江戸時代の巨大な城は、社会に何をもたらしたのか【新・戦国史 #7】

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家康が主導した城づくりがもたらした技術革新と社会変革とは──。戦国から江戸へと移り変わる時代のダイナミズムを解き明かしていく。

科学×歴史で日本史上のターニングポイントを鮮やかに描き、大きな反響を呼んだNHKスペシャル「戦国サムライの城」の書籍化作品『新・戦国史 城から迫る乱世の終焉、泰平のはじまり』の第6章「巨大城郭がもたらした技術・社会変化」より、その一部を特別公開。

書影

 公儀普請(こうぎふしん)による城づくりは、天下人である家康が主導した国家規模のプロジェクトであり、その現場には大名や家臣だけでなく、大工、職人、商人、農民など、身分や職能を超えて多種多様な人々が集った。

 名古屋市博物館が所蔵する「築城図屛風」は、慶長の築城ラッシュの時代に制作されたと考えられる作品である。そこには汗をかきながら巨石を積み上げる武士の姿から芸人やうどん屋、さらには歓楽街の風景まで、普請で沸き立つ現場の様子が詳細に描かれている。築城現場は熱狂の舞台でもあった。

「築城図屛風(部分)」。巨石を積み上げる武士たちの様子(所蔵:名古屋市博物館)

「築城図屛風(部分)」。右端にはうどん屋が麺をこねる様子などが見られる(所蔵:名古屋市博物館)

 しかし、注目すべきは、巨大城郭の建造が、単なる壮大な工事に留まらないインパクトを持っていたということだ。分業化や指図による計画的な建築システムを生み出し、木材や石材の流通網を整備し、全国規模の協働体制を築いた。さらに絢爛豪華な意匠や障壁画を生み出し、文化と芸術を開花させる場ともなった。

 本章では、家康の名古屋城を中心に、巨大城郭がもたらした技術革新と社会変革を追いながら、戦国から江戸へと移り変わる時代のダイナミズムを解き明かしていく。

巨大城郭建造プロジェクトを支えた中井正清

 大名やその家臣たちが、石垣や堀などの土木工事(普請)で大きな役割を果たした一方、天守や御殿などの建築工事(作事)の中心を担ったのは大工たちだ。信長の時代では、安土城の建築を任された岡部又右衛門という大工棟梁がよく知られているが、江戸城や駿府城、名古屋城といった家康の巨大城郭建造プロジェクトを支えたのは、中井正清(まさきよ)という大工棟梁だった。

 正清は奈良の法隆寺門前の西里(にっさと)という村で生まれた。西里には法隆寺一帯の寺社建築を担った大工集団が住み、正清の父・中井正吉(まさよし)は法隆寺大工を指導する立場にあったと考えられている。正清の前半生については謎に包まれている部分も多いが、一六〇〇年(慶長五)には家康のもとで関ヶ原の戦いに従軍したとされる。その後、伏見城や二条城といった公儀普請の建築工事に大工棟梁として名を連ね、家康に重用されるようになっていった。

 その期待に応えるように、一六〇七年(慶長一二)、完成したばかりの駿府城が失火により焼失したことを聞いた正清は、京都から雲霞(うんか)のごとく大勢の大工を引き連れて駿府へと向かい、すぐさま再建を行ったと伝えられる。

 さらに、正清はその腕を買われ、城郭建築だけでなく、京都御所や方広(ほうこう)寺大仏殿といった当時の国家プロジェクトを一手に担う天下一の大工棟梁としてその名をとどろかせていく。豪快な性格で大酒飲みだったという正清は、一九世紀に編纂された徳川幕府の公式史書「徳川実紀」に、酒の席で大言壮語を放ったとも記されている。

重要文化財「大工頭中井家関係資料」のうち「中井正清像」 (所蔵:中井正知氏・正純氏/寄託:大阪市立住まいのミュー ジアム/撮影:京極寛)

 しかし、家康はそうしたことで正清を罰することはなく、徳川家の主たる城郭建築を任せた上、「何事も御普請方之儀、大和(正清のこと)次第」(重要文化財「大工頭中井家関係資料」のうち「大久保長安書状」より)とする記録が残るなど、正清の築城技術を高く評価していた。

 こうした中で、一六〇九年(慶長一四)、正清は、家康肝いりの名古屋城の作事についても大工棟梁の役割を任じられることとなったのだが(加藤品房編『蓬左遷府記稿(ほうさせんぷきこう)』より)、名古屋城の天守が完成したのは一六一二年(慶長一七)。任命からたった三年という短期間で、重機もない時代に日本最大級の巨大な天守を完成させた。正清はいかにして、この巨大事業を成し遂げたのだろうか。

設計技術の発達と指図

 大阪市にある大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)には、五〇〇〇点以上にのぼる、中井正清を初代とする中井家一門の建築資料が寄託されている。

 大阪市立大学(現在の大阪公立大学)名誉教授の谷直樹さんは、二〇二一年(令和三)まで大阪くらしの今昔館の館長を務め、この膨大な史料を五〇年以上にわたり調査・研究してきた。この中井家に残された貴重な史料の中でも、特に重要なのが「建築図面」の存在だという。

「近世になると、城郭や内裏、大寺社などの工事では、一人の大工棟梁が設計から施工までを担うのではなく、組織的に進められるようになりました。信長や秀吉の時代の史料は残っていないため、江戸時代初期の中井家の史料はとても貴重です。中井正清の時代には、広大な敷地に複数の大規模な建物を短期間で完成させる必要がありました。そこで、それまでのように個別の建物を大工が担当する方法から、敷地全体の配置計画を立て、多くの職人を集めて集中的に工事を行う手法に転換していったのです。この仕組みを実現するために全員が同じデータを共有する設計技術が発達しました」

 正清は、配下の棟梁衆から優秀な者を選び、予定地の下見や測量からはじまって、建物の設計を行い、必要な資材の見積もりをさせていた。城郭の作事は、巨大な天守と政庁や住まいである御殿をほぼ同時進行で建造していく。このときに必要とされたのが、城郭の敷地内に複数の建築物の平面を描いた「指図(さしず)」と呼ばれる建築図面だった。

「なこや御城之指図」の革新性

 中井家の史料として、名古屋城の作事に関連する指図は二枚残されている。いずれも、正清が活躍した四〇〇年以上前のものとされている。最も初期のものと考えられるのが「なこや御城惣(おしろそう)指図」、もう一枚は完成段階に近い「なこや御城之指図」である。正清が亡くなった二年後の一六二一年(元和七)、正清の嫡男・中井正侶(まさとも)が、伏見城、二条城、江戸城、大坂城の指図とともに、名古屋城の指図二枚を江戸に送っている。中井家に伝来する二枚の指図は、このとき送られたものの可能性があるという。

 「なこや御城之指図」は縦横二メートルほどある巨大な平面図で、一三〇分の一の縮尺で描かれている。白い台紙には、碁盤の目のようなグリッド線がヘラ描きされており、一マスが一間(六尺五寸)間隔になっている。特徴的なのは、その上に複数の建物の平面図が貼り付けられていることだ。

重要文化財「大工頭中井家関係資料」のうち「なこや御城之指図」。画質調整し た拡大図の背景の白い線がグリッド線(所蔵:中井正知氏・正純氏/寄託:大 阪市立住まいのミュージアム/撮影:京極寛)

重要文化財「大工頭中井家関係資料」のうち「なこや御城之指図」。画質調整し た拡大図の背景の白い線がグリッド線(所蔵:中井正知氏・正純氏/寄託:大 阪市立住まいのミュージアム/撮影:京極寛)

 じつは当時、建物によって柱間寸法が異なっていた。城内の多くの建物の柱間は六尺五寸であったが、天守は七尺間が採用されていた。そのため建物別に平面図を描き、それを切り抜いて台紙に貼り付けていた。また、台紙に直接建物の平面図を書いてしまうと、幕府の要請などによって設計が変わった場合、図面の修正に時間がかかってしまう。こうした問題を解決するため、貼り絵図という修正しやすい図面をつくり上げたと考えられる。

 複数の建物を一つの大きな平面図にまとめるこの方法は、城郭などの巨大建築には必要で、革新的なやり方だったと、谷さんは言う。

「この指図は全体の建物配置を示すことを目的としていたと考えられます。多くの建物が複雑に配置され、さらに、幕府などの施主から指摘された修正箇所にも部分的に貼りかえることで対応できます。

 中世の建築は、完成形は棟梁の頭の中にあり、図面があったとしても簡単なものに過ぎなかった。建物の大きさや高さは『間竿(けんざお)』という尺を使って指示し、その通りに他の大工はつくりました。ところが、天守や御殿、櫓もある巨大な建造物群になると、一人の棟梁が間竿を持ってすべてを指示して回ることは不可能です。そこで図面が普及したのです。中井の下には何十人もの棟梁衆がいたので、図面で全体計画を示し、一人ひとりの棟梁に建物を分担させたと考えられます。巨大な施設を同時並行で建てるためには、図面という技術が欠かせませんでした」

この続きは『新・戦国史』でお楽しみください。本書は以下の構成で、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、「近世城郭誕生の秘密」に迫ります。

第1章 信長の城郭革命
第2章 令和の大調査で迫る安土城
第3章 消えた安土山図屛風と大航海時代
第4章 秀吉が残した慶長の築城ラッシュ
第5章 家康の国づくりと名古屋城
第6章 巨大城郭がもたらした技術・社会変化
第7章 「泰平の世」はいかに到来したか

NHKスペシャル取材班
最新の発掘調査と科学的分析から近世城郭の誕生に迫った、NHKスペシャル「戦国サムライの城」の制作チーム。同番組は、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、大きな反響を呼んだ。
※刊行時の情報です