篠原勝之さん 撮影/伊藤和幸

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「クマさんの話は、とにかく面白いんですよ」コピーライターの糸井重里さん、イラストレーターの南伸坊さん、俳優の麿赤兒さんら著名人が口をそろえ、そのひょうきんな口ぶりをまねてみせる。新宿の飲み屋から業界に噂が広がり、いつしか「クマさん」の愛称でお茶の間の人気者になった篠原勝之さん。テレビから姿を消したクマさんは、ゲージツ家として新境地を開き、現在80歳。周囲を笑顔に変える話術は健在で、日々の小さな失敗にも笑いをまぶしていた。

【写真】篠原勝之さん、会社員に戻らないと決意の坊主頭に!

「ゲージツ家のクマさん」

 坊主頭で目を細め、周りをパッと明るく照らすこの笑顔に見覚えのある人は『笑っていいとも!』を見ていた世代だろう。

 粋な着流しに派手なマフラーがトレードマーク。下駄を鳴らしてテレビをにぎわせていたあの「ゲージツ家のクマさん」こと篠原勝之さんだ。

 タモリや明石家さんま、ビートたけしなど、当時ビッグ3といわれた大物芸人とも共演し、独特の話術でたちまち人気者となったが、いつからか、その姿をテレビで見ることはなくなっていた。

 今年3月、篠原さんは東京・恵比寿のシス画廊という小さなギャラリーで個展を開催した。ずっしりと重そうに見えるが、持てばすっと手のひらになじむ器が並んでいる。その名は『空っぽ展』。

「こりゃナ、茶碗ではなく『空っぽ』だ。何も茶を点てなくたっていい。猫の飲み水入れたっていいゾ。手に入れた人が好きなように使えばいい」

 取材陣が「空っぽ」の意味を尋ねると、すかさずこう返ってきた。

「みんな、なんでも意味を求めるんだ。でもナ、たいてい意味なんてねえんだよ。生きてることだって別に意味はねえ。かといって早く死ぬこともねえ。ただ生きてるから生きてンだ」

 作品には、番号がふってあるだけ。タイトルも銘もない。

「銘なんてつけねえヨ。『空』とか『無』とかしゃらくせえ。だからどれも『空っぽ』だ。土くれをひと握りつかんでナ、丸めて団子をつくってヨ。そのど真ん中に親指を突っ込む。そしたら穴があくだろ。ここに水が溜まる。ホラナ、これが『空っぽ』の始まりだ。

 目をつぶって指でその穴を広げるうちにオレの中が見えてくる。自分の中が『空っぽ』になっていく気がするんだナ」

 30年近く山梨の甲斐駒ヶ岳の麓に作業場を置き、「鉄のゲージツ家」として世界中で作品をつくってきた。美術館には収まりきらない、大地に根を下ろす巨大な鉄のオブジェ。だが、3年前に向き合う物質が鉄から土にかわり、1年前に住まいも奈良に移した。ふと思い立って新しいことを始めるのはいつものことだという。

「今から陶芸家になろうなんてかけらも思っちゃいねえ。オレは昔っから教わるのが嫌いでナ、誰かがやってるのを見はするが、やるときは自分のやりたいようにやるんだ。気に食わなければつぶして次の土にまぜりゃいい。穴があけば埋めりゃいいだけだ」

 そう言って穴のあいた素焼きのわんに、半透明のシーグラスを当ててみせる。

「普通はこんなデカイ穴があいたら失敗だと思うだろ?でも穴があいたのも何かの導きと思えばいい。こうして、シーグラスをはめ込めば、茶を点てたときに光がスッと差し込む。ほら、おもしれえだろ」

 30代のころから篠原さんをよく知るイラストレーターの南伸坊さん(74)は、個展の初日にギャラリーを訪れた。会場は、クマさんと話す人たちの弾けるような笑顔に満たされていた。

「クマさんは昔も今も変わらない。一緒にいるとみんな朗らかになる。テレビのイメージそのまんま。それにね、ホントにゲージツ家なんです。何かのためでも誰かのためでもなく、自分の中にある『つくりたい』という思いで何かをつくり続けてる」

 篠原さんは、今年4月で80歳を迎えた。

「80歳は未体験ゾーンだな。まあ、幾つでも刻一刻が未体験だ。オレの人生は人から見りゃ失敗ばかりだが、人生も土くれと一緒でナ、わざとやったみたいな顔してりゃ、失敗なんてねえんだナ」

失った左耳の聴力と嗅覚

 昭和17年に札幌市で生まれ、製鉄の街、室蘭で育った。1歳でジフテリアにかかり、隔離病院に入院。太平洋戦争が始まり、物資も不足していた。高熱が出ても病院に抗生物質はなかった。

「お袋はオレに死んでほしかったって言ってた。親父は戦争で満州に行ってたから、女手ひとつだったしナ。高熱で頭をやられたら不憫だと思ったらしい。なのに、オレはなぜか生きて帰ってきちまった」

 奇跡的に助かったものの、後遺症で左耳の聴力と嗅覚を失った。気がついたのは随分たってからのことだ。

 においがしないのも左耳が聞こえないのも、不便ではあっても、当たり前だった。

 小学校に上がる前、拾ったガラスのかけらを机に擦りつけ、においを嗅ぐ遊びが流行ったことがある。

「リンゴのにおいがするぞ!」

 と近所の子どもたちが騒ぐ。リンゴのにおいとは何だろう。花の香りや、雪解けの春のにおいもわからない。

「トレーシングペーパーを通して世間を見てるみたいな距離感があるんだ。身体だけ大きくて、いつもボーッとして。授業も聞こえねえから勉強も面白くねえ。壊れたやつだと思われて仲間はずれになってたな」

 外で活発に遊べなければ、ほかにすることもない。手先が器用な母親の内職を手伝った。編んだセーターをほどいて毛糸を丸め、半端な毛糸玉の残りをもらう。編み物や縫い物に夢中になった。

 父が3交代制の製鉄所から帰ってくる夕刻は、家の空気が一変した。

「男が女の腐ったようなまねをするな」

 元警察官、しっかりした身体つきで力も強い。満州から戻って以来、父の機嫌がよかった記憶がない。家にいる間はとにかく大声で怒鳴りつけられ、力任せに張り飛ばされることもよくあった。

「その当時は鬼のようなやつだと思ったが、今考えると、親父も戦争に負けてつらかったんだろう。とにかく、長男が男らしくないのが気に入らないんだ。俺はただやられっぱなし。ぶたれてメソメソしてるだけ。叩かれて痛いのはどうってこたあない。これから叩かれるぞ、という時間が怖くて痛えんだ」

 安心できる唯一の場所は、社宅の裏の大きなゴミ収集箱。その中にすっぽり入って隠れると、自分だけの特別な空間になった。

「入っちまえばこっちのもんだ。節穴だらけで光があちこちから入ってくる。その光を頼りに編み物するんだ。ゴミ箱の内側の壁の光が目の端で動いててよ、ふっと見ると、外の景色が逆さまに映ってた。俺はピンホールカメラの中で編み物してたんだナ」

 小学校6年生までおねしょが治らなかった。

「目が覚めると、また寝小便したなと親父に怒られる。毎日ただ怯えてた。朝が来ても俺には楽しいことなんてひとつもない。生きてることがハナから面白くなかった」

 その思いはどんどん大きくなり、中学のころ、1人で地球岬へ向かった。

「死んでみよう」

 室蘭駅からバスに揺られて50分。展望台の先に進み、崖っぷちで足元を覗き込むと、100メートルの断崖絶壁。太平洋から押し寄せる波が岩礁にぶつかっている。

「ここに落ちたら痛えだろうな─。すぐにおっかなくなって、バスに乗って帰ってきちまった。身体はでかくなったのに、とにかく気が弱いんだ。親父にも反抗できなけりゃ死ぬのも怖い。だから死なずに今まで生きてる。気が弱いのもいいことあるもんだナ」

「死ねないなら家を出る」と決心し、学校が終わると室蘭港やセメント工場で土方仕事を始めた。

 稼いだ小銭の一部を画材に使い、美術部で油絵を描いた。港や工場で働く人を描いたら地元の新聞に掲載された。

 高校卒業前、3年生の冬休みに家を出た。母親は家の玄関で、内職で稼いだヘソクリをそっと持たせてくれた。

「見送りは行かないよ。アンタは泣き虫だから、悲しくなったら手を動かすんだよ」

 室蘭駅から1人汽車に乗り、函館駅で降りる。冬の津軽海峡を渡り、初めて本州に向かう。上京して何ができるか、先のことはわからないが、あの父親に怯えなくていいことだけは確かだった。

「青函連絡船の船底、3等船室に転がり込んだとき、生まれて初めて、晴れ晴れとした愉快な気持ちになった」

坊主頭はヘタレの決意

 それからお金を工面して、東京で美術大学に入った。夜は土方で学費を稼いだ。

「高い学費払ってヨ、入ってからもデッサンをさせられる。そのうちにバカバカしくなってやめた。教えられるのも好きじゃねえしな」

 大学をフェードアウトしてデザインの会社に勤めた。結婚して子どももできたが、会社員が性に合わない。1年で会社を辞めて、その足で理髪店へ行って頭を剃った。

「オレが家出したのは、親父から離れて自由に好きな絵を描きたかったから。会社員になりたかったわけじゃねえ」

 当時、坊主頭はファッションではなかった。道を歩けば大抵の人は目をそらす。

「頭剃るのはヤクザか坊さんと決まってた。オレはヘタレだからヨ。またゼニがなくなったら血迷うかもしれねえ。会社員に戻らねえようにって決意だよ」

 30代半ばまで土方で稼ぎ、売れない絵を描き続けた。

 6Bから6Hまでの鉛筆を、濃くて芯のやわらかい6Bから順に押さえつけるように塗り重ねていく。小さくなって持てなくなるまで使い切った。

「鉛の漆黒が好きだった。鉛筆なら画材も安い。絵を描くことと物語をつくること。それが自分にできる精いっぱいだったから、それをやったんだ」

 絵本を描いて複数の出版社に持ち込んだが、連絡がない。

 仕方がないから自費出版で絵本を3冊つくった。街で売り歩いたがまあ売れない。新宿で安酒を飲み、カツアゲされて殴られ、たまに売れた絵本の稼ぎでまた飲んだ。

 そのうちの1冊の絵本『珍怪魚アニール』が、ある人物の手に渡り、声がかかる。

 当時、新宿で状況劇場を主宰し、アングラ演劇の旗手と呼ばれていた唐十郎さんだ。状況劇場は根津甚八さんや小林薫さん、佐野史郎さんなどの名優を輩出している。

「次の『海の牙』って芝居のポスターを描かねえか」

 1973年、31歳。そこから6年間、状況劇場でポスターを描き、舞台美術や客入れも担当した。

 コピーライターの糸井重里さん(73)は数年後に新宿ゴールデン街で篠原さんと仲よくなるが、それ以前に状況劇場でその姿を目にしていた。

「坊主頭の男が棒を持って立っててね、『そこ地面が見えてるゾ。詰めろ』って言うんです。紅テントは椅子がないから客を多く入れたいんですよ。そりゃもう、コワかった」

 唐十郎さんの生み出す戯曲は篠原さんを魅了した。

「俺の知らない不思議な世界だ。戯曲ができると唐さんが役者の前で読み上げる。そのイメージでオレがポスターを描く。『ポスターは紅テントの旗印。それをもとに進んでいくんだ』と言われてその気になったんだ」

 一方、家庭には鬱々とした空気が漂っていた。状況劇場だけでは食っていけない。土方仕事も続けていた。絵で食っていくと腹を括ったもののうまくいかない。

「ヨメと子ども2人もいるのによ。稼ぎが足りないのはわかってた。ヨメは普通の人で、働き者だった。オレは、うまくいかねえ自分にずっとイライラしてたんだ」

 小学校に入り野球をやりたいという息子に中古のグローブを買った。

 あるとき、そのグローブが庭に放り出してあった。聞けば「野球をやめたい」と小さな声で言う。地元の野球チームは父親が関わらないと試合に出られないと聞いていた。つまらない慣習だった。

「やめたい?じゃあ、グローブももういらないんだな」

 自分の中の衝動が抑えられず、大声を出した。気づけば息子を張り飛ばしていた。

「衝動的に息子に手をあげた。オレのいちばん嫌いな親父みたいな部分がオレの中にあったことにハッとした。これ以上一緒にいると家中が壊れてしまう」

 再び1人で家を出た。最低限の家財道具と、小さくなった鉛筆を入れた箱。段ボール1つに荷物はまとまった。

ケンカが強くて面白いやつ

 糸井重里さんも南伸坊さんも、新宿の飲み屋で篠原さんと親しくなった。土方仕事で筋肉隆々、坊主頭にいつも革ジャン。「ケンカがすこぶる強くて話が面白いやつがいる」と有名だった。

 糸井さんは初めての会話が印象的だったと話す。

「オレに奢る権利がある人間はそんなに簡単にはいねえ。そういう失敬なやつはちょっとぶってやったりするときもあるんだがナ、ま、手が痛くなるから下駄でナ。でも、おまえはオレに奢ってもいいぞ」

 それを聞いて、糸井さんはすぐに興味を持った。

「誰に奢られるかはオレが決めるって、めちゃくちゃカッコいいなと思いましたね。僕はお許しが出たようで、光栄なことです(笑)。それに、ただの暴れ者じゃない。変なやつに因縁をつけられ言いなりになっていた時代があって、“このままじゃダメだと必死で抵抗したら、オレ、案外強かったんだヨ”って笑ってました」

 南さんも篠原さんの第一印象は怖かったという。

「初めて同じ店で見かけたときは、話しかけられませんようにって背を向けてビール飲みました(笑)。でも、ちょっと話せば、みんなクマさんが大好きになりますよね」

 篠原さんと飲み会を共にした数日後、こんな電話がかかってきたことがある。

「この間、深沢(七郎)さんの家で飲んでるときにヨ、南がテーブルの端っこにクリスタルの高いコップを置いてたんだよ。俺はヒヤヒヤしてそっと中のほうにずらしてんのにヨ、南が笑いながら酒飲んで、また際に置くんだナ。参ったヨ。ワハハ」

 今も時々電話で話をするが、お互いにバカをやってた昔話をして「別に用はないんだがナ」と切るのが常だ。

「おおらかに見えるけどこまやかですよね。僕が気づかないようにコップの位置を直して、その場で言わないんだもの。

 その場のみんなが楽しく過ごせるよう、誰も気づかないように気を遣える人。いろんな人の気持ちがわかる人。だから話も面白いんだろうな」

 ひとり暮らしとなった篠原さんの家で、南さん、糸井さん含め数人で飲んだこともある。古くて底冷えする家だった。飲み始めてしばらくすると、篠原さんが突然、こう切り出した。

「寒いときには火を焚くとかナ、いろんな方法があるもんだ。でもな、この家は構造的に寒い。どこから寒さがきてるかというと地面からだ」

 酒を飲みながら、みんな真剣にふむふむと聞いている。

「畳と地面の間には空間があって、そこに寒さのもとがあるから、畳を剥がしてナ。そこにワラを敷くんだナ」

 みんなで顔を見合わせ畳を持ち上げ見てみると、本当にワラがぎっしり敷き詰めてあった。

「うわ、ホントだ」「すげえな、ワラだ!」と大笑い。「これでだいぶ違うんだ」と篠原さんもドヤ顔だ。

「暑いとか寒いとかつらいとか、どんな状況でも面白がる。“この家は寒くて頭にくる”って文句言うのは簡単だけど、そこに腹を立てない。何もしないで嘆くんじゃなくて、自分で手を打って、笑いにもかえる。ネタ作りでわざとやってるんじゃないかと思うくらいです」(糸井さん)

 篠原さんは飲み屋に行くたびに新しいネタで場を盛り上げ、新宿界隈で飲み歩く作家や編集者、いわゆる業界人の間で評判になっていた。

 糸井さんは、その座持ちのよさについて、こんなエピソードも教えてくれた。

「CMディレクターが、クマちゃんに仕事の依頼をしたんです。出演者でもスタッフでもなく、『ムーダー』で、と言うんですよ。撮影現場の緊張やムードをほぐす『ムーダー』という肩書をクマちゃんのために作ったの。見た目が怖いから意外性もあって、より効果的なんだよね(笑)」

 篠原さんはそうした日々を『人生はデーヤモンド』というエッセイ集に書いた。タイトルを考案したのは糸井さんだ。篠原さんの話の面白さは、新宿の飲み屋街から飛び出して、たくさんの人の手に届くようになった。

笑っていいとも!』出演秘話

「『人生はデーヤモンド』を読みました。面白かった。ぜひお会いしたい」

 フジテレビ『笑っていいとも!』の名物プロデューサー横澤彪さんから突然、電話がかかってきた。とりあえず会って軽く話をした後、銀座のクラブに連れていかれた。

「これがナ、ただ飲ませるだけじゃねえんだ。ホステスとのやりとりを見て話が面白いか確かめてるんだナ。やり手だと思ったよ。オレも偉そうに、“金が欲しいわけじゃねえ”とか“オレはマネージャーです。クマさんは家で寝てます”なんて煙に巻いて帰ったんだ」

 家に帰ると留守番電話に早速メッセージが入っていた。「横澤です。銀座でマネージャーさんにお会いしました。ご出演お願いできますか」

 篠原さんはそのころ、日雇いのアルバイトをしながら売れない絵を描き続けていた。ギャラを日払いにすること、肩書を「ゲージツ家」にすることを条件に、『笑っていいとも!』3分のコーナーのテレビ出演が始まった。

 そのキャラクターと話術はすぐに話題となり、出演番組はどんどん増えた。『ビートたけしのTVタックル』『なるほど!ザ・ワールド』『たけしの誰でもピカソ』─。テレビが元気な時代だった。

「いろんな芸能人と共演したけど、収録以外の付き合いはほとんどなかった。テレビでゲージツ家ですって言えば目に留まって依頼が来るかもしんねえだろ。確信犯だヨ。あのころは、チヤホヤされて多少調子に乗ってたナ。でもよ、美術関係のやつらからはちっとも相手にされねえんだ」

 テレビに出るようになって2年ほどたったころのことだ。大久保通りを歩いていると、解体現場で「羊羹みたいに」バーナーで溶断される鉄を見て衝撃を受けた。厄年、42歳の夏だった。

「室蘭は製鉄の街だったから、鉄は大嫌いだったんだけど、“そうか、都市は鉄でできてんだ”と思ったんだ。バブルで街がどんどん解体されて鉄のスクラップがゴロゴロしてた。材料に困らねえ。これだと思って溶接機を買って、自転車を試しにバラバラに切って、鉄の犬をつくったんだ」

 初めての立体作品だった。スクラップでつくる彫刻に目覚め、借家から倉庫、自動車修理場と場所を移し、墨田区に工場を建てた。

 美術界から声がかからなきゃこっちから仕掛ければいい。鉄の巨大彫刻をつくるフィールドはサハラ砂漠やモンゴル草原、ダラムサラ─。世界のあちこちで彫刻をつくり映像に残す。それが発表の場だった。自ら企画を立て、テレビ局に持ち込み、番組にした。

 番組をきっかけに、あちこちから声がかかった。ミュンヘン、ミラノ、北京、ベネチア、ニューヨークでも作品を発表した。北海道から九州まで、今も国内のあちこちに巨大な鉄の彫刻がある。

 テレビ番組のギャラは海外の特番でも100万円程度。そこに材料費も含まれる。鉄は運搬や設置解体にもお金と人手がかかる。お金は回るが一向に貯まらなかった。

 隅田川のほとりに10年住んだ後、1995年に山梨の甲斐駒ヶ岳の麓に溶解炉付きの工場を建て移り住んだ。華やかに見える一方、2億円の負債は一向に減らなかった。

世界を見る視線がすでに文学者

『骨風』という自伝的小説で泉鏡花賞を受賞したのは2015年のことだ。幼少期の父親との葛藤、その父親の最期、認知症の母とのやりとりや、時折金の無心をされていた弟の死、山梨での暮らしなどが記されている。

 糸井さんはそれを読んで衝撃を受けた。

「人が年をとっても、ちょっとずつ斜面を登るように成長していることがその本にあらわれていて、ジンときたの。なんとかしてこれを、みんなに伝えたいって思ったんです」

 タイトルも表紙も隠して販売する天狼院書店の特別企画で、「糸井重里秘本」として取り上げたところ、1つの書店で1600冊近くを売り上げた。その後『骨風』は、泉鏡花賞を受賞した。

「僕は、クマちゃんのつくるものの中で文章がいちばん好きです。クマちゃんは世界を見る視線がすでに文学者。そうやって生きてきた人なんです。そのうえで、昔なら笑いを取ってサービスして、面白い話でおしまいにしていたことを、ちゃんと真顔で文学にした。そのことに感動したんですよ」

 篠原さんは、「『骨風』は森くんっていう20年来のトモダチにそそのかされて書いた」と言う。篠原さんがトモダチと呼ぶ森正明さん(55)は、文藝春秋の担当編集者だ。

「作品も小説も、理屈でつくってないから嘘がない。世間の枠組みや利害関係にとらわれないクマさんと一緒にいるだけで、私も世の中のくだらないことを忘れられる。クマさんに会うと僕が解放されるんです。たぶんクマさんは、たまたま『小説おもしれえな』って思ったタイミングで書いただけ。思惑はないんですよ」

『骨風』が形になるまでに10年の月日がたったが、篠原さんにとっても自分を捉え直す機会になった。

「『骨風』はオレにとってエポックなんだ。親父が死んで、お袋が死んで、あれを書いたことで何かが大きく転換して今日がある。オレと親子ほども年が違う森くんがよ、オレが書いた原稿を読んで“カッコつけすぎです。腹くくってください”なんて言うんだヨ。でもな、そうして『骨風』を書いて、ウダウダしてたことがやっと吹っ切れたんだ。それによ、賞金で奥歯のインプラントも入れられた。それも森くんのおかげなんだヨ」

突然の脳梗塞で救急搬送

 坊主頭の同い年。篠原さんが「キョーデー」と呼ぶ、今最も親しい人がいる。俳優・舞踏家の麿赤兒さん(79)だ。2人が親しくなったのは10年ほど前のこと。麿さんが主宰する大駱駝艦(だいらくだかん)の公演を、篠原さんが見に行ったことがきっかけだった。

「意味は全然わからんが、一生懸命やってるのはいいな」

 篠原さんはいつもまっすぐにものを言う。それ以来、稽古場にも訪れるようになった。

「うちの若いやつが悩みを相談すると、ネガティブなことも一挙にポジティブに転換してしまう。舞台前にコンプレックスで悩んでるやつには“そりゃ財産だなあ”なんて言うし、親が死んだやつにも“いいとき死んだなあ”って背中を叩くようにふっと言葉がかけられる。あれは天性のものだね。相当人を救ってきてるんじゃないかな」

 2017年、大駱駝艦の45周年記念公演『超人』『擬人』で、篠原さんの巨大なガラス作品を舞台美術として設置することになった。

「このガラスが割れたら大変だから、付き添いで来て、ついでに舞台にも出てよ」

 麿さんの突然の誘いに「踊りは無理だ」と篠原さんは断った。それでも、「歩くのも踊りだ。身体が踊ってる。存在も芸術だぞ」と口説かれ、やってみるかと引き受けた。

 役柄はマッドサイエンティスト。白塗りにスーツを着て、杖をついて舞台を歩く。

「カッちゃん(篠原さん)が舞台を歩く背中には、彼が今まで生きる中で背負ってきたことが滲み出ていた。

 かっちゃんが“失敗なんかない”と言うのも、僕の“ダメならダメなまま存在させる”というコンセプトに重なります」

 その舞台をきっかけに、2人はさらに仲よくなった。70歳を越えてからの友人だ。

「年をとってから『キョーデー』と呼んでもらえると、絆が固い気がするね。2人して幼児に戻ってふざけたり、時には宇宙論のような深い話をしたりもできる。朝起きてSNSでほかの人と楽しそうにしている写真を見ると、嫉妬してしまうくらいです(笑)。

 お互い、いい年だ。大事なキョーデーですから、身体も大事にしてもらわないと」

 元気に見える篠原さんだが、3年前、77歳のころに脳梗塞を経験している。

「一歩間違えたら死んでたなと思うよ」

 新宿で軽く飲みながら仕事の打ち合わせをしているとき、呂律が回らなくなった。

「珍しく酔ったね」と言われたが、酔うほど飲んでいない。おかしいなと思いながら2軒目に移動した。そこでも「呂律が回ってないよ」と言われた。そのまま寝たが、朝起きてもまだうまく話せない。休日だった。

 あいていた近くの脳神経外科にタクシーで飛び込むと、「脳梗塞」で救急搬送された。もう少し遅ければ危ないところだった。場所が少しずれていたら、手足も動かせなかったかもしれない。

 翌年、経過を検査すると、不整脈の一種である心房細動が見つかった。その血栓が飛んで詰まったのではないかと心臓も手術した。

「そのときがきたらジタバタしねえ」

 2億円の借金は8年前に完済した。脳梗塞をやって、心臓の手術をして、自然に「鉄はもういいかな」と思うようになった。大きすぎると感じていた山梨の工場を引き払い、奈良に移った。

 鉄、ガラス、土、小説、すべての篠原さんの表現や舞台での存在感に通底しているのは「もののあはれ」だと麿さんは言う。

「砂漠に置いた鉄のオブジェはいつか錆びて朽ちていく。それが土にかわって、今回の個展の『空っぽ』というコンセプトになった。彼自身が空っぽになって無に帰するようなところもあるでしょう。そこに、彼のものの見方が貫かれているんだと思います」

 長年住み慣れた山梨を離れることも、狙いはなく、導かれるように決めたという。

「オレは昔っから流浪する要素を持ってんだナ。行く場所行く場所でなじむけどヨ、あるとき風のように去っていく。寂しさもねえんだよ。昔は死ぬことが怖かったけどヨ、このごろは、そのときがきたらジタバタしねえと思うナ。生きている間にどこまで面白いことができるかなと思ってる」

 個展で数日間東京に滞在していた篠原さんは、奈良に戻ったその足で、鹿野園(ロッキャオ)の作業場に向かった。早速、陶芸窯や土、釉薬についていつも相談している「クサくん」に来てもらう。草葉善兵衛商店という老舗の陶芸専門店、12代目社長の艸葉典久さん(51)だ。

「クサくんヨ、この辺りの田んぼの土で焼きたいんだ」

「普通はそんなこと考えませんけどね(笑)。そのまま1200度で焼いたら溶けちゃいますから、ブレンドの割合高くせんといてくださいよ」

「溶けちゃうか。それもいいナ。失敗しますと言われると、そこにおいしいところが落ちてると思うんだナ」

「あはは。普通じゃ考えつかへんことをいつも一緒に考えさせてもらえて新鮮ですわ」

「人の話は一応聞くけどナ、言うとおりにはしねえんダ」

 奈良に住んでまだ1年だが、篠原さんを親しみを持って「クマさん」と呼ぶ知り合いがどんどん増える。東大寺長老とは唯識論の話を交わし、茶の湯が趣味の飲み屋の店長と仲よくなって、隣の無口なお百姓に「鶏をつぶすから食べにきませんか」と誘われる。

「オレは鼻も耳も利かねえけどヨ、その分目玉がすげえんだ。砂漠に住むやつらが砂嵐が来るのがわかるように、チラ見で人を見分けられるゾ」

 前出の自伝的小説の中で「人と暮らす能力に欠けていると薄々思っていた」と綴った篠原さんだが、今、「カカア」と呼ぶ女性がそばにいる。

 23年ともにした愛猫よりも長い時間を過ごしている。

「オレの逃げ足が衰えたんだろうナ(笑)。逃げるってのはエネルギーいるんだよ」

 土と戯れ夢中になると、作業場に泊まり込む。2、3日家に帰らないことも多い。

「いい具合に離れてそれぞれに生きるスタイルなんだ。毎日家に帰らなきゃなんねえなんて、誰が決めたんだろナ」

 毎日のスケジュールは決まっていない。1日1個はわんをつくり、眠くなったら寝床に入る。3時間寝ると目が覚める。トイレに行くのが面倒で、中庭に立ち小便。

「小便しながら見上げるとヨ、満天の星があるんだ。宇宙ってなんだろって考えたりしてナ、それでまた空っぽのわんをつくりながら、宇宙の果てまで飛んでいくんだ」

 自分の身体と世界の境がなくなり、宇宙と一体化するような感覚だろうか。

 土をこね、また眠くなれば寝る。朝起きると茶を点てる。空に向かってポカーンと口を開けた中庭には、春の花が次々と咲きはじめ、空からツバメが舞い込んで玄関口に巣をつくりはじめた。

「オレのつくるわんなんかより、ツバメの巣のほうがよっぽどすげえ。こうして中庭を見てるとナ、ああ、いいなあと思うんだ。

 80歳にしてようやく、朝起きるのが楽しみになったヨ」

〈取材・文/太田美由紀〉

 おおた・みゆき ●大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブスジャパンにて教育コラムを連載中。著書に『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)など