「母親の命令は絶対だった」と話すのは、タレント・司会者として活躍するUK(楠 雄二朗)さん。母親の夢を叶えるため、幼少期から、違和感をもちながらも芸能界での活動を続けていました。大学時の就活をきっかけに「もう辞めたい」とようやく言えたUKさんに、母親が言い放ったのは、「ママは生きていけない」という残酷なひと言でした。そこから25年、苦しみもがく日々を生き抜いたUKさんの本当の「親卒」とは?

【写真】「絵に描いたような美しい親子だった…」幼少期のUKさんと若き日のお母さん ほか(6枚目/全16枚)

母の口癖は「芸能界で有名になって」だった

── 現在、テレビやラジオなど幅広く活躍されているUKさんですが、お母さんの希望で幼少期から芸能活動を始めたそうですね。

幼少期のUKさん。祖母とのツーショット

UKさん:はい。母は熱心なステージママでした。母自身、大学生でモデル活動を始めて、深夜の人気番組にカバーガールとして出演した経験があり、女優をずっと夢見ていて。芸能界で華々しく活躍したいと願っていたものの、その夢を断念し、家庭に入ったんです。

そんな経緯もあり、僕が物心ついたころには毎日のように芸能界を諦めた無念の思いを聞かされるように。そのうち僕は、母の知人が経営するモデル事務所に所属し、キッズモデルとして活動するようになりました。

母の当時の口癖は「芸能界で有名になって」。でも、当時の僕は人気おもちゃメーカーの説明書の表紙モデルに選ばれた程度です。どんなに頑張っても、その状況では母からは褒めてもらえませんでした。

母の希望を自分の夢とすり替えて生きた

── 11歳からは4年半ほど、英国へ留学されたそうですね。

UKさん:僕に「何かひとつでも特技を身につけさせたい」という親の希望から留学することになったんです。母からの命令は、常に絶対でした。


 
留学生活はそれなりに充実していました。ところが、留学を強く勧めたくせに「日本に帰らないと芸能活動ができないから」と母が帰国を促してきて。最終的には経済的な事情もあって15歳で日本に戻り、芸能活動を再開しました。

留学時代のUKさん(右から2番目)。友達と仮装イベントで

当時の僕はとにかく「母の期待に応えなければ」の一心で。母がつき合ってほしいと思う友達と無理をしてつき合って、母が喜びそうなことを言う。母が目指してほしいことを自分の夢とすり替えていたんです。

── 無理をして、すべてお母さんの言いなりにならざるを得なかったということでしょうか。

UKさん:当時は、そうですね。とはいえ、母から嘱望されるままやっていた芸能活動自体は、決して間違ってはいなかったと思うんです。大学を卒業してからいままで25年間、人前に出る仕事でお金を稼いで生活ができているんですから。

でも、自分の意思ではなく他人の意思に従順に合わせていると、結局、判断基準がわからなくなる。当時の僕は、母親に認められ、ほめてもらいたくて、要求に応じすぎていました。違和感を抱きながら「母が求める息子像」を演じれば演じるほど、気持ちは枯渇していました。

今思えば、幼少期からずっと母のために生きてきて、それ以外に何が幸せなのかわからない状態だったと思います。

「もう辞めたい」と初めて打ち明けた本音に…

── そういった状態が「何かおかしい」と最初に気づいたタイミングはあったのでしょうか。

UKさん:大学4年生のころ、就活をしようとしていたときです。「これ以上、芸能活動を続けていても不毛だから、もう辞めたい」と、母に打ち明けたことがあったんです。そのとき母から返ってきたひと言は忘れられません。「あなたの人生だからいいよ。でも、ママはもう生きていけない」と。まるで脅迫するかのように言われました。

そのときに初めて「いままでもこれからも、僕が生きるのは僕自身の人生じゃないんだ」ということに気づいて。「この母に自分の人生すべてを捧げないといけないんだ」と絶望的な気持ちになりました。

── お母さんの衝撃的な発言に対して、UKさんは反発されたのですか?

UKさん:今まで反抗したことがなかったので、そんな発想はなかったです。反発心というより、自己犠牲のほうへ傾きました。母のひと言で、それまで信じていたことや生きる目的を失った感覚になり、とにかく生きているのがしんどかった。体調を崩したときには、これで死ねばラクになれるのかなと考えたりもしました。

「母のため」ではない目的を見つけ解放された

── 若くしてそんなに生きる気力をなくすような日々が続いたとは…。しかもその数年後、UKさんが25歳のときに、お母さんはご病気で他界されます。亡くなる前には、業界関係者の方々に「息子をお願いします」と連絡をされるなど、UKさんのことを気にかけていたとか。しかし、UKさんはその後も苦しい思いからはなかなか解放されなかったそうですね。

UKさん:母の深い親心は、今なら感じられます。でも、母が亡くなった後もずっと苦しさはなくなりませんでした。母の僕に対する愛が大きすぎて、常に何をやっても「母に満足してもらえる自分ではない」と、自己嫌悪がつきまとう状態が続いたのです。

仕事は順調に増えて忙しくなりましたが、気持ちは苦しいままでした。メディア露出も増えた自分を「母に見せたかった」という後悔が大きかったし、本当の自分とは違うキャラクターを演じていた面もあり、複雑な心境でした。「仕事に行きたくない」と動悸とめまいで倒れたこともありました。

── そんな苦しい時期を経て、約5年前に会社を設立されます。「好きな事業を自分の手で作ろう」と思えたとき、お母さんからの「親卒」という言葉が浮かんだそうですね。

柔和な笑顔が印象的なUKさん

UKさん:仕事の実績が増え、ようやく「母が生きていたら、やっと周囲の人に自慢できるレベルに到達できたかな。褒めることはなくても、満足はしてくれただろう」と思っても、僕の中から母の呪縛は消えてくれませんでした。どうにか悶々とした状況から脱したいと模索し続けたなかで、「自分の経験を活かした使命を見つけ、発信したい」という目標を見つけました。そのとき、人生で初めて「母のために」ではない目的を見つけたのです。その瞬間、生きたいという大きな意欲が湧き、ようやく母から卒業できるかもしれないと感じました。

でも、精神的な揺り戻しは何度もありました。2023年には自分の経験を綴った著書を出版しましたが、本当に「親卒」できたと思えたのは、実はつい最近なんです。

反面教師だった父親からの「親卒」

── どんなきっかけで「親卒」できたと感じられたのでしょうか。

UKさん:父からの「親卒」を実感したときです。ここまで父について触れていませんでしたが、僕は子どものころから母にがんじがらめにされるいっぽうで、ずっと父が大嫌いでした。無責任で経済力がない父を反面教師に生きていました。

両親の離婚後、父とは長らく会っていなかったのですが、数年前から交流をもつようになったんです。父の家を訪れると、亡き母の写真が飾られていました。「まだママのこと好き?」と聞くと、「当たり前やろ!」と、恥ずかしそうに笑っていましたね。

その父が昨年10月に他界したとき、胸が締めつけられるほどの寂しさを感じたんです。「この感情はなんだろう」と考えたとき、父に対する「こんな父親でいてほしい」という大きな期待が、自分を長年苦しめていたんだと気づいて。同時に、自分が父をどんなに大好きだったかがわかりました。

── 亡くなってようやく気づけたんですね。

UKさん:そうなんです。自分が父親になってからも、父を反面教師に「稼げるいいパパでいなければ」と思い続けてきました。でも、父に対する自分の愛情に気づいてからは、「しんどかった人生に父の生き方を取り入れてみよう」と思えるように。優しくて天然だった父の人柄を意識したら、自分の中の「こうあるべき」が減り、気持ちがラクになって。自分が課した「稼げるパパ」のノルマに到達できなくても、妻や子どもたちは自分を愛してくれていると自信をもてるようになったんです。そのころには、自分は父にも愛されていた、父も大変だったんだと思えるようになりました。

子どもの習い事や進学に親のエゴはないか?

── すてきなお父さんだったのですね。それにしても、ここまでお話を伺って、自分の子育てを反省しました。UKさんのお母さんのように、子どもを自分の思い通りに動かそうとした場面があったかもしれませんし、そういう人は少なくない気がします。

UKさん:そうですね。たとえば、子どもに人気のスイミングを習わせたいと思うお母さんってたくさんいると思いますが、そこに自分のエゴがないか、胸に手を当てて聞いてみてほしい。体の丈夫な子になってほしいとか、子どもの幸せを基準に考えるのはいいと思いますが、たとえば「この子をオリンピック選手にしたい」などと自分の希望を押しつけるのは違うと思うんです。これくらいの偏差値の大学に行ってもらわないと、これくらいの知名度の企業に入ってもらわないと。そういう考え方はやめてほしいです。


 
最後まで「ステージママ」だった母との確執を長年引きずってきた僕だからこそ伝えられる思いはあると思うので、今後はそんな場が増えるといいなと。僕が母にされたように、自分の夢を押しつけたり、先回りして道を用意したり、子どもが「自分軸」を失いかねない子育てをしている人は少なくありません。子どもを一人の人間として接し、信じる。そんな関わり方の大切さを伝えていけたらと思っています。

取材・文:たかなしまき 写真:UK(楠 雄二朗)