【 日中国交正常化50年】隣国・中国とどう向き合っていくべきか? 答える人:西原春夫・元早稲田大学総長
11月に入ってからB29の偵察が始まり、11月24日にB29の大編隊による最初の本格的な空襲がありました。警戒警報が鳴ると消防署に駆けつけて待機し、出動命令が下ると消防車に乗って、それこそ爆弾や焼夷弾が落ちるのをかいくぐって火災現場に向かったのです。
─ 東京大空襲は45年3月10日。それ以前に空襲の経験をしたということですね。
西原 はい。米軍は都市よりも先に軍需工場を狙ったのです。消防署の隣には防空壕があり、私はいつもその出入り口あたりで、小学校以来の親しい友達と一緒に「ああ、B29が来た」と言って眺めていました。その友達とは配属された消防車が違いました。
ある空襲の日、私の消防車に先に出動命令が下ったので、私はその友達に「お先に行くよ」と言って消防車に向かって走って行ったのです。まさにその時、爆弾の落下音が鳴り響きました。爆弾の落ちる音は電車が走行中のガードの下で聞こえるような音でした。ガァァ! ダァァ! という轟音と共に、砂ボコりがブワッと舞い上がったので、すぐさま私は消防車の下に潜り込んで避難。それでも消防車には泥がザアーとかぶさってきました。
私はそのまま消防車に乗って出動し、各所で消火活動を行った後に無事、署へ帰ったのですが、驚いたのは、さっきの爆弾は防空壕の隣の自転車置き場に落下し、何と私共のいた防空壕の出入り口は完全に埋まってしまったのです。しかも私とともに出入り口にいた私の友達は土に埋もれ、幸運にも一命は取り留めましたが、大腿骨骨折の大怪我をしたというのです。
─ まさに生死を分ける体験をしたことになりますね。
西原 本当にその通りです。もし私の消防車への出動命令が30秒遅れていたら、私は瓦礫に埋もれて死んでいたかもしれません。またはもし爆弾の落下地点が10㍍ずれていたら、消防自動車に向かって走っていた私は爆弾の直撃を受けていたかもしれません。
─ 亡くなった人もいた?
西原 いいえ。幸い1人の死者も出ませんでした。友達が骨折しただけで済んだのです。1人も死ななかった。幸いその友達も骨折だけで済んだとも言える。それでも爆撃の威力をまざまざと感じました。
現場を見ると、爆弾の落ちた自転車置き場にはスリバチ型の大穴があき、そこにあった自転車は全て吹き飛んでいました。自転車で消防署に来ていた友達の自転車がどこを探してもないと言うのです。そこでみんなで探し回るとありました。
自転車は爆風で飛ばされて、何と20㍍先の家の屋根の上に乗っかっていたのです。ハンドルも直角に曲がっていました。私は戦場には行っていませんが、こういった戦争体験は直接しているのです。
通説でも疑問を抱く感覚 ─ 自ら体験したからこそ、戦争の悲惨さを身に染みて知っており、戦争は絶対に避けなくてはならないと思うのですね。
西原 ええ。私には6歳下の弟がいたのですが、彼は埼玉県のお寺に集団疎開しました。当時の話を聞いてみると、東京や浦和、大宮などが空襲を受けた夜など、南の空が真っ赤になっているのが見えたそうです。
子供たちはみんなお寺の外に出て、黙ってじっと赤く染まった南の空を見ていたと言っていました。もう自分の親がどうなっているかも分からない。疎開児の悲しみや恐ろしさは言葉にできませんね。
─ 戦争体験があったからこそ根付いた考えはありますか。
西原 先ほども申し上げましたが、戦争を経た愛国少年の心には、大人は結果として自分たちに真実を教えなかったという受け取り方をしました。ですから、大人は信用できないという感覚を持ちましたね。それから、みんなが正しいと思うことには必ずどこか疑わしいところがあると思わなければならないと。そんな観念ができましたね。
