エンゼルマーク」である。1905年に商標登録されたこのマークは、太一郎自身が考案した。長男の穏やかな寝顔をヒントにしたとも、最初に手掛けたマシュマロがアメリカで「天使の糧」と呼ばれていたことに由来するとも言われている。

「静かに信仰の道に分け入り、神に仕えたい」と願う太一郎だったが、決して穏やかな人物ではなかった。実のところ、菓子業界での激烈なシェア争いに巻き込まれると、「酒も飲まないと商談にならない」と夜の街にも繰り出し、元来の熱中しやすい性格も相まって、相当な暴れん坊ぶりを発揮していた。いつしか教会からも足が遠のき、世俗の垢にまみれていった時期もあった。
そんな「やんちゃ」な太一郎をたしなめ、タバコや酒をピタリとやめさせたのが、愛情深い後妻のタカ子だったが、最愛の妻は1930年(昭和5年)にこの世を去ってしまう。
臨終の病室で太一郎は深い喪失感に打ちひしがれ、かつてアメリカの地で涙を流したあの熱狂的な信仰心に翻然と立ち返る。
■奇妙な伝道師としての晩年
妻を失った太一郎は、1935年(昭和10年)、70歳を前にして松崎に社長の座を譲り、念願だった伝道の旅に出る。手には聖書と眼鏡を入れた信玄袋、腰には手ぬぐい、洋服姿なのに足元はゲタで、あごには真っ白な長いひげ。不審者すれすれの異様な出で立ちで全国を行脚した。
夜になれば教会に赴き、「我は罪人の首(かしら)なり」という演題で講演を行った。神に仕えると誓いながらも、いつしか事業を成功させるために熾烈な競争や資本主義の荒波にのまれ、酒や世俗の付き合いに溺れて純粋な信仰を見失ってしまった自分への、深い懺悔の念の表れである。
生い立ちやアメリカでの苦難、そして自らの罪深さを思い出し、大の男がボロボロと涙を流しながら語る凄絶な姿に、聴衆の中から「感激しました。これから自首します」と名乗り出る犯罪者まで現れたというから驚きだ。
ただ、人間はそう簡単に変わらない。聖人君子のような伝道師も、相変わらず人間臭かった。講演に集まった聴衆が少ないと、途端にあからさまに不機嫌になった。
■生涯手の届かなかった母への思慕
また、昼間はお忍びで全国の問屋や小売店を回ったが、店先で菓子の扱いが雑なのを見つけると我慢できずにしゃしゃり出て、「商売は正直でなければ栄えません!」と説教をぶちかまし、勝手に商品の陳列を直し始めた。
この愛すべきエゴの強さこそが、一代で巨大企業を築き上げる経営者の業というものだろう。

体調を崩しても「私の務めを妨げないで下さい」と馬車馬のように働き続けた太一郎は、妻を失ってからの7年間を信仰一筋で生き抜いた。
子どものための遊園地のような施設を作ったほかは贅沢を戒め、小さな家で暮らしながら、1937年(昭和12年)1月24日、賛美歌に包まれ、エンゼルに手を引かれるように静かに息を引き取った。享年71。
奇しくもその4カ月後、森永製菓は本稿の冒頭で触れた「森永母をたたえる会」を発足させる。生涯手の届かなかった母への思慕は、創業者の死と入れ替わるように、事業のかたちで残された。
戦後、サトウハチローは森永のCMソングを作詞した。
「だァれもいないと思っていても どこかで どこかで エンゼルは いつでも いつでも ながめてる」
親の愛を知らず、極端で怒りっぽくて、無鉄砲な大巨漢。誰よりも人間臭い男は誰よりも「愛」に飢え、生涯をかけて甘いお菓子を作り続けた。彼が残したエンゼルは、いまも天上から、現代を慌ただしく生きる子どもや母たちを、静かに見つめ続けているだろう。
参考文献
工藤憲雄「飛翔編(62)森永太一郎、洋菓子の大衆化に成功(20世紀日本の経済人)」日本経済新聞 2000年3月12日 朝刊
大隈知彦「さが100年の物語20世紀の群像(31)森永太一郎(1865〜1937年)〈1931(昭和6)年宣伝革命〉」佐賀新聞 1999年8月9日
「=さが維新ひと紀行=(7) キリスト教の洗礼」 佐賀新聞 2018年2月17日
「食の文化と企業財団 ]12[エンゼル財団」 日本食糧新聞 1992年9月28日
「シリーズ菓子を語る(2) たらちね(2)森永太一郎苦難の青春記」 日本食糧新聞 1995年10月11日
「[創業物語]/森永製菓・森永太一朗/挫折の連続/乗り越える」 沖縄タイムス 1998年6月3日 夕刊
森沢真理「[地方紙と戦争 坂口献吉交友抄 外伝]7 森永太一郎(1865〜1937) 広告駆使した『製菓王』」新潟日報 2014年5月22日 朝刊
永井一顕「[異才列伝]森永太一郎 不屈の魂 伝えるエンゼル」読売新聞 2010年6月20日 朝刊第2部
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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)
