谷川俊太郎さん(右)への思いを語った中島みゆき(左)(事務所の公式HPより、右は共同通信社)

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 中島みゆき(72才)にとって谷川俊太郎さんは、「言葉の師」ともいうべき重要な存在だった。2人の運命が交差した日から50年以上の歳月が流れたいま、中島は谷川さんの訃報に何を思ったのか。

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 中島みゆきが半世紀も前から追い続けてきた星が、もう二度と手の届かないところへと旅立ってしまった。それでも中島は、その星から降り注ぐ「言葉」を道しるべに歩み続ける──。

「学生のときもですし、昔出たコンテストの課題曲の詩だったり……。なにかにつけて、なんていうんでしょうかね……。星みたいな、憧れの星みたいな存在でした」

 11月下旬の夜、本誌『女性セブン』記者の問いかけに、中島はしばらくの沈黙ののちにそう答えた。彼女が「憧れの星」と表現したのは、11月13日に老衰のためこの世を去った、詩人の谷川俊太郎さん(享年92)のことだ。

 時代を超えて歌い継がれる名曲を世に送り出してきた中島は、長く谷川さんに憧憬の念を抱いてきた。2人の運命が交差したのは、いまから50年以上前の1972年。当時、大学生だった中島は、アマチュアながら歌手として、ニッポン放送主催の『フォーク音楽祭全国大会』に出場した。

「大会の課題の1つに、“1週間で詩に曲をつける”というものがありました。そこで、お題として与えられたのが、谷川さんの『私が歌う理由』という詩でした。根源的な歌う理由を問うその詩に、中島さんは大きく心を動かされたといいます。

 結果的に、その大会で中島さんは入賞し、レコードデビューの話が持ち上がりました。ですが、谷川さんの紡いだ言葉がどうしても頭にこびりついていたのです。“私が歌う理由を、もう一度初めから考え直したい”という思いに駆られて、せっかくのデビューの誘いを辞退しました」(芸能関係者)

 当時の心境を、のちに中島はこう回想した。

《忘れる筈もない。実は私には、谷川俊太郎という名を聞いただけで土下座したくなるような思い出があったのだ》(雑誌『鳩よ!』1991年3月号)

 大学生ながら歌手として頭角を現しつつあった中島は、谷川さんの純粋な言葉の力に鼻っ柱を折られた。中島の、谷川さんと向き合う日々が始まった。

 文学部で国文学を専攻していた中島が卒業論文のテーマに選んだのは、谷川さんについて。論文のタイトルはズバリ『現代詩-谷川俊太郎-』で、その作風の変化はもちろん、詩に宿る生命観や、音やリズムの分析、さらには谷川さんの生き方や当時の時代性にまで切り込む重厚な内容だった。

「400字詰めの原稿用紙で100枚に及ぶ超力作でした。ただ、あまりに熱を帯びた中島さんの独特な視点で執筆されており、その難解な内容を理解するのには指導教員ですら骨を折ったといいます」(前出・芸能関係者)

「音楽好きより言葉好き」

 中島が谷川さんという存在に固執したのは、自分とのある種の共通点を見出したからかもしれない。『中島みゆき全歌集1987-2003』(朝日新聞出版)で解説を担当した、音楽評論家の田家秀樹氏が言う。

「みゆきさんが卒論のテーマに谷川さんを選んだのは、『私が歌う理由』に象徴されるように、多くの詩が“自分が歌いたいことを的確に言葉にしている”と感じ、尊敬の念を抱いたからなのでしょう。

 誰にでもわかる身近な言葉で、心のひだを時に清らかに時に生々しく表現し、一方では強烈に読む者に問いかけることもある。みゆきさんの歌にも、そう受け取れるものが少なくありません。そういう意味では、谷川さんの影響を大きく受けていると言っていいでしょう」

 大学卒業後の1975年、中島は『アザミ嬢のララバイ』で満を持してデビューを果たすと、同年12月に発売した『時代』が大ヒットし、一気にスターダムにのし上がった。シンガーソングライターとして作詞も作曲も手掛けた中島。特に『時代』は誰もが経験するだろう人生の苦境を歌った、普遍的な歌詞だ。これを23才の彼女が作詞したことで、天才と称された。その中島は当時、心の中では、谷川さんを強烈に意識していたという。

「谷川さんの詩は、人間の喜怒哀楽を大げさに表現せず、その根底にあるものを優しい言葉で包み込むようにして作られている詩が多いと言えます。それに対して、みゆきさんの歌の中には喜怒哀楽をストレートに表現した詩も少なくありません。谷川さんを言葉の師として尊敬する一方で、超えるべき存在だと感じていたのではないでしょうか」(田家さん)

 東京都出身の谷川さんは、10代から詩作を始めると、1952年に処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行し、弱冠20才で颯爽と詩壇にデビューした。親しみやすい詩体で、『朝のリレー』が国語の教科書に採用されるなど、日本を代表する詩人として活躍してきた。スヌーピーが登場するアメリカの人気コミック『ピーナッツ』シリーズの翻訳を担当するなどの横顔も持つ。

 その傍ら、1963年に放送がスタートした国民的アニメ『鉄腕アトム』(フジテレビ系)の主題歌をはじめ、数多くの合唱曲の作詞なども手がけ、日本の音楽史にも多大な影響を与えた人物である。谷川さんの詩をもとに数々の合唱曲を作ってきた、作曲家の新実徳英さんが谷川さんの素顔を明かす。

「以前、谷川さんの2つの詩を合わせて1曲を作ることを谷川さんに提案したことがありました。まったく異なる作品でしたから、“それを組み合わせるなんて”と断られることを覚悟していたところ、あっさりと“いいよ”と。こちらは素晴らしい楽曲を作りたい一心でしたから、その気持ちを信頼して任せてくださったのでしょう。いろいろな表現の可能性を尊重してくださったのだなと感じました」

 谷川さんを常に意識していた中島に対して、谷川さんもまた、中島の存在を気にかけていた。中島がデビューしてから6年後の1981年に刊行された谷川さんの対談集『やさしさを教えてほしい』(朝日出版社)で、2人は率直な意見を交わし合っていた。

《あたしの歌、あんまりランランランと愉しい歌って、ないんですよね。そういうのも書けるようになれたら、もっと私自身ね、人あたりが良くなるんでしょうけども、まだまだ、人に冷たいんですよね》

《人の悪口、いっぱい書いてるから》

《あたし、あんまり許容範囲が広くないんだろうな》

 そうネガティブな言葉を使って赤裸々に打ち明ける中島に、谷川さんも興味を抱いたようだった。

《あなたの場合は、生きることが愉しいから歌をうたうというのとは、ちょっと違うみたいだね》

 若き日の中島が、谷川さんからそう言葉をかけられてから約45年。その間に、中島は『空と君のあいだに』『糸』『地上の星』『銀の龍の背に乗って』『麦の唄』といったヒット曲を、次々に世に送り出した。その詩には、決して前向きな言葉ばかりが並ぶわけではない。谷川さんが言う通り、中島は《愉しいから》以外の理由で歌い続けてきたのだろう。

「でもね、星は消えないですから」

 その中島に「引退」の二文字が囁かれた時期があった。

「2020年に予定されていたコンサートのタイトルは、『2020ラスト・ツアー 結果オーライ』でした。ラストという文言が引退を連想させましたが、そのツアーは新型コロナの影響で中止に追い込まれました。ところが今年、仕切り直しで1月から始まったツアーのタイトルには『ラスト』の文字がありませんでした。

 新型コロナの影響は大きく、たくさんの人が命を落としました。自由に外出できなくて、ストレスを抱えた人も多くいたはずです。そういった負の感情は、中島さんの歌へのエネルギーでもあるわけです。『ラスト』の言葉が消えたのは、中島さんが再びたくさんの言葉を紡いでいきたいと思い始めた証左にも感じられるのです」(音楽関係者)

 ステージに立ち続ける中島。一方の谷川さんも最期まで筆を走らせ続けた。

「谷川さんは、晩年も創作意欲を失いませんでした。毎月1回、朝日新聞に掲載されていた谷川さんの連載では、亡くなった4日後に新作の詩が発表されました。そのタイトルは『感謝』。最期まで言葉を紡ぎ続けた谷川さんの集大成でした。その姿勢に、中島さんも歌い続ける覚悟をさらに強くするかもしれません。それが、若い頃からずっと意識し、追い求め続けた谷川さんへの、はなむけになると考えているはずです」(前出・音楽関係者)

 冒頭の夜、都内は師走並みの冷え込みを記録した。空気は澄み切って、西の空には、一層明るさを増したいちばん星が輝いていた。谷川さんを「憧れの星」と称した中島は、その言葉の後、大きく息を吐き、さらに天を仰いでこう続けた。

「私にとって星だった谷川さんが、本当に星になっちゃった……。でもね、星は消えないですから。ずっと、見ていたいです。(谷川さんには)到底届きやしませんけど、これからもなんとか、見習っていきたいですね」

 そう口にすると、悲しみを振り払うかのように中島は「あはははは」と笑った。

──星になった谷川さんを見上げながら、これからも歌い続けますか?

 その問いに中島は、「そうですね」と短く答えた。

※女性セブン2024年12月12日号