特別だった巨人戦「できるだけ長く」 忘れぬ快音…中継が捉えた“珍事”「ライトでこけた」
元広島・西田氏の転機となった山本浩二監督就任
チャンスをつかんだ。元広島外野手の西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は、1989年シーズンからの山本浩二監督体制下で飛躍した。それまでは代打中心の起用だったのが、先発出場が増加。結果も出し、1990年はプロ8年目にして初めて開幕スタメンで起用された。そんな中、巨人戦では特別な“アクション”も起こしていたという。「当時はBS(デジタル)放送もなかったし、テレビは巨人戦が中心だったからね」と言って笑みをこぼした。
法大の先輩でもある山本監督の下で、西田氏はスタメンでも力を存分に発揮した。前年(1988年)秋季キャンプで「トラ(西田氏の愛称)! (スタメンの)チャンスをやるから頑張ってみろ!」とゲキを飛ばされてやる気になった。ハードな練習を積み重ね、課題だった守備力向上にも取り組んだ。開幕の阪神戦(4月8日、広島)こそ代打だったが、4月12日の大洋戦(横浜)では、偵察要員・白武佳久投手を経て“実質スタメン”といえる5番左翼で起用されると、3打数3安打と活躍した。
4月15日の巨人戦(東京ドーム)でも4打数3安打1打点。先発出場した2試合連続で猛打賞をマークし、以降はスタメン起用が中心となった。4月22日の中日戦(広島)では小野和幸投手から1号3ラン。チームは4月17日から29日まで10連勝を記録したが、その間、西田氏が欠場したのは1試合だけだった。
「浩二さんは状態のいい選手を使っていたんじゃないかな。あまり固定していなかったような気がする。でもね、不思議なんだけど、スタメンの時のことは、あまり覚えていないんですよねぇ。やっぱり集中していなかったのかな」と笑うが、結果を出したことでスタメンは増えていった。6番右翼で出場した9月9日の巨人戦(広島)では、0-0の9回裏に先発の斎藤雅樹投手からサヨナラアーチをかっ飛ばした。
10月1日の阪神戦(甲子園)では代打で本塁打。「それはよく覚えている。甲子園のバックスクリーンに打ったと思う。で、10万円をもらったんじゃなかったかな。やっぱりね、代打で打った方が印象に残っているんですよ」と話したが、その存在感は増すばかり。1989年、チームは貯金22ながら2位に終わったが、西田氏の成績は82試合で200打数71安打の打率.355、9本塁打、27打点。まさに自力で“新境地”を切り開いた。
巨人戦で忘れぬ“敬遠球”…TV中継が捉えた西田氏の転倒
翌年のプロ8年目は、4月7日の開幕・阪神戦(広島)に6番右翼で出場。初の開幕スタメンの座をつかんだ。中西清起投手に完封されて、0-9の大敗だったが3打数1安打。「あの試合はライトの守備で、フライを捕りにいって(一塁手の小早川毅彦内野手と)激突したんだよねぇ」と思わぬ事態にもなったが、大事に至らず、そんなアクシデントも乗り越えて、前年同様に西田氏の躍進は続いた。
特に巨人戦には力が入ったという。「あの当時のテレビ中継は巨人戦が中心だったからね。ジャイアンツとやるときは、できるだけ長くバッターボックスに入るとか、そういうことをやっていましたよ。テレビに映るためにね」と“特別”だったそうだ。「あの頃の人たちはみんな、やっていたんじゃないのかなぁ」と笑いながら振り返ったが、全国ネット中継に自然と気合も入っていたようだ。
「(広島の)金石(昭人投手)が、(巨人のウォーレン・)クロマティ(外野手)に敬遠のボールを打たれて、俺がライトでこけたっていうのもあったけどね」。1990年6月2日の巨人戦(東京ドーム)、1-1の9回裏2死二塁。植田幸弘捕手は立ち上がっていたが、金石が投じた初球の外角高めの“敬遠球”をクロマティが叩いて右越えサヨナラ打。その際、打球を追った西田氏は捕れずに転倒し、それもテレビ中継に……。もちろん、必死にプレーした証し。この先、4番打者を務めるなど、西田氏は一振り稼業時代とは違う姿をどんどん見せていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
