「もう終わりだ…」。出産した3人のお子さん全員が難病だった紺野昌代さん。誰よりも愛情を注ぎながら子育てをしていた矢先、長男の突然死、離婚、そして大好きな職場も辞めざるを得ない絶望に、次々と見舞われます。希望を失ったその先で、彼女の人生を救った「ある光景」とは。

【写真】「もう終わりだ…」車で山奥に向かった先で紺野さんが見た光景(5枚目/全12枚)

「聖矢、おはよう!」何気ない、いつもの朝だった

聖矢くん2歳ころ、小児専門病院にて

── 出産した3人の子どもたちは、全員先天性の代謝異常症を患い、重度の障害児だったそうですが、できるだけ子どもを外に連れ出していたそうですね。しかし、街中に出ると失礼な視線や言動を感じることがあったとか。

紺野さん:バギーに乗っている子どもたちは、外出先ではしょっちゅうジロジロ見られていました。「かわいそう」と聞こえたり、小さい子どもが「何これ?」と近づいてきて親が「見ないの」と引き離したり。気にしないようにしても、いい気はしなかったです。

── そうした思いを抱えていた2014年2月、長男・聖矢(せいや)くんが亡くなりました。

紺野さん:13年12月、聖矢が久しぶりにMRIを撮ってもらったところ、頭の中に水が溜まっていて、いつ急変するかわからないと言われたんです。経過観察ではありましたが、見た目は元気そうに見えていたし、いつも通り過ごしていました。

でも翌年2月28日朝、部屋のカーテンを開けて、後ろを振り返って「聖矢、おはよう!」と顔を見たら何かがおかしい。すぐに呼吸をたしかめると心臓が止まっていて、急いで心臓マッサージをしましたが、戻ってくることができませんでした。

── 宣告されていたとはいえ、あまりに突然…。

紺野さん:はい。かなり驚いたし、ショックが大きかったです。

── さらに、聖矢さんが亡くなって徐々に前を向き始めるも、16年9月、当時の夫の不貞行為が発覚。そこから話し合いが始まりますが、12月には離婚を決断されました。

紺野さん:私が子どもばかりに目がいっていたからかもしれないし、聖矢が亡くなった寂しさを癒やせなかったのかもしれません。私も子どもが亡くなって当然、大きなショックを受けましたが、元夫よりは立ち直りが早かったというか。聖矢を精一杯愛し、一緒に楽しいことを経験して、十分楽しんだから、子どもを亡くして這い上がれないところまでいかなかったんですね。

聖矢は家で呼吸が止まって、すぐに救急車で運ばれて、私の当時の勤務先だったこども病院で亡くなりました。その後、仕事復帰して聖矢が亡くなった部屋に入ったときは、さすがにフラッシュバックというか。そのときの光景が浮かんでツラかったです。

いっぽうで、自分の子どもが時々こども病院に入院していたので、私が障害児の親であることは他の患者さんのお母さんたちも知っていました。同じ母親として会話をすることもあったので、聖矢が亡くなったときは、「頑張ったね」と声を掛けてくれる人や、聖矢の写真を見て泣く人もいて。聖矢を診てくれた先生も近くにいたし、聖矢のことはみんな知っていたから、亡くなった後も職場で普通に思い出話ができたことで、徐々に気持ちが整理できていったんですよね。

子ども2人を連れて山奥に向かった先で見たもの

娘の蘭愛さん、小学部の卒業式

── しかし元旦那さんにはそうした場がなかった?

紺野さん:なかったですね。夫の不貞行為が発覚してどんどん夫婦関係が悪くなりました。私も「障害児しか産めなかった」と自分を責めるようになり、この先、生活を共にするのは不可能だと思って。離婚に至りました。

それまでは、私が仕事に行くときは同居していた義理の母に子どもを任せていましたが、離婚が決まると難しくなりました。私の実家は遠く、両親に毎回子どもを預けるのは現実的ではない。私の職場や生活環境を変える必要が出てきたんです。

── デイサービスなどに子どもを預けて働くことは?

紺野さん:自分の子どもを安心して預けられる場所がありませんでした。当時の上司から「子どもを施設に入れることも考えて、このままこども病院で働いたら?」と言われましたが、わが子を施設に入れる選択肢は全くなく、どんな生活になっても子どもと一緒にいたかったんです。

長男が亡くなって離婚もして、さらに私は大好きだったこども病院を辞めざるを得ない。この先残された2人と共にどうやって生きていけばいいのか…。

「もう終わりだ…死のう」。子どもたちを連れて車で山奥に向かいました。山道に入り、最後に2人の顔を見ようと思って後ろを振り返ったら、愛聖が笑っていたんです。この顔を見て踏みとどまりました。子どもたちを守らないといけないと思いました。

「これ以上、怖いものはない」と母は動き出す

── お子さんの笑顔に救われたんですね。その後、重症児向けのデイサービスを運営することになりました。

紺野さん:以前から「安心して重症児を預けられる施設があれば」と、漠然と考えていました。長男の死、離婚と目まぐるしく環境が変わったタイミングで、改めて思ったんです。わが子は親や学校の先生、医療者など大人ばかりに囲まれて育ててしまった。子ども同士の居場所づくりをしたい、と。そこから実際に重症児向けのデイサービスをつくることを決めて動き出しました。12月にこども病院を退職して、翌年3月にオープンする予定で進めました。

── かなり早い展開ですが、起業や会社経営も初めてだったそうですね。

紺野さん:まったく知識も経験もなかったので、会社設立の本を読み漁り、ほかでデイサービスを立ち上げた方からもアドバイスを受けました。法人登記から銀行の融資、場所やスタッフの確保など…怒涛のような日々でした。当時は重症児のデイサービスが全国でも非常に少なかったので、「社会的に必要だ」と伝えても銀行にはなかなか理解してもらえなくて苦労しましたね。

離婚したとき、「ここまでどん底に堕ちたから、これ以上、怖いものはない」と勢いも手伝って起業に向けて走り出しましたが、途中で怖くなった時期はありました。「1000万も融資を受けたけど、私にできるのか」「本当に大丈夫なのか」って重圧に負けそうになりましたが、動き出している以上、進むのみだと。

その後、17年3月に無事にオープン。こども病院で知り合ったお母さんたちが利用してくれたり、口コミで広がったりしながら軌道に乗っていきました。もともと子どもを預けることに後ろめたさを感じる方もたくさんいましたが、わが子が楽しそうにしている表情をみて、お母さんたちも徐々に表情が柔らかくなって慣れていったような気がします。私自身も新しい光が見えた時間でした。

取材・文:松永怜 写真:紺野昌代