W杯カタール大会の日本代表

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〈ドーハの悲劇から恋実る〉。

 1998年5月の新聞に、こんな見出しの記事が載った。内容は、日本代表の歴史的敗戦を、サッカー居酒屋でたまたま相席で観た初対面の男女が5年後、婚姻に至ったことを紹介したもの(※1)。その間の1997年、日本代表はワールドカップ(以下、W杯)への初進出(98年フランス大会)を決めており、記事内では両人の「こんなに幸せなことはありません」というコメントも紹介されている。

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 2026年W杯が開幕した。日本代表にとって、W杯はまさに出場権を巡る歴史でもあった。知られざるトリビアでそれらを振り返りたい(文中敬称略)。

W杯カタール大会の日本代表

日本は第1回W杯に出場できた!?

 第1回のW杯は1930年、ウルグアイでおこなわれたが、予選がなかった。しかも、日本には出場要請が来ていたのである。これを受けていれば、労せずして本選に出場できていたことになる。しかも、そのための旅費も宿泊費も、主催のウルグアイ政府が持つという大盤振る舞いぶりだった(6月2日配信記事参照)。

 ところが、日本はこれを断る。理由は旅行行程の長さにあった。まだ飛行機での移動が一般的でなかった時代、ウルグアイまでは船旅だと約半月はかかった。その間、選手は練習が出来ないこととなる。強豪がひしめくヨーロッパ勢も、同じ理由で辞退する国が続出。こちらは既にサッカーがプロ化された地域も多く、参加すると往復で約1ヵ月の船旅中、無給ということになる。結果、欧州からの参加は、4か国にとどまった。結局、この記念すべき第一回W杯はアメリカ、メキシコ、及び南米の7か国を加えた13か国での開催となった。

 黎明期らしく、サプライズも続出。試験を理由に試合を欠場した選手もいれば(アルゼンチンのマヌエル・フェレイラ)、大会後半、片腕の選手が主力として、決勝点を決めたことも(ウルグアイのエクトル・カストロ)。審判のレベルも多様で、アルゼンチンvsフランスでは、定刻より5分早く試合終了のホイッスルが。場内は騒然となるも、ゲームオーバーで控え室へ。ところがその後、主審が「やっぱり自分が間違っていた」と5分のみで試合を再開。リードされていたフランスに、気持ちを立て直すことなど出来るわけがなかった。なお、W杯の最少観客動員試合は、この大会のルーマニアvsペルーで、観戦者は約300人とされている。

北朝鮮代表に間違われた!?

 その後、日本は1938年の第3回W杯(フランス大会)にエントリーされたが、こちらは日中戦争により不参加に。1954年から断続的に予選に出場するも、他のアジア勢に本選出場は阻まれた。一方で、1964年の東京五輪ではベスト8に入ったため、2年後、予選から不参加だったイングランド大会の決勝を五輪メンバーで観戦したことがあった。

 監督の長沼健曰く、「ご褒美のつもり」だったが、もちろん視察も兼ねていたのは言うまでもない。すると、会場に入るなり観客から大拍手で迎えられた。健闘を讃える声もあり、おかしいなと思ったという。同大会でベスト8に入った北朝鮮代表チームと勘違いされていたのだった。

 1973年、予選準決勝でイスラエルに敗れ、本選出場を逃した際は、日本のメディアにはっきりと、こう報じられている。

〈一人一人の技術や体力、試合経験の差がはっきりと出た〉(読売新聞。1973年5月27日付)

ジーコは大臣の座を投げ打って、日本で復帰した

 そんな日本にとってのジャンピングボードとなったのが、1993年のサッカーのプロ化、いわゆるJリーグ開幕だろう。Jリーグの機構自体は91年に発足していたが、その開幕に向け、日本の住友金属工業蹴球団(後の鹿島アントラーズ)からオファーを受けたのが、ブラジルの大スター、ジーコだった。

 ところがジーコは、1989年3月に現地で引退試合を行っており、翌年には時の大統領の肝煎りで、スポーツ担当大臣を拝命していた。つまり、もう選手ではなく、閣僚だったのである。因みにこの時の大統領は国民投票で選ばれており、人気者かつブラジルの顔であるジーコを大臣に任命するのは、極めてソツがないチョイスと言えた。

 しかし、ジーコ自身はその座を捨てて、住友金属からのオファーを快諾。2年後に開始されるJリーグの理念の一つである「サッカーを通じての地域社会の振興」に魅せられたという。確かに、幼少時から誰もがサッカーに親しむブラジルでは、あり得ないコンセプトだった。

 いざ復帰してみれば、開幕したばかりのJリーグで初のハットトリックを達成し、その年、所属の鹿島アントラーズを優勝に導いた。しかし、それより特筆すべきは、前身の住友金属時代からのピッチ外でのチーム強化活動だろう。

 チームのロッカー室にシューズが無造作にちらばっていると、「明日もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、自ら整理を始めた。併せてホペイロ(用具係)を雇うことも提言。寮生活の選手がお菓子を買って来ると、「プロにお菓子は必要ないはずだ」と、チームに上申した。粗雑だったグラウンドの整備はもちろん、選手が練習後に風邪をひかぬよう、シャワールームを作らせた。反面、Jリーグ開幕前の自身は、顔が知られてなかったこともあり、東京の自宅から鹿島まで、電車と高速バスで“通勤”していた。「若かったクラブチーム時代が甦って来るね」と喜び、こうつけ加えた。

「日本の電車やバスは凄いね。必ず時間通りに来る。僕の性格にピッタリだ(笑)」

 ジーコは来日後、当初の契約通り3年で引退したが、地元の鹿島にはその銅像が2つ建てられた。うち一つ、ショッピングセンター内の通称「ジーコ広場」に建てられた銅像の台座には、以下の日本語が大きく刻まれている。

〈ありがとうジーコ〉

逆効果だった!? “ドーハの悲劇”、ハーフタイムでの檄

 Jリーグが開幕した1993年10月、日本はW杯アメリカ大会への予選に挑み、その最終戦で2−1で勝っていたところをロスタイムで追いつかれ、初の本選進出を寸前で逃した。冒頭でも触れた、余りにも有名な“ドーハの悲劇”である。

 日本で待機していたテレビ中継のスタジオは、お通夜状態に。NHK BSの解説者は「やっぱり僕、中継中にも……」と切り出すも、「……すいません」と涙で声を詰まらせ、後が続かなかった。

 今でも敗因(引き分けなので、正しくはその原因だが)を巡る考察は多い。終盤のボールキープの甘さや処理の甘さを指摘する声もあれば、後日のワイドショーでは、後半、試合が止まった時間と、実際のロスタイムは本当に同じ長さなのか検証していた。当日のドーハ(カタールの首都)の気温が30℃を越えていただけに、試合前のウォーミングアップ時に選手がウィンドブレーカーを着ていたことがスタミナ減少に繋がったとするという声などもある。だが、この大一番で、ハーフタイムに起きていたことを報じる資料は少ない。

 1−0と、日本が1点リードしてのハーフタイム、当時の監督のハンス・オフトは、1つだけ注意をするつもりだった。それは、日本の守備が悪く、相手のイラクのエースである背番号8(アーメド・ラディ)が極めて自由に動けていることへの留意だった。全員に伝えねばならず、その着替えを待ち終わったオフトは、先ず、ボードに貼った白い模造紙に、こう書いた。

『45 minutes USA』(※2)
 
 このままスコアを守り切れば、アメリカでの本選出場まで、あと45分だという意味だ。ところが選手たちが極度の興奮状態にあり、ただでさえ騒然としていたロッカー内は、この掲示で更に蜂の巣をつついたような大騒ぎに。オフト監督が3回も「Shut Up(黙れ)!」と叫び、果てはボードを蹴り上げるほどだった。その瞬間、後半開始を告げるブザーが響き、選手たちはグラウンドに。オフトの指示は、選手に伝えられることはなかった。

 後半開始9分、イラクのゴールが決まり、日本は追いつかれた。決めた選手の背番号は8だった(※3)。

日本に負けたイラン監督、日本で指導者に。

 それから4年後の1997年11月、日本はイランとの予選を勝ち抜き、悲願のW杯フランス大会の本選初出場を果たす。決戦が行われたマレーシアの地名から、こちらは「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる。初挑戦から数えて10回目、実に43年目でのW杯本選出場決定は、海外でも話題に。サッカーの本場イギリスでも大きく取り上げられた。その反応を引用しよう。

〈ロンドンの読者は「株式欄以外で“Japan”の見出しを見たのは初めてだ」と驚いている〉(日刊スポーツ。1997年11月18日付)

 ここからW杯出場の常連となっていった日本だが、実は最終予選で日本に負けた(※大陸間プレーオフに勝ち、本選には出場)イランのバルディエール・バドゥ・ビエイラ監督は後年、日本で指導者になっている。2006年から3年間は、北信越1部リーグのAC長野パルセイロの監督を、2014年には京都サンガF.C.の監督を務めている。

 あの日本戦での思い出は尽きないそうだ。取材を受けると、試合後半、イランの運動量が落ちて負けたことをはっきりと肯定。実はイランのサッカー協会側の不手際で、マレーシアへの直行便が確保出来ず、ドバイ、香港などを経由し、36時間かけての現地入りで、疲弊もやむなしの状況だったという。その上で、日本のある選手を褒めたたえる。

「秋田豊。(イランのエースの)アリ・ダエイを徹底マークしてたね」

 それは、マークが甘く失点を許したドーハの悲劇とは、大きく変わった日本代表の姿だった。この時の日本代表監督の岡田武史は、「ジョホールバルの歓喜」の1ヵ月前に同職に就任したばかりだった。決戦までの短い期間の中、だからこそかもしれないが、岡田が選手たちに繰り返し言ってきた言葉があるという。

「勝って一喜、負けて一憂するな」

 ドーハの悲劇のハーフタイムでの出来事を岡田が知っていたかはわからない。いや、おそらく知らなかっただろう。何故なら、この時、NHK BSで解説を務めており、試合後、「やっぱり僕、中継中にも……すいません……」と涙で声を詰まらせていたのが、岡田その人だったのだ。そして、岡田はこの後、気持ちを持ち直し、次のように語っている。

「中継中にも言いましたけどね、今の日本のチームはアジアでは、10回戦えば5回は勝っていけるチームです。我々はこれからもう、次に向かってやっていかなければならない。彼らがここまでにしてくれたものを、また、(10回中)3回(しか勝てない)の世界に落としてはいけない。それは僕らだけでなく、カタールまで来てくれたサポーターや日本で遅くまで観てくれているファンの方、みんなが一緒になって、次のフランス(大会)にね。ようやく同じレベルになれたんだから、次は、次は、きっとね……」

 W杯初出場の切符を得た岡田は、直後のインタビューに「ただ、感謝の2文字です。選手に、ファンに、感謝したい」と声を震わせて答えた。その眼鏡の奥には、4年前とは違う涙が光っていた。

※1=毎日新聞静岡版。1998年5月17日付。
※2=『USA 45 minutes』とする資料もあり。
※3=出典は毎日新聞2010年5月20日夕刊他。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。近著「10・9 プロレスのいちばん熱い日」(スタンダーズ)が重版出来中。他のスポーツや雑学にも通じており、「人を動かす言葉」(野村克也・新潮社)、「プロ野球視聴率48.8%のベンチ裏」(槙原寛己・ポプラ社)では、取材、構成を担当、「世界の国々 おもしろクイズ1000」(メイツ出版)においては、ほぼ全問を作成及び執筆している。

デイリー新潮編集部