レベルが低いと言われて久しい日本の審判だが、新型コロナの影響でVARの採用を開幕週限りで断念したJリーグの試合を見ていると、よく健闘しているように思う。逆境の中で何とか踏みとどまっているという印象だ。

 だが、その一方で、放映権を持つDAZNは毎週、「ジャッジリプレイ」なる検証番組を放送していて、審判は映像を通して毎週、厳しいチェックを受けている。見逃しや誤審が鮮明になるので、結果的に審判はさらし者になる場合がある。とはいえ、厳しい立場に置かれるほど審判のレベルは向上する。この手の検証を試合中はもとより、スポーツニュースの枠内でもずっと以前から実施してきた欧州を見れば、解りやすい。

 他方、この手の検証番組を見ていると、その上手い下手以上に、人間の目に限界があることを改めて思い知らされる。これまで主審と副審+予備審の肉眼によくぞ頼ってきたものだと逆に驚かされるほどだ。

 誤審や見逃しが起きる理由について探ろうとしたとき、気になるのは、見ているのに見逃すケースだ。問題のシーンを適切な場所から眺めていたにもかかわらず、適切なジャッジを下せないケースである。

 記憶に新しいのは2018年ロシアW杯、日本対コロンビア戦。前半開始早々、香川のシュートをコロンビアのDFサンチェスが、手を挙げて止めたシーンの判定だ。PKは当然としても一発レッドはいかがなものか。日本贔屓過ぎる判定と言わざるを得ない。香川のシュートが、ゴールの枠を捉えていなかった状況を加味すれば、せいぜいイエローが妥当になる。

 大会後、協会のHPに掲載されていた動画(先述のジャッジリプレイの前身)に出演していた元審判委員長の上川徹氏は「主審はいい位置で見ていましたから」と述べた。いい位置で見ていた主審の判断を尊重したいという主旨の見解だが、答えになっていないというか、説得力に欠けるコメントである。ちなみに、「私は逆サイドで見ていたのですが、その瞬間、ラッキーと思いましたね」とは、その時、上川氏の傍らに座っていた原博実Jリーグ副理事長のコメントだが、こちらも、検証番組であるにもかかわらず、日本代表ファン的な目線で語り、ジャッジという中立的な立場からの検証を避けていた。

 それはともかく、見ていたのに見逃すケース、見落とすケースはなぜ起きるのか。動体視力に乏しいからだと推察する。動いているものを捉える視力。サッカー等、動きの速いスポーツを撮影する、スチールカメラマンに求められている才能だ。優秀な審判ほど動体視力が高い。審判には瞬間の絵を切り取る力が問われているとは、独自の見解だ。

 ゴール裏という固定された位置で撮影に及ぶカメラマンに対し、主審は動体視力を、ピッチを往来しながら働かせなければならない。動きながらカメラのシャッターを切り続けるわけだ。カメラマン以上に優れていなければならない。

 もう一つは被写界深度だ。少しカメラに詳しい人ならおわかりいただけると思うが、ピントが合っている場所だ。iPhone等のカメラ機能に搭載されているポートレートモードを連想していただければ話は早い。手前なのか、真ん中なのか。後ろなのか。視線の方向は正しくても前後の関係を誤ると、脳裏にはぼやけた絵しか残らない。周囲からは、さも見ているように写るかもしれないが、実は本人は見えていないという典型的なパターンになる。

 動体視力と被写界深度の問題は、くり返すが、その道の専門家から聞いたわけではない、筆者の持論である。自信はあるけれど、たぶんそういう事ではないかという域に止まる話だ。しかし先日、それ以上にリアリティのある材料に偶然、出くわすことになった。

 それは「チコちゃんに叱られる」という人気番組で、「動いているタイヤのホイールが、止まって見えるのはなぜ」というお題の中で登場した、専門家の説明を聞いた瞬間だった。
 
 人間は視界の絵が0.2秒ごとに1度途切れるのだという。1秒間では5回。すなわち5コマの絵としてしか記憶されていない。見たものすべてが記憶されるわけではないーーという解説を聞いて、見逃しや誤審の理由、見ているようで見えていない原因は、これだと確信した。
 
 動体視力や被写界深度より説得力が何倍も高い話だった。目に飛び込んできたビジュアルすべてが脳裏に刻まれれば、確かに頭はパンクしてしまう。気絶して倒れてしまう可能性がある。
 
 90分間、すべてのビジュアルを正確に記憶している審判などいるはずがないのだ。ところが、サッカーの試合はそうした人間の限界にお構いなく流れる。そこですべてのジャッジをノーミスでこなした主審は表彰ものだ。人間の限界に挑戦している職業といっても言いすぎではない。そのジャッジに異は唱えても、糾弾したりする気にはなれない。見逃しや誤審を防ごうとすれば、もうこれは機材に頼るしか手はないのである。