「長嶋」「王」「星野」のようなスター性はないが… “いぶし銀”の井端氏が侍ジャパン監督に選ばれた必然
3月5日に開幕したWBC。井端弘和監督率いる侍ジャパンは、連戦連勝で1次ラウンドプールCの1位通過を決めた。
日本代表の指導者としては“圧倒的に地味”に見える井端監督はなぜ選ばれたのか。トップチームを率いるに至るまでには、他の指導者とは大きく異なるキャリアがあった……。
井端監督が語った野球観や野球界への提言を、スポーツライターの西尾典文が聞き手としてまとめた『日本野球の現在地、そして未来』(東京ニュース通信社)より、一部を再編集して紹介する。
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「いきなりトップチームは早すぎる」
監督就任に至るまでの経緯を井端はこう語る。

井端「今でもはっきり覚えていますけど、正式にオファーの連絡があったのは9月21日の木曜日の夜でした。印象に残っているのが『週明けの月曜日までに返事が欲しい』ということ。NPB側もかなり時間がなくて切羽詰まっていたみたいで、もし自分が断ったらすぐ次の人にオファーしないといけない状況だったみたいです。だから月曜日に返事をするとしても、考える時間が3日間しかなかったんですよね。こんなに急に決めないといけないのかというのが最初に思ったことでした」
まさに井端本人も語る通りのスピード決着だったのだ。ただ、監督候補として名前が挙がったのは比較的早い段階だったことも事実である。3月のWBC優勝直後、工藤、高橋と並んで井端が候補となっていると報じた記事もあった。筆者も井端も、ちょうどその時は甲子園球場での春の選抜高校野球取材で連日顔を合わせており、報道が出た後に「監督やるんですか?」と聞いたところ、「やるわけないじゃないですか」という返答があったことをよく覚えている。ただこの時点では候補には挙がっていたものの、具体的なオファーはなく、その理由についても井端はこう答えている。
井端「22年からU12(12歳以下)の侍ジャパンの監督を2年間やらせてもらって、夏にはワールドカップも控えていました。それが終わったら次はU 15(15歳以下)の監督ということも決まっていたので、まさか自分にオファーが来るとは思わなかったんです。そういう意味ではいきなりトップチームは早すぎるなということも思いましたね」
決断できた理由
NPB側からしても、次はU15の監督を務めることになっている井端が優先順位として低くなるのは当然であり、オファーが9月下旬までにずれ込んだ原因の一つであると言えそうだ。ただ井端は、稲葉篤紀監督時代には侍ジャパントップチームの内野守備・走塁コーチを務め、21年の東京五輪優勝も経験している。が、監督となるとU12侍ジャパンでしか経験がない。WBCで全勝優勝という輝かしい成績を残した栗山監督の後任を務め
ることは相当なプレッシャーであるはずだが、それでも監督就任を決断できたのはどんな背景があったのだろうか。
井端「話をもらった時にまず『どうしようかな』と迷ったんですね。でも迷っているということは自分の中でもやる気があるんだなと思いました。これまでも野球に関することで何か依頼があって、断ってきたケースはすぐその場で決められたんですよ。だからいったん『考えます』とは言いましたけど、回答期限まで時間もなかったので、すぐに決めることができて、次の日の夜にはやりますという電話をしましたね。あとオファーの電話が(NPB事務局長の)井原(敦)さんじゃなくて、ずっと前から知っていて、いつも話をしている中村勝彦さんからだったので、身構えることなく話が聞けたっていうのもありますね。そのあたりはNPBの方も考えて中村さんからの電話にしてくれたのかもしれません。WBCで勝った後だからということは特に考えませんでした。勝ち負けについては誰がやっても勝つ時は勝つし、負ける時は負けるので。そこであれこれ考えても仕方ないかなと。それよりも考えたのは先々のことですよね。オリンピックでもWBCでも優勝できたわけですから、今のトップチームのメンバーはある程度の力があることは間違いありません。ただ、今後も何かしらの国際大会が毎年あって、選手もどんどん入れ替わっていきます。23年の優勝メンバーでも、次の26年のWBCで主力になれる選手は多くない。26年が終わったら次は28年のロサンゼルスオリンピックもある。それを考えたらどんどん若い選手、新しい力が出てこないといけない。NPBからも、直近の大会で結果を出してくれということよりも、先々を考えて若い選手を発掘してほしいということを言われたので、そういう意味でも思い切ってやることができるなというのはありました」
目先の結果だけでなく常に先のことを考えられる未来志向という点は井端の監督、指導者としての大きな特徴と言えそうだ。ちなみに当初から就任が決まっていたU-15侍ジャパンの監督についても予定通り就任することとなり、トップチームと育成年代を兼任する初めての代表監督誕生となった。
打撃タイトルとは無縁
代表監督は、あらゆる方面に顔が利くことが求められ、常にプロ野球界の“大物OB”が務めていた。長嶋以降の監督と、その主な経歴を並べてみると以下のようになっている。
長嶋茂雄(03年アテネオリンピック予選)
通算2471安打・444本塁打 監督通算1034勝(リーグ優勝5回・日本一2回)
王貞治(06年WBC)
通算2786安打・868本塁打 監督通算1315勝(リーグ優勝4回・日本一2回)
星野仙一(08年北京オリンピック)
通算146勝・34セーブ 監督通算1181勝(リーグ優勝4回・日本一1回)
原辰徳(09年WBC)
通算1675安打・382本塁打 監督通算1291勝(リーグ優勝9回・日本一3回)
山本浩二(13年WBC)
通算2339安打・536本塁打 監督通算649勝(リーグ優勝1回)
小久保裕紀(15年プレミア12・17年WBC)
通算2041安打・413本塁打
稲葉篤紀(19年プレミア12・21年東京オリンピック)
通算2167安打・261本塁打
栗山英樹(23年WBC)
通算336安打・7本塁打 監督通算684勝(リーグ優勝2回・日本一1回)
合計8人のうち超一流選手の証しと言われる名球会入会基準の2000本安打を達成している大打者が5人。原も2000本安打には到達していないが、長嶋、王の後の巨人の4番を長く任されたチームの“顔”と言える存在だった。指導者の経歴としては王、星野、原の3人は代表監督を務めた後の数字も含まれているが、それ以前にも十分な実績を残している。選手としての実績という意味では圧倒的に乏しいのが栗山だが、日本ハムの監督として2度のリーグ優勝と1度の日本一を経験しており、何よりも大谷の二刀流を後押しさせたという意味では唯一無二の存在とも言える。栗山が監督でなければ23年のWBCに大谷とダルビッシュの2人がチームに加わることは難しかっただろう。
井端も中日、巨人で通算1912安打を放ち、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞7回に輝いており、球史に残る名選手であることは間違いないが、選手のタイプ的には完全なチャンスメーカーであり、打撃タイトルとも無縁である。またプロ球団での指導者としての経歴も、引退直後に3年間巨人で内野守備・走塁コーチを務めただけで、監督経験もない。これまでの代表監督と比べると、どうしても圧倒的なネームバリューやスター性に欠けると感じた野球ファンも多かったのではないだろうか。
「参考になった」意外な監督の名前
そんな“いぶし銀”というイメージの強い井端だが、監督としての初陣となったアジアプロ野球チャンピオンシップを終えての野球界の反応は上々だ。優勝という結果を出したことはもちろんだが、監督就任から大会までの準備期間が短かったにもかかわらず、それについても全く言い訳めいたことを口にすることはなく、試合後のインタビューでも的確な受け答えをしていたという点が大きいように感じられる。
多くの指導者は選手時代にプレーしていた監督の影響を受けることが多い。井端も中日時代は星野に始まり山田久志、落合博満のもとでプレーしており、巨人に移籍した時の監督は侍ジャパンでも結果を残した後の原だった。また中学生の時、対戦したチームの港東ムースを指導していた野村克也(元・ヤクルト監督など)にピッチャーからショートへの転向を勧められ、プロ入り後も頻繁に挨拶をしていたという縁もある。そんな井端が監督になった時に参考になった選手時代の経験を訪ねると、あがったのはプレーした期間が長かった星野や落合ではなく、原の名前だった。
井端「中日時代は基本的にレギュラーでずっと試合に出させてもらっていたので、あまり采配とか試合の流れについてゆっくり考える余裕はなかったですよね。ベンチからサインや守備位置の指示が出て、『ん?』と思うようなケースも当然ありましたけど、すぐに試合は流れていくわけですから、監督やコーチの指示通りに動かなくてはいけません。そういう意味では巨人に行ってからの経験は大きかったですね。シーズンが始まる前に(同学年の)高橋由伸と自分が原監督に呼ばれて、『お前たち2人はもういい年齢なんだから、今後を考えて野球の勉強をしなさい』って言われたんですね。由伸も自分も代打とかで試合の途中から出場するケースが多くて、大体1回から5回くらいまではベンチにいることが多かったですから。だから2人で並んで試合を見ながら、『あー、この場面はこうかな?』とか色々意見を言い合っていました。原監督も采配とかで気になったことがあれば、『何でも聞いてくれ』と言ってくれたので、いつもではないですけど試合が終わった後に『なぜあの時は強攻だったのか』『その意図は何だったのか』とか聞きに行くこともありました。そんな風に野球をしっかりと考えるようになったのはその時からですね。もちろんプレーする準備もあったので、いつもジーッと見ていたわけではないですけど、試合の途中から出場するうえでも、ゲームの流れとかをしっかり見極めておいた方が良いということも、原監督の意図としてはあったのかもしれません。だからスタメンで出場する機会が減っても、それを逆にプラスとしてとらえられたというのはありますね。解説者になってからももちろん、監督の意図や試合展開を考えながら見ていますけど、ベンチから見ているのとはやはり見え方が違います。だから現役時代にグラウンドレベルで試合の流れを考えながら野球を見られたというのは大きい経験でしたね」
U12侍ジャパンでの経験
さらに井端には他の指導者にはないもうひとつの強みがあった。それは巨人のコーチ退任後に、プロだけでなく社会人から少年野球まで幅広く指導してきたという経験だ。中でも大きかったと話すのが22年から2年間務めたU12侍ジャパンでの経験だという。
井端「解説者で外から野球を見たり、アマチュアも含めて色んなチームに臨時コーチみたいな形でも行かせてもらいました。ただ、個人的にめちゃくちゃ大きかったのはU12で監督をやらせてもらったことですね。特に1年目はなかなか勝てなくて、ワールドカップでも7位だったんで、最初の方はずっとイライラして怒ってばかりいました。何でこんなことができないのかってずっと思っていましたね。寝坊して遅刻した選手にもすごく怒りましたし。でもよく考えてみればまだ小学生の子ども。普段知らない人と一緒に生活して、しかも海外となればいつものようにできないのも当然ですよね。1年目の時はとにかく試合に集中させたい、緩めたくないということで選手と保護者もなるべく近づけないようにしていました。2年目はそういうこともやめて、晩ご飯を保護者と一緒に食べに行かせる機会も作りました。あと選手のことをよく見るようになりましたね。寝坊したのであればそれは疲れているというサインですし、リラックスできていないのかなと。小学生は特に普段の生活にも個人差が出やすいんですよ。食事の時でもみんなで騒がしくしている選手もいれば、1人でおとなしくしている選手もいる。じゃあ騒がしい選手がこちらの話を聞いていないかというとそういうわけでもない。だから無理にみんな同じように行動させなくてもいいなと思うようになりました。あと野球に関して言うと、小学生だと良くも悪くもこちらの想定からかけ離れたプレーをするんですよ。練習を見て大丈夫だと思って試合に出したら全然上手くいかないこともありました。だからなるべく試合中にポジションを変えたりせず、ピッチャーも途中から投げる選手はベンチからスタートさせて、準備をしっかりさせるようにしました。それでもなかなか上手くいかないですからね。2年目のU12の時はそういうことを経験していたので、何があってもイライラすることはなくなりましたし、プラスに考えられるようになりました。そんな小学生を相手にやってきたことと比べれば、大人のしかもプロの選手となれば、こちらの想定を大きく外れるようなことはありません。だからベンチでも比較的落ち着いて試合に臨めていたと思います」
U12ワールドカップの成績を見てみると、井端が初めて監督を務めた22年はオープニングラウンドでアメリカ、韓国、ドミニカに敗れ、その後の順位決定ラウンドでは3連勝したものの7位という成績に終わっている。翌23年は前年に敗れたアメリカ、韓国、ドミニカにはいずれも快勝。惜しくもメダルは逃したものの、前回大会を上回る4位という結果を残した。精神的にも肉体的にもまだまだ未熟な小学生の代表チームを指揮し、反省を生かしながら結果に繋げたことは井端にとっても大きな経験だったと言えそうだ。
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そんな経験を礎に、侍ジャパンの指揮を執る井端監督。来たる準々決勝ではどんな景色を見せてくれるか。
※本記事は、井端弘和・西尾典文著『日本野球の現在地、そして未来』(東京ニュース通信社)の一部を再編集して作成したものです。
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西尾典文(にしお・のりふみ)
野球ライター。愛知県出身。1979年生まれ。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間300試合以上を現場で取材し、執筆活動を行う。ドラフト情報を研究する団体「プロアマ野球研究所(PABB-lab)」主任研究員。
デイリー新潮編集部
