懺悔から救済へ――嫉妬にさいなまれた作家が、親友の死に直面して知った「書くことの意味」【『親友は山に消えた』】

写真拡大 (全5枚)

不思議な「生」の物語

「やっぱり行くしかないのですね。どうか気を付けて。元気で帰ってきてください」

そう言ってグラスを傾けたのは、2025年2月、東京・新宿のバーだった。それから3ヵ月後、小林元喜はアラスカへと旅立っていった。

彼が向かった先は、アラスカ・デナリ国立公園の高峰ハンター。3年前に親友を失った場所――いわばラストプレイスだ。中学時代から30年にわたって続いた関係の、その終わりの地点に、自分の足で立つための旅だった。

その経験をもとに書かれたのが、このほど小林が上梓した『親友は山に消えた』(小学館)である。

2022年5月、小林の親友・平賀淳は、カメラマンとして山岳撮影の移動中に氷河上の氷橋の崩壊に巻き込まれ滑落死した。43歳だった。

本書は、華々しい実績や肩書きとは無縁の二人の人生を、正面から描いた作品だ。

著者も無名なら、主人公も無名。今の出版状況を考えれば、異例かもしれない。それでも読後に残ったのは、「この物語を書かずにはいられなかったのだろう」という感触だった。

私が小林に出会ったのは、前作『さよなら、野口健』(集英社インターナショナル)のインタビューがきっかけだった。それから4年ほど、3ヶ月に一度は顔を合わせて、互いのノンフィクション作品の構想を語り合った。本作を書き上げるまでの過程も、断片的ではあるが見てきたつもりだ。

実際、彼の初稿は、親友の死を“親友らしからぬ感情”で受け止めてしまったという、懺悔に近い思いがにじんでいた。

しかし、アラスカへの旅を経て、その物語は大きく変わっていった。「死」をめぐる物語でありながら、読後に残るのは、不思議な「生」の実感だった。

アラスカ 親友が最期を迎えた場所へ

藤岡雅 いきなり本書のクライマックスから入って恐縮ですが、親友の平賀淳さんが最期を迎えた座標、いわゆるラストプレイスにたどり着いたときの小林さんの言葉は、思わず息を詰めて読んでしまいました。そこにたどり着くまでに3年、私はその終盤になって、アラスカに行くと打ち明けられた。手帳を見れば、去年(2025年)の2月17日のことでしたね。当初は、とても心配したことを覚えています。

小林元喜 はい、よく覚えています。新宿のバーでしたね。

藤岡 でも行って良かったですね。中身には触れませんが、小林さんの感情の発露は、強く印象に残りました。

小林 はい、本当によかったです。行くのと行かないのでは、まったく違うと痛感しましたね。もう、泣いちゃって、泣いちゃって……、泣けてしょうがなかったです。

藤岡 感情というものは、現場に行ってみて初めて出てくるものなんですね。あらためて現場に立つことの重みを教えられました。

小林 しっかり出てきたので、むしろ安心しました(笑)。何も感じなかったらどうするんだと思っていましたから。大変な思いをして、その場に行って、何もなかったら、いったい何だったんだとなりますし、もしそうなったらどうやって本をまとめたらいいんだと。気が気でなかったです。

藤岡 その不安が、かえって面白いですよね。長年ライバルだった親友だからといって、最期のその場に立って感情が奮い立つとは限らないじゃないかと。そんな冷静な感覚でラストプレイスに近づいていったというのは、納得できるところがあります。だって、取材は生きて帰ることが本当の目的ですから。死んでしまっては、作品は完成しないのですからね。過酷な環境で現実に向き合っている最中では、感情なんて沸き立ってこない。

小林 そうなんです。

藤岡 しかも途中、遭難事故の情報が入り、ガイドの方々が救助に向かう。その間、小林さんは一人で待つことになるわけですが、救助に向かう直前、ガイドのクレアさんが見せた行動が強く印象に残りました。羞恥心などまったく介在しない、まさに生存を優先した振る舞いでした。それを目の当たりにして、アラスカの白銀の世界では「生きること」そのものが切実な問題なのだと実感させられました。

小林 彼女はめちゃくちゃ美人なんですよ(笑)。そのシーンを書くかどうかは、悩んだのですが、やはりあれは書くべきだと思って。

藤岡 そのクレアが、最後に小林さんを抱きしめる。日本語なんて分からないはずなのに……。

小林 クレアが知っている日本語は、「寿司」とか「芸者」くらいでしたからね。私がラストプレイスで平賀と向き合ったとき、そばで聞いていた彼女は私の言葉の意味は一言も分からなかったはずです。それに、私と平賀の関係も全く知らないわけで。それでも感情というのは、伝わるのです。こんな経験は初めてでしたね。

「無名の作家」と「無名の親友」

藤岡 この作品のすごく本質的な特徴に、書き手である小林元喜さんも、アラスカで亡くなった小林さんの親友・平賀淳さんも「無名」であるということです。小林さんは前作『さよなら、野口健』という本を出しているし、平賀さんも山岳カメラマンとして業界では有名な存在とはいえ、世間一般にはほとんど知られていない。

小林 はい、だから当初は本作の出版は、無理筋だと思っていました。

藤岡 僕は「週刊現代」の記者なので、小林さんが「無理筋だ」と言うのはよくわかる。週刊誌でも商業出版でも、売れる企画に必要なのは結局「人」です。取材対象か書き手のどちらかが有名人であることです。

小林 のっけから、つまずいてますからね(笑)

藤岡 プロであればあるほど、本作が成立すると思えない。その最大の障壁を越えたこと自体が、この作品の大きな特徴だと思います。それは、小林さんがメディア界と距離をおいて、作家を目指してきたことと関係している気がします。

小林 なるほど、たしかに僕が出版界に身をおいていたら、やろうとは思わなかったかも。知らない強さというか、それはあるかもしれません。よくわかってないわけですから(笑)。

藤岡 メディア業界にどっぷり浸かっている人間だったら、最初から諦めていたんじゃないかと思いますね。

小林 私も成立しづらい作品だと感じていたのですが、それでも取材を始めると、それは切実な問題だということに気づきましたね。なにしろ、関係者に取材していくと、「これは本当に本になるのか?」という声が多かったですから。とくに平賀と友好があったメディア関係者は、おおむね「自費出版で思い出文集でもつくるのですか?」というような反応でした。

藤岡 それでも出版にこぎつけたのは、中身に力があったからだと思います。というわけで、この作品に限っては、同じ無名の私が著者インタビューを対談形式にまとめても許されるだろうと(笑)。一応、私も一冊自著(『保身 積水ハウス、クーデターの深層』KADOKAWA)を出していますので。

僭越ではありますが、無名ノンフィクション・ライター同士の「対談」ということで進めていきたいと思います。

小林 ありがとうございます!

「淳ちゃんの本を書いてあげて」

藤岡 では、どんな気持ちでこの本を書かれたのかを教えてください。

小林 正直に言うと、平賀が亡くなった時、意外なことに心にダメージが来た感じはなかったんですよね。ところが、不思議なもので、一周忌を迎えた後ぐらいから今まで蓋をしていたものが一気に開いたような感じがした。そこから、ものすごく精神的なダメージを受けたのです。

私は、2007年と2014年に希死念慮にさいなまれる「うつ病」を患いました。

サカナクションの山口一郎さんが2024年1月にうつ病であることを公表されましたが、その勇気ある行動に僕自身は非常に助けられました。やはり世間からはまだまだ理解されていない病気なので。

うつ病というのは、完治はほとんどしないんですね。「寛解(かんかい)状態」といって、普段は正常に暮らせる状態になっても、6割くらいの人が再発すると言われています。

私自身、病気とうまく付き合ってきたつもりでしたが、平賀の一周忌を終えたあたりでグラリときた。精神科の主治医の指導で、薬を使ってコントロールしたのですが、ただ怖いなと思ったのは、薬を飲むと悲しみみたいなものまで少しずつ無くなっていくんですよ。

それは、生きていくうえでは大事で、心の平静を保てることは良いのですが、一方で薬の力でごまかしているだけでもある。平賀に対する感情まで失われていくような感じがして、怖かった。

そんなことを主治医と話していると、彼から「喪の作業」という言葉が出てきたんです。

喪の作業とは、死別の悲しみをケアして心の折り合いをつけるための作業ですが、その言葉を聞いて、なるほどなと。喪の作業ができていないんだと、自分でも客観的に理解できた。それなら、平賀の人生を描くことで喪の作業をやってみようと思ったのです。

藤岡 一周忌のころが、平賀さんへの死が真に迫って来る時期だったのですね。

小林 その通りです。本を書き始めるまで一年かかったのは、気持ちが落ち着いたからではなく、一年経って体調が悪くなったから。こう言うと変ですが、書くためには具合が悪いくらいのエネルギーが必要だったのかもしれない。瘡蓋(かさぶた)ができたと思って、剝がしてみたら血がまた流れはじめた。流血しながら、その血で描きはじめたような、そんな感じです。

藤岡 平賀さんは小林さんにとって中学時代からの友人で、しかも長い時間をともにした親友。地元のコミュニティで最も身近な人のことを書くわけですから、周りの人たちの悲しみや積年の思いを考えたら、おいそれとは描けませんよね。

小林 そこが大きいんですよね。平賀が亡くなった直後、奥さんの洋美ちゃんから「淳ちゃんの本を書いてあげて」と言われたんです。それは、混乱状態でのことで正式な依頼というわけではありません。泣きながら「このまま淳ちゃんの人生を無かったことにしないで」と、そんな言葉でした。もちろん、そのときは「書くよ」と言うしかない。

すこし落ち着いてから平賀の母・け江子さんからも「元喜くんが淳の本を書いてくれたら、どんなにいいか」と言われた。当然ですよね。自分の子の親友に作家がいるんですから。

でも、そういう話はその時だけで終わることがほとんどだと思うんです。こちらは、「もちろんです」「書きますよ」と言いつつも、無名同士の物語が成立するのかと……。正直に言うと、当時は「無理だろう」と思っていました。

「親友失格」

藤岡 ところが、平賀さんの一周忌を終えたころ心の病に対処する必要が出てきたと。そして、「喪の作業」のために“自分事”として、書く必要に迫られた――、そういうことなんですね。

小林 その通りです。

藤岡 ただ、平賀さんに対して小林さん自身も、どこか後ろめたい気持ちを抱えていたんですよね。それは、小林さんが本作の初稿につけたタイトルに表れていたと思います。

初稿のタイトルは、「親友失格」でした。

小林 はい。

藤岡 つまり、本作は平賀さんへの懺悔だったわけです。ところが、その後、アラスカの“ラストプレイス”に向けて旅に出た。帰国すると、タイトルは『親友は山に消えた』に変わった。だから本作は、親友への懺悔から平賀さんの人生をたどることで、小林さん自身への救済へと導かれる物語です。そこが、この本の核になっている気がします。

小林 そうなんです。最初はずっと残念な気持ちでした。平賀は、僕に対して最初から最後まで優しかった。でも、僕は作家を志しながらそれがかなわず、山岳カメラマンとして成功していく平賀に嫉妬し、ネガティブな感情を長らく持ち続けました。

4年前に『さよなら、野口健』でデビューすることができたことで、ようやく平賀とまともに顔を合わせられるようになりました。これからゆっくりと語り合えると思ったそのとたんに、彼は消えてしまったわけです。ですから、「ありがとう」も言えなかった。これが私のなかで後悔としてくすぶり続けた気持ちだったんです。

「親友失格」として書いたときは、最後まで平賀の気持ちに応えられていないまま終わった。平賀の追悼のつもりでも、書き手としてのエゴを感じて罪悪感がありました。でも、アラスカに行って少しは許された気がした。何より、平賀淳という存在は消えていないということが確かめられた。そのとき、この本は「親友失格」ではないなと思ったのです。

―――

つづく『「高校を辞めてフリーターになる!」―反発と万能感がピークに達した「あのころの記憶」』では、昭和末期から平成の初頭、学校に暴力が蔓延していた、あのころに育まれた友情について語ってもらう。

【つづきを読む】「高校を辞めてフリーターになる!」―反発と万能感がピークに達した「あのころの記憶」【『親友は山に消えた』】