【プロローグ】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

日本プロレス界の父――力道山に才能を見出されて当時最大の団体であった「日本プロレス」に入門、アマチュアレスリング出身プロレスラー第1号となった吉原功(よしはら・いさお)。大相撲出身者が大半を占めていた力道山門下生のなかで、華麗なレスリング技を駆使して日本ライトヘビー級チャンピオンとなった吉原は、引退後にフロント入りし、ビジネス面で手腕を発揮する。そして1966年10月、吉原は日本プロレスを退団すると、新団体「国際プロレス」を旗揚げした。

 力道山亡き後、日本のプロレス人気を二分していたのは、ジャイアント馬場の全日本プロレスと、アントニオ猪木の新日本プロレス。それらに対抗する「第3の勢力」となるべく、国際プロレスは設立された。

"怪力無双"の異名を取り、IWA世界ヘビー級王座を25回防衛したストロング小林。レスリング・グレコローマン最重量級代表として東京オリンピックに出場し、日本人で初めてIWA世界ヘビー級チャンピオンとなったサンダー杉山。ラグビー日本代表のロックとして活躍し、TBSの初回放送でルー・テーズのTWWA王座に挑戦したグレート草津。大相撲から転向した正統派ストロングファイター・ラッシャー木村......。彼ら"四天王"をはじめ、巧みな技と頭脳的戦略で名バイプレイヤーを演じたマイティ井上や寺西勇、ラグビー世界選抜の実績を引っ提げて鳴り物入りで入団した阿修羅・原など、個性豊かな選手たちが、昭和40年代から50年代にかけてコアなプロレスファンの人気を集めた。

 吉原は国際・全日本・新日本の3団体が潰し合うことなく共存共栄を図れるよう、日本プロレスリング協会の設立を画策した一方で、プロレス界を改革しようと新機軸を次々と打ち出し、馬場や猪木とは違った独自路線で挑んだ。

 文書による選手契約、選手それぞれの入場テーマ曲選定、専用バスでの移動......。今では当たり前となったこれらの手法は、国際プロレスが日本のプロレス団体として初めて導入したものだ。それまでアメリカ一辺倒だった外国人選手も、新たにヨーロッパルートを開拓し、フランスやイギリス、ドイツなどから大物レスラーを招聘することにも成功している。

 1973年には、IWA世界ヘビー級チャンピオンのストロング小林とラッシャー木村の同門タイトルマッチも実現。日本のトップレスラー同士が対戦したのは、1954年の力道山vs木村政彦戦以来、実に19年ぶりであり、プロレス史に残るビッグカードとなった。

 さらに金網デスマッチも、日本で初めて実施した。ストロング小林が新日本プロレスに移籍した後、エースとして君臨したラッシャー木村は"金網デスマッチの鬼"と呼ばれ、金網デスマッチは国際プロレスのドル箱企画となった。そうしたことはすべて、プロレスを心の底から愛し、時代を見通す先見の明があり、選手を大切にした吉原の功績といっていいだろう。

1969年8月、そんな国際プロレスに、アニマル浜口はボディビルで鍛え上げた肉体を武器に入門する。1ヵ月後に超スピードデビューを飾ると、リングの上では常に全力ファイトを展開し、メインイベンターへの階段を一気に昇りつめた。

 しかし、時代の波は大きくうねり、やがてプロレスブームに陰りが見え始める。テレビ放映は幾度かの変遷を経て打ち切られ、国際プロレスは1981年9月に消滅してしまう......。それでも、大きな相手にも決して屈せず、噛みついていく"国際魂"は消えなかった。

 ラッシャー木村、寺西勇、そしてアニマル浜口の3人は、「国際軍団」を結成。"巨大帝国"である新日本プロレスに立ち向かっていった。国民的ヒーロー、アントニオ猪木を敵に回してなりふり構わず、ときには悪の限りを尽くすヒールに徹する彼らは、猪木信者の憎悪の的になる。だが一方で、団体崩壊という悲惨な境遇にありながらも男の意地を貫き通す"はぐれ者たち"は、世間からの共感を呼び、多くの喝采が送られた。その抗争は1年以上にわたって繰り広げられ、今もプロレスファンの間では、国際プロレス伝説が熱く語り継がれている。

国際軍団の"切り込み隊長"として吠え続け、気合を込めて全力で国際プロレスの誇りを守り抜いたアニマル浜口は、引退後、吉原社長の教えを受け継ぎ、浜口道場を設立。娘・京子をオリンピック3大会連続出場、全日本選手権史上最多16回の優勝に導くとともに、道場生50名以上をプロレス界・格闘技界に送り出した。

 国際プロレス解散から35年――。自らも古希を迎えた2016年、"最後の国際プロレス戦士"アニマル浜口が、「人生最大の恩人」と慕う吉原功社長、付き人から義兄弟となったグレート草津、ふたりで乗り込んだ新日本のリングで『田園コロシアムこんばんは事件』を巻き起こした国際軍団大将・ラッシャー木村、そして日本のリングを震撼させたビル・ロビンソンやアンドレ・ザ・ジャイアント......などなど、国際プロレスという「故郷」でともに戦った先輩、仲間、ライバルたちの知られざる素顔を語り、国際プロレスの真髄に迫る。

「気合ダァ! 国際プロレスとはなんだ!?」

(つづく)


【人物紹介】
●アニマル浜口(あにまる・はまぐち)
本名・浜口平吾(はまぐち・へいご)。1947年8月31日生まれ、島根県出身。1969年、国際プロレス入門。新日本プロレス、ジャパンプロレス、全日本プロレスで活躍。元IWA世界タッグチャンピオン。1987年に引退するも、1990年・1994年復帰。1988年には35kg減量してボディビル大会に出場し、ミスター東京シニア部門で優勝。1988年、アニマル浜口トレーニングジム設立。1991年にはプロレスラー・総合格闘家養成のための浜口道場をジム内に開設。長女・京子をオリンピック3大会連続出場(アテネ大会&北京大会・銅メダル)、世界選手権を5回優勝、全日本選手権を16回優勝に導くとともに、50名を超すプロレスラー・総合格闘家を輩出。現在も30名近い道場生を指導する。著書に『世界最強親子、20年の軌跡〜娘とだって闘え! そして抱きしめろ!』(マガジンハウス)、『一瞬の喜びのために、人間は泣くんだ。』(かんき出版)、『気合ダァ! 二〇〇連発!!』(ぴあ)など多数。

●吉原功(よしはら・いさお)
1930年3月2日生まれ、岡山県出身。早稲田大学レスリング部で活躍し、"早大の星"と呼ばれる。東洋製鋼を経て、1953年に力道山に誘われて日本プロレスに入門。1960年、日本ライトヘビー級チャンピオンとなる。引退後、日本プロレスの取締役営業部長となるも、力道山の死後に経営を巡ってほかのフロントと対立し、退団。1966年、国際プロレスを設立。1981年、北海道・羅臼大会を最後に興行を停止し、解散。1984年、新日本プロレス顧問に就任するも、1985年、胃ガンのため死去。

宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya