成功する親友への嫉妬――すれ違い続けた二人のロスジェネが「行き着いた先」【親友は山に消えた』】
「親友」とは何だったのか―
親友・平賀淳をアラスカで失った作家・小林元喜は、3年後、その最期の場所――ラストプレイスに立った。その体験は、『親友は山に消えた』(小学館)に結実すると同時に、懺悔として書き始められた原稿を「救済」の物語へと変えていく契機となった。
前回までの記事はこちら
第1回『懺悔から救済へ――嫉妬にさいなまれた作家が、親友の死に直面して知った「書くことの意味」』
第2回『「高校を辞めてフリーターになる!」―反発と万能感がピークに達した「あのころの記憶」』
第1回では小林がなぜこの本を書かずにはいられなかったのか、その背景にあった後悔や嫉妬、そして「喪の作業」としての執筆の意味を聞いた。第2回では、二人の関係の原点にさかのぼり、90年代という時代の空気のなかで育まれた反発心と万能感、そして互いを強烈に意識し合うライバル関係がどのように形づくられていったのかをたどった。
では、その関係はその後、どのように変化していったのか。競い合い、すれ違いながら、それでも切れなかった二人のつながりは、やがてどのような形で結実していくのか。
社会に出た二人の歩みを追いながら、「親友」という言葉の内実にさらに踏み込んでいく。
村上龍、野口健、石原慎太郎との出会い
藤岡雅 平賀さんと小林さんって「やりたいことをやり抜くぜ!」ということを誓い合った仲ですよね。それで、最初はいいスタートラインに立っていた。
なにしろ、小林さんは大学時代には大作家の村上龍さんの事務所に出入りし、社会人になるとアルピニスト(登山家)の野口健さんのマネージャーとなって、さらにはこれまた大作家で当時東京都知事だった石原慎太郎さんとの付き合いを始めるわけです。そこでバリバリ仕事をしていたのですからね。小説家という具体的な野心を胸に、それに近づくよう行動を起こしていた。
小林元喜 そう言われると、そうかもしれませんが……。村上さんも石原さんも憧れの存在だったとはいえ、人間ですからどこかに住んでいるわけで、会うことくらいはできるじゃないかと思っただけです。今思えば、「本当に行くのかよ」、という話なんですけど(笑)。やっぱり学生の特権を意識していたのかな。大人になったらできないぞ、みたいなことをけっこう冷静に考えていたのかもしれません。
藤岡 村上龍さんに会いたい一心で、実家に行ってピンポンして、ご両親に本人を紹介してもらうなんて、自宅への直撃取材が本分の週刊誌記者も真っ青の行動力です。そんなこと普通の人はしないよね。
一方で、平賀さんも夢をかなえようと動き出す。映画監督になると決め、日本映画学校に進む。そこでドキュメンタリーを専攻します。平賀さんも小林さんも、自分の夢に忠実に生きようとしていた。
だけど、村上龍さんと仕事を始めたり、「NHK青春メッセージ」に出場したりと、平賀さんからすれば、小林さんの方が光っていたということなんじゃないかな。
小林 たしかに、当時は怖いものなんかありませんでした。ポジティブでイケイケです。その後、大きく人生を踏み外すわけですが、苦しいときに学生時代を振り返ると、その過去がすごく自分を苦しめたんです。
「氷河期時代」の彷徨
小林 僕は平賀と「小説家になる」と約束していたんですね。そして、平賀は「映画監督になるんだ」と。でも、やっぱり小説家になるというのは至難の業で、作品を応募していたんですが、鳴かず飛ばず……。これは大変だと思いました。絶望を感じるようになると、平賀と約束した「作家になる」という約束を無かったことにしたくなるんです。そうしたら楽になるだろうと。そんなふうに思ってしまったんですね。
そして、すべてを捨てて弁護士になろうとした。司法試験に力を120%投入すれば、何とかなるんじゃないかと。この考え方が僕にとっては危ういものだったんです。
藤岡 野口健さんのマネージャーになり、石原慎太郎さんという二人の異才と付き合いをしていると、二人がどんどん突き抜けていくのに、彼らの下にいるだけの自分がたまらなく我慢できなくなったと、こういうことだったんですよね。野口さんに人生を全部食われちゃうんじゃないかと。このままでは、自分は作家になれない――そんな焦りもあった。ところが、野口事務所を離れたことで、負のスパイラルに突入してしまう。
小林 うまく心を整理できていればよかったんです。野口さんともうまくやり、事前にしっかり司法試験の情報収集をして、これは無理だとジャッジできていれば問題なかった。でも、僕の気質ではそれができなかったんです。仕事をぜんぶ辞めて、司法試験の参考書をなけなしの金をはたいて買ってしまった。自分を追い詰めようとしたわけですが、いま振り返っても、当時の自分が怖いというか、何てことをしたんだと、恐ろしいです。
藤岡 司法試験の高すぎるハードルを目の当たりにして、自分はすべてを失ってしまったという絶望感に襲われる。ここで、最初のうつ病を発症する。
小林 はい、そして、「死のう」となる。こんなふうに飛び込んでしまう性格は、今も無くなっていないので、本当に気をつけているんです。ちゃんと自分を取り扱わないといけないと。下手をすると死んでしまうので。
振り返れば、石原さんと野口さんと仕事をしていた最初のころは、すべてがうまくいっていたんですよ。自分の力を存分に発揮して働けていた。だけど、もっとその力を高めようとか、今すぐ作家にならなきゃいけないとか、だんだんと頭でっかちになっていったんです。その結果、作家になれないことに絶望感を抱くようになる。すると、夢を手放す方が楽になるんじゃないかと考え、ステータスを求めて弁護士になろうとしてしまった。
それで、すべてを失ったわけです。
失って初めてその価値がわかると言いますが、僕にとって野口事務所と石原事務所が一番大事な場所だったんです。みなさん、かわいがってくれていたわけで、彼らは何も悪くないのに自分で勝手に逃げ出してしまった。その独り相撲に気づいたとき、うつ病になったのです。
藤岡 その後、野口事務所に復帰しますが、またもや野口さんとぶつかります。
小林 はい。回復して野口事務所に出戻るわけですが、やっぱり彼も強烈な個性なので、何度もぶつかって、また辞めてしまった。そこから職を転々とします。
藤岡 あの時代は就職氷河期で、僕らはロストジェネレーションなんて呼ばれ方をする世代です。言い過ぎかもしれませんが、感覚的には僕らには何も用意されていないような、そんな世界だったという思いがあるんですよね。というのは僕らの10年くらい上の世代は夢を諦めても、さっさと就職できたはず。でも、僕らの世代は夢をあきらめた場合でも、安定職業なんてものはなかった。中途採用なんてほとんどなくて、再スタートが難しいのが現実でした。
小林 そうかもしれません。
藤岡 フリーターやハケンに対して「自己責任論」なんてものが向けられて、だんだんと夢を追うことにも後ろ指をさすような空気が広がった。被害妄想かもしれないけど、僕らの20代後半はそういう時代だったよね。ところが、夢をあきらめても、それに釣り合うような仕事なんて用意されてはいなかった。小林さんも、当時はそういう気持ちだったんじゃないですか。
小林 そこは、もうその通りでございますね。
藤岡 でも、話を聞いていると野口健さんのマネージャーとしてジェネラリストみたいな感じで、ありとあらゆる仕事をこなしてきたわけじゃないですか。スケジュール管理から、メディア対応、イベント企画とか。若くしてそんなキャリアを持っているなんて、企業から見れば、本当は得がたい存在であったはずだけど。
小林 まさしく、僕もそう思っていました。野口さんや石原さんの事務所でやっていた仕事が、求人としてマッチすると当然のように思っていたんですよね。その自負が、自分を保つための最後の砦のようなものだったと思います。
藤岡 だけど、当時、僕らの世代向けの求人広告に載っていた仕事は、スペシャリスト採用みたいなのが多くて、専門的なキャリアを持つことが重宝されていたと思います。
小林 そう、だから現実には全然マッチしない。就職エージェントの人が、仕事を紹介するのに困り果てているような状態で、僕にはまったく仕事がないんだと痛感しましたね。あの時の人材紹介にはフォーマットがあったと思います。エージェントから見れば、僕の経歴は定型からまったく外れていたのでしょう。
石原慎太郎、野口健という名前は、当然みんな知っているわけで、ある種、強烈な個性を放っているお二人です。政治的でもあるわけで、そこにアレルギーがあったりもする。「そっち系の思想の人か」と見られて、エージェントから扱いづらいと判断されたのでしょう。
藤岡 そして、生命保険の外交員を始める。
小林 はい。もうとにかく稼げばいいんだろ、と投げやりになった。生命保険はどうやら稼げるらしいという話を聞いて、飛びついたんです。そこで家族や友達に保険を売って、「どうしたんだよ、元喜」と言われる。そして、「何をやってんだ、オレは……」となった。こうして、二度目のうつ病を発症し入院しました。ついには作家になるのは難しいと、敗北を認めたんです。
「もう、あきらめるので、頼むから就職させてください」、「人並みに生きさせてください」と、そんな気持ちです。すでに家族がいたので、その責任だけは守っていかなければならないと。
藤岡 大変でしたね。
小林 大変でした、本当に。でも、やっとこうして過去の話ができる日が来たわけです。なんとか生き延びることができたって感じです。
藤岡 けっこう、同世代の多くの人が同じ経験をしていると思います。僕も『親友は山に消えた』を読んでいると、楽しいことも辛いことも、情景として浮かんできますから。
「俺たちは中田英寿じゃないし、東大にも行けない」
藤岡 平賀さんは映画監督を目指しつつ、山岳カメラマンとして成功していきます。一方で、小林さんは自身の夢を叶えられず、平賀さんと距離を置くようになっていく。小林さんって、自分の気持ちに本当に正直に生きてきたんですね。
小林 ええ、恥ずかしながら(笑)。一方で平賀は、キャリアをコツコツ積み上げて、仕事をしっかりこなしていく。そうしたなかで、着実に離れていくんですよね。平賀の活躍を見ているのは、もう何よりもしんどかった。ただ眩しいだけでなく、自分の現在地を突きつけられているようで、耐えがたいものでもありました。
藤岡 少し時代をさかのぼりますが、日本映画学校の卒業制作の平賀さんの作品に小林さんは打ちのめされます。劇場公開を目指していたが、実際に公開されたのは、同期の小林貴裕さんの作品でした。その先品は『home』(2002年)といいますが、実は当時、僕も観たんですよね。自身の引きこもりの兄の生活に寄り添い、兄弟の対話を描いたドキュメンタリー映画です。
小林 おお、そこつながりますか。
藤岡 あの時の自主映画ではドキュメンタリーが盛んに作られていたような気がします。マイケル・ムーア監督の『ボーリング・フォー・コロンバイン』(2002年)が大ヒットしたのと同時期ですよね。懐かしいですね。
また、平賀さんのお父さんの文孟さんが、うちの親父とめちゃめちゃ似ている。平賀さんのお父さんはバス運転手で飛行機に乗るのも嫌がっていました。ウチの親父は電電公社時代からNTTに勤めた人間で、堅実に生きることしか知らなかった。僕は学生時代に中国を一周したのですが、それにも大反対でしたね。同時にモンゴルまで行こうとしたら「長崎県のテーマパークにモンゴル村というのがあるから、そこで十分だろ」と言ってしまう親父だった。平賀さんはもっと優しく親父さんに接していたようですが、僕としては実に腹立たしかった経験です。
小林 そうなんですね。本書を読んでくれた友人には、平賀の親父に自分の親父を見るという感想が多かったんです。
藤岡 やはり、そうなんですね。
小林 世代論にもつながるような話なのかなと思った。うちの親父も、言ってみればそんな感じなんですよ。
藤岡 うちの親父は団塊です。その世代って70年安保闘争とか学生運動をやっていた当時の学生ばかりが注目されるけど、大多数はみんな保守的ですよね。反権力なんて思想はみじんもない。冒険するようなことも考えたこともない。戦後、生まれてすぐ夢なんて見る間もなく、中学や高校を出て就職したのですから当然かもしれません。堅実にやるのが美徳、工場に行ってしっかり働いていれば人生安泰と考えていた。
でも、僕らが社会人になるころには、工場は非正規雇用者だらけになって、偽装請負の違法労働が蔓延するような時代になっていました。一般的な僕らの世代の多くの人は、父親の教えに従って堅実な人生を歩もうとしたけど、それすらも望み通りには行かなかったように思います。
でも、平賀さんは違った。親父さんの堅実な空気にしっかり反発していましたよね。
小林 はい、平賀は僕なんかより行動的でしたから。海外に行って、世界を見ていて、決断するのがとにかく早かった。中学の頃から映画監督になるんだと決めて、だからこそ、僕も平賀に触発されたんです。やりたいことを見つけなきゃなと、強烈に思わされた人間です。
一方で、平賀はリアリストでもありました。もともと彼は中学校でサッカー部だったんですが、サッカーは人気があって競争も激しい。さらに、進学した韮崎高校には中田英寿がいたんです。平賀はサッカー部には行かず、山岳部に入る。そこでチャンピオンを目指すぞ、とやる。最初から戦い方を知っていたんですね。やるなと思いましたね。そして、興奮して僕にこう話すんです。
「俺たちは中田じゃないし、東大にも行けない」と。どうやって勝つかを考えて、山岳部を選んだわけです。
藤岡 けっこう戦略的なんですね。
小林 逆に無鉄砲なところもあって、それが混ざり合っているから面白かった。すごく分かりやすい性格が同居してる感じです。そもそも人間はそういう生き物だと思うんです。平賀は、それを素直にできてしまう。
藤岡 平賀さんの学生時代の彼女にも取材をされていましたね。日本映画学校で平賀さんと同期だった竹田朋子さんはいい味を出していました。
小林 今はオーストラリアに住んでいます。彼女とも学生のころはよく遊んでいたんですよ。
平賀の当時の服装に性格がよく表れていましたから、それをどう書くかすごく迷ったんです。当時、彼女がデートした時の平賀の服装について「もらいものを寄せ集めて着ているから、ひっちゃかめっちゃかで」と言ったんです。このワンフレーズで、平賀の人柄がわかるなと思った。竹田さんの感性には、本当に助けられました。
藤岡 お金がないなかで、服も生活も人からもらったりして、試行錯誤で賄っていったということですよね。僕も当時のバイト先に、高卒で田舎から出てきたモデル志望とか俳優志望とか、そんな友達がいっぱいいたから思い出しますね。みんな、貧乏でも何かをやりたがっていた。
小林 そうだったと思います。平賀も、野口さんのところに「エベレストでカメラマンをやらせてください」と言いつつも、そもそもカメラすら持っていなかったんですからね。
その後は、プロとして成功してからは機材もしっかりそろえて、先行投資する頭のいいやつだったのですが、駆け出しのころは全てがもらいもの。あるもので、とにかくやってみるという時代でした。
―――
それから約20年がたった2022年5月、平賀淳の死が、二人を分かつことになる。
つづく最終回『ついにたどり着いた「最期の座標」―「喪の作業」の終わりに芽生えたこと、「親友」の死に感じたこと』では、二人の親友関係はどのように終わりを告げたのか、それは何を残したのか。小林元喜が語りつくす。
