この記事をまとめると

■ダイハツの基点は1907年3月1日に開業した「発動機製造株式会社」だ

■発動機製造株式会社は吸入ガス発動機の製造などを手がけた

■その後に三輪自動車の製造などを経て1951年12月にダイハツ工業株式会社に社名変更した

ダイハツは明治40年創業の100年企業

 ダイハツと聞いて、あなたはどんなことが頭に浮かぶだろうか。直近では、6月に発売された新型「ムーヴ」がある。都内で行われた公道試乗会に参加したが、クルマの基本性能であるNVH(ノイズ:音、バイブレーション:振動、ハーシュネス:路面からの突き上げ)に対してとても丁寧な仕事をしていることを実感できた。

 ただし、ダイハツが新車を国内投入するのは3年ぶりだ。一連の型式不正問題によって、国から本社や工場への立入検査が入り、製造は停止に。販売店にはユーザーから不満や不安の声が殺到した。ダイハツブランドは地に落ちてしまった。

 新型「ムーヴ」を新たなスターティングポイントとして位置付け、ダイハツは企業として再生の道を歩み始めたばかりだ。

 そんなダイハツの基点は、いまから118年も前の明治40年(1907年)3月1日。官立大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の校長だった安永義章氏の発案による「発動機製造株式会社」である。安永氏は東京帝国大学(現在の東京大学)出身のテクノクラート(技術官僚)で、歴史の教科書でもおなじみである日本近代産業の基盤となった官営八幡製作所の機械科長などを務めた人物だ。

 安永氏は、日本の産業の工業化が欧米に対して大きく遅れをとっている状況で、日本の将来を考えて当時はまだ国産化が難しいとされていた内燃機関の独自開発を実行に移したというわけだ。財界からの投資を募って設立された発動機製造株式会社は、いまでいうならばベンチャー企業である。

「大阪にある発動機製造株式会社」でダイハツ

 最初の本社は、大阪駅北側約500メートルだった。最初に着手したのは6馬力の吸入ガス発動機、そのあとは馬力を50馬力まで引き上げたモデルも量産し、船舶用などで売上を一気に伸ばした。その後、第一次世界大戦での欧州向け軍需や国内鉄道用の機器などを経て、小型ディーゼルエンジンを皮切りに中型・大型へとディーゼルエンジン事業を拡大させていく。また、昭和初期には陸軍からの要請で四輪駆動式小型自動車や、自社での試作車として小型四輪トラックの研究開発も進めた。

 その後、昭和13年に三輪自動車の製造拠点として現在の本社工場である池田市に大規模な工場を構える。第二次世界大戦後、三輪自動車の製造を再開し、合わせてディーゼルエンジンの製造も政調を続けた。そして昭和26年(1951年)12月に、社名をダイハツ工業株式会社に変更した。それまでユーザーからは「大阪にある発動機製造株式会社」ということから「ダイハツ」と略称で呼ばれることが多く、商品名としてダイハツを活用することがあった。

 社名がダイハツとなってからは「ミゼット」など高度成長期での軽自動車のヒットを受けて、乗用車市場にも参入していく。

 そして昭和42年(1967年)11月9日、トヨタグループとの連携関係を結び、同グループでの軽自動車などスモールカーの生産を支えることになる。平成10年(1998年)8月には、ダイハツはトヨタの完全子会社化され両社の関係はさらに強いものになり、現在に至っている。

 以上、ダイハツ工業100年史をもとに、ダイハツの歴史を振り返ってみた。