52歳自衛官が部下の女性自衛官と不同意性交…“記憶にない”空白の5分間と母親が立て替えた示談金810万円【裁判傍聴記】
東京地裁の農水省側エレベータに乗り、8階に降りると西側の動線に815号法廷がある。
法廷に入ると、60席ほどある傍聴席の9割程が埋まっており、被告人席には、代理人の弁護人が二人並ぶその横に一人の浅黒い中年の男が座っている。薄紺色のスーツ、白いシャツ、黒革の靴を履いた男は、額の左右の剃り込み部分から左側の髪がより後退し、白髪の目立つ短髪と、彫りの深い神妙な顔に、2本のほうれい線が鋭く刻まれている。
人定のため裁判長が被告人を証言台へ呼ぶと、男は腹の力を利かせた声を響かせ、足早にすすむ。左足から動き、親指をだして軽く握る、腕は45度、歩幅は小さく、1秒間に2歩。証言席にその足がついたとき、鋭い革靴の音が法廷に響く。急停止。
ひとりでに行列から停止した男こそ、配属直後の部下である女性自衛官Aを蹂躙(じゅうりん)した、本件不同意性交に問われる現役1等陸曹・和久紀彦被告(52歳)である。
人定を求められた男は無線通信のように、素早く、明確に、そして正確に話す。
サイバー監査官が演じた「都合の良い記憶喪失」
被告人は高卒後30年余り自衛隊に身を置き、近年はサイバーセキュリティーの専門官として、システムに疑似的な攻撃を仕掛け、その安全性を確認する「監査」を担ってきたエリートである。
しかし、この52歳のたたき上げの男は、自身の記憶に対する「監査」だけは頑なに拒絶し、犯行時間として認定された「5分間の空白」―記憶喪失を法廷で主張した。起訴から1年6カ月余りが経過し、その間、被告人は事実の一部を否認し続けてきたという経緯がある。
防犯カメラ画像の捜査報告書(甲4号証)によれば、令和6年8月4日1時19分、男は門限を過ぎて帰れなくなった部下である女性Aを3軒目の店へと誘い込み、2時10分に退店している。その後、深夜の密室に連れ込まれたAの捜査段階の供述(甲1号証)によれば、「被害時刻は令和6年8月4日。具体的な時刻については3時頃で、被害にあったのは大体5分間くらいだったと思う」と犯行時間が明確に特定されている。犯行場所は男の自宅寝室の中央付近(甲3号証の実況見分調書)である。
公訴事実によれば、男はAが同意しない意思を全うすることが困難な状態にさせ、膣内に手指を挿入した。その5分間、Aは何度も「やめてください」と言って抵抗し、男から「入れていい?」と聞かれた時、一瞬の隙をついて部屋の隅に逃げたことで、性交自体は未遂に終わっている。
だが男は、シャワーから戻り寝室をノックするとAが「どうぞ」と応じたことや、床で仰向けになっていたAを「風邪を引いたらかわいそう」とマットに乗せた記憶、さらには事後にAが「帰ります」と告げた記憶は極めて鮮明に語るにもかかわらず、肝心の5分間だけは「相当酔っていた」として事実上の記憶喪失を主張する。
行為が終わった直後に「女性が帰ると言うことは私は大変なことをしてしまったかと」思い至ったと述べる男が、行為そのものの記憶だけをすっぽりと抜け落とさせているのだ。
サイバー攻撃のぜい弱性を診断するプロフェッショナルが、自らの倫理的・決定的なぜい弱性を都合のよい「記憶のシャットダウン」で処理しようとする矛盾。しかも、男は令和6年8月8日に自衛隊内の警察組織である中央警務隊の取り調べを受けているが、その時点では記憶喪失など主張していなかった。記憶がなくても「部下は嘘をつくような人ではない」から公訴事実は認めるという男の態度は、保身のために張り巡らせた論理の破綻を自ら露呈させている。
事後、帰るというAに対し、男は「せめて送らせてほしい」「犬の散歩ついでに」と厚顔にも言い放つ。対するAの供述によれば、彼女は「自らは方向音痴だから送ってほしい」と告げたに過ぎない。この埋めがたい事実のズレにこそ、本件の異様さが張り付いている。
示談金810万円は「郷里の母」がほぼ全額の肩代わり
男の自己中心的な解釈は法廷の随所で顔を出す。休日にカフェで勉強しようとAを誘い断られた際も、男は「転勤して間もないAさんには先輩の私から『休日にそういう時間を取るのは申し訳ないと思って遠慮したのかな』と感じました」と証言した。明らかな拒絶を自らへの「配慮」と読み替えるこの身勝手な解釈は、彼が世界をいかにゆがんで知覚しているかを示している。
この「幼児性」は、示談の経緯においてさらに凄惨な形で現れる。18歳から自衛官だった52歳の男が、和解で支払った810万円を用意できず、広島から新幹線で4時間かけて上京した80代の母親がそのほぼ全額を立て替えているのだ。
法廷で弁護人は、男を「後輩の面倒見が良かった良き先輩」とし、事件を「ある種特殊な状況での突発的行為」と単純化して抗弁した。この構図を解き明かす上で、コーネル大学准教授ケイト・マンの著書『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』(2019年)で提示された「ヒンパシー」(himpathy)という概念が補助線であろう。
マンが同書の第6章(p. 196)で指摘するように、ヒンパシーとは、特権的な地位にある加害男性に対して社会や周囲が寄せる「過剰な共感」を指す。法廷という場において、女性被害者への同情を奪い取り、加害者を「あくまでもとっさに魔が差しただけの善良な人間」として免責しようとする力学が、まさに無罪請負人の手によって精緻に設計・展開されているようにも見える。
エリートの「免責」ロジックを粉砕した検察官の激高
こうした「ヒンパシー」と弁明の分厚い壁を打ち破ろうとしたのが、被告人同様、腹から声を出す検察官の執念である。検察官は刑事訴訟法第322条第1項に基づき、男を逮捕した中央警務隊が逮捕前に作成した証拠調書(乙2号証)の採用を求めた。しかし弁護人が任意性に異議を述べ、合議の結果、江口和伸裁判長は必要性なしとしてこれを棄却した。
その瞬間、制御不能をみせる検察官は法廷の静寂を切り裂く。
「ただいまの裁判所の証拠却下の決定につきまして異議を申し上げます。ただいまの判断は必要性についてその判断を誤ったもので、違法です」
裁判体に対して直接違法と述べるのは、実務上きわめて異例の事態である。乙2号証の採用を棄却された検察官の怒りは、単なる法的手続きへの不満ではない。事後に記憶喪失という設定を作り上げる「公務員でもある男」の欺瞞(ぎまん)を許さないという断固たる意志であった。
論告において検察官は、「本件被害によってAが受けた性的自由に対する侵害の程度は甚だしく、助けを求める相手のいない密室で年齢差も体格差も存在する被告人から一方的に性的暴力を振るわれたAの負った肉体的精神的損害が大きなものであることは言うまでもありません」と語気を荒げた。
示談が成立し、宥恕(ゆうじょ)が行われているにもかかわらず、検察官が実刑相当である懲役5年を求刑した理由はここにある。職場の上下関係という圧倒的な権力勾配を利用し、スマートフォンが壊れ孤立した部下の女性を密室で蹂躙(じゅうりん)したこの事件は、決して弁護人が言うような「突発的」なものではなく、社会が容認してはならない構造的な暴力であると看破したのだ。
友人の携帯電話に6分間で7回の着信履歴
本件は、規律正しい歩行と明確な発声という「エリート自衛官」の裏側に潜む、特権階級の男が持つ倫理の問題を浮き彫りにしている。みずからの記憶の監査を放棄し、都合の悪い5分間だけをブラックボックスに隠匿する振る舞いは、システムを守るべき人間が最も致命的なぜい弱性を抱えていたことを示している。
男は暗部の記憶を否認し続けたが、Aの親告相手Cのスマートフォンの着信履歴に関する捜査報告書によれば、Aは逃げ帰った直後の4時19分から25分の間に、公衆電話から7回の着信を残し、その後さらにAからの4回の不在着信、Cからの6回の発信を経て、夕方16時5分にようやく約20分間の通話へと至っている。
「7回の友人の携帯への着信履歴等(甲5、6号証)」という動かぬ事実が、彼の空白を饒舌(じょうぜつ)に埋めている。
810万円という大金も、母親の小さな嗚咽(おえつ)や息子への労わりも、慎重に設計された弁護側の「突発的犯行」というロジックも、休職の身であるAさんの心にうがたれた穴を埋めることはできない。判決は3月19日。その時、和久被告はどのような「靴音」を法廷に響かせるのだろうか。
文/吉田朔三 内外タイムス
