「二人して、次のリサイタルに向けて燃えていました。今度はもっと大きな場所でやりたいね、とか、プレスリリースも出してみようか、とか、曲目をもっと難しいものにしてみようとか、ハイになっていました」

 そんな矢先、里美さんに悲劇が襲います。

◆人差し指を骨折、泣く泣く伴奏をあきらめる

 なんと里美さんが運動会の設営中にテントに指を挟んでしまい人差し指を骨折するというアクシデントに見舞われてしまったのです。

「とても悔しかったですが、さすがに骨折してしまってはどうしようもありません」

 仕方なく、次期リサイタルの伴奏は春樹くんの後輩のK子さんに委ねられることに。それからもLINEで連絡は取り合っていたり、練習終わりに家まで寄ってくれたりしていたそうですが、リサイタルも間近になってくるとそれどころではなくなっていました。里美さんも進路指導の主担当を任されて、仕事が立て込んでいてなんとなく二人はすれ違っていました。

◆愛する人の成功に感動

 春樹くんの二度目のリサイタルも無事に成功を収め、前回以上の反響がありました。業界内で知られている大物音楽家も会場に来ていて、彼を讃えて帰っていったほどだったとか。かつての教え子、そして、愛する人が成功するのを間近で見て、感極まった里美さん。

 その興奮が収まってきた頃に、春樹くんから一通のLINEが里美さんのもとに届きます。そこには目を疑うような内容の文面が書かれていました。

◆突然の報告にア然「子どもができた」

 里美さんの代わりに伴奏をお願いした後輩のK子に子どもができたというものでした。もちろん、父親は春樹くんです。その文面をじーっと見つめて立ち尽くす里美さん。里美さんの心中には様々な思いが駆け巡ります。

 なぜ? どうして? 私のことはどう思ってるの? これから春樹くんはどうするの?

「困惑や苛立ち、悲しみの感情が一気に押し寄せてきました。その晩は眠ることもできずに、泣き明かしていました」

 一晩泣き明かした翌朝、不思議と里美さんの心は澄み切ったように穏やかになっていたそうなのです。

◆短い一文を送ってLINEをブロック

 職場と家の往復するだけの毎日に突如として現れたかつての教え子。彼と再会し、放課後の練習の続きのような日々を短い間だけだったけれども過ごせたこと。彼と一緒に頑張ったことや、音楽に一生懸命になったこと。春樹くんが夢を叶える瞬間に立ち会えたこと。何より、誰かに何かを教える喜びを思い出させてくれたこと。

「だから、春樹くんのために使った100万円という大金も少しも惜しくはありませんでした」

 里美さんはLINEを開き、「教えてくれてありがとう」と短い一文を送ってから、春樹くんをブロックしました。

「何の後悔もありませんでした。一生分の私の愛情を彼に注ぐことができた満足感でいっぱいでした。もちろん、寂しくはありますけど」

 でも、教師ってそういうものですから。みんな、卒業していくんです。と里美さんはぽつりと言葉を付け足しました。

◆「教師の仕事が楽しくなった」と語る里美さん

 春樹くんと後輩のK子さんのその後については知らないそうです。でも、春樹くんと過ごした短い日のことは自分の心の中で消えることはなく、自分を照らしてくれる、里美さんはそう信じています。

 それからは、今まで以上に、教師という仕事が楽しくなったそうです。誰かに何かを教える喜びや、夢を叶える手伝いをできることに感謝しながら、教職という仕事に邁進しているそうです。

「きっと、“教師”は私の天職なんだと思います」

 話の締めくくりに里美さんはそう言いました。

<文/浅川玲奈>

【浅川玲奈】
平安京で生まれ江戸で育ったアラサー文学少女、と自分で言ってしまう婚活マニア。最近の日課は近所の雑貨店で買ってきたサボテンの観察。シアワセになりたいがクチぐせ。