おやつは煮干し!

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 夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが俳優、歌手、タレント、芸人ら、第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第72回は、元サッカー日本代表の岡野雅行さん。「野人」の愛称に相応しいエピソードと、意外な素顔を知ることができます。

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煮干しと鶏そぼろが「野人」の原点

 いよいよ始まった、2026年北中米開催のサッカーW杯。日本代表はどんな闘いを見せてくれるのか、これからしばらくは日本中がサッカーモードに突入するだろう。

おやつは煮干し!

 日本代表は、8大会連続のW杯出場となる。サッカーは大好きなので、元代表選手のインタビューをいくつかのテーマで取り上げる機会があった。98年フランス大会の城彰二(50)と岡野雅行(53)、06年ドイツ大会&10年南アフリカ大会の中澤佑二(48)。

 そして今回の大会向けの企画では、98年の秋田豊(55)&山口素弘(57)、02年日韓大会の戸田和幸(48)に取材することができ、さらに日本代表歴がある久保竜彦(49)と、10年前になるが、同じく代表歴のある山瀬功治(44)にも話を聞いた。

 とくに多いのは「おふくろメシ」というテーマ。北海道生まれの城は、道産子のじゃがいもを使ったポテトサラダ、中澤は岩下の新生姜入りおにぎり3個、山瀬はりんごとチョコレート入りのカレーライス……。

 その中でも、卓越した脚力で俊足を飛ばし、長髪を振り乱して走るさまから「野人」の愛称で知られた岡野のエピソードを紹介したい。そのサッカー人生は奇跡的、抱腹絶倒の連続である。

 生まれたのは横浜。身内には有名人もいて、母・たみ子の父、つまり祖父は「昭和の三筆」として知られる文化功労者の手島右卿。母も書道をたしなむ、教育熱心な家系だった。野人からは想像できない家庭環境である。しかし、「好きなことをとことんやれ」が両親の教育方針で、幼少時から岡野のやることを全力でサポートしてくれた。

 ところで、何を食べて育ったのかというと、「子供の頃からおやつは煮干しだと思っていました……体のためにカルシウムの多い煮干しを食べさせたんでしょう」とは本人の弁。このことは『野人伝』(新潮社)でも2行だけ触れており、〈ぼくの体を作ってくれたのかもと、いまでは思います〉と述懐している。

 サッカーを始めたのは小学校1年。たまたま連れて行かれた地元のサッカーチームに入ることに。『サッカーをあきらめない』(KADOKAWA)によると、試合に加わり、〈たまたま、だった。自分の体に当たったボールがゴールに入らなければ、そこでやめていたかもしれない〉。

 それからはサッカー漬けの生活になる。「おふくろメシ」から。

〈小学校の頃は朝6時半に最寄りの駅に集合。当時は1日に8試合とかやるんです。でも、早朝じゃ食欲が出ない。ところが、鶏そぼろだと永遠に! 食べられる。母には『いい加減にやめなさい!』なんて怒られるほど食べていた。甘辛くて食べやすいし、パワーが出る感じでした。ウチのはよそのよりつゆだくじゃないかな〉

 この時、たみ子さんお手製の、鶏そぼろ弁当の写真を提供してくれた。野人のスピードの源は、煮干しと鶏そぼろだったのだ。

エピソード満載の選手生活

 高校は全寮制の島根・立正大学淞南高校(当時は淞南学園松江日大)で色々な意味で“徹底的に鍛えられた”が、帰郷した時は、必ず鶏そぼろを作ってもらったという。高校を出て日大、そして浦和レッズに入団。さらに日本代表になるまで、岡野には意外なことや失敗がついて回る。

 高校3年の島根の地区大会決勝。松江商業とPK戦になり、5人目のキッカー、岡野が蹴って外して負けた。日大のサッカー部では、最初は洗濯係だった。新入生の時に陸上の授業に出て、100メートルをバスケットシューズで走ったら10秒8が出た。

 スター選手候補が何人もいる中で、1年最後の天皇杯予選でなぜかスタメン入り。FWのケガで出番が回ってきたのだが、ここで5得点をあげる大活躍。2年で大学選抜に選ばれた。

 3年の天皇杯。試合のことを忘れて飲み歩き、翌日は二日酔いで試合に出場。岡野はこぼれ球をボレーで決めて先制点、後半にはさらに4人抜きのゴールを決めた。そんな足の速さがスカウトの目に留まってJリーグの6クラブから声がかかった。

 入団した浦和レッズのキャンプ地はオーストラリアだった。暑い季節と聞いていたので、空港にはタンクトップに短パン、サンダル履きで出かけたら、チームメイトは全員スーツ姿でビックリ。その時「お前、野人だな」と言われたことはサッカー人生の決定的な出来事だったという。

 信じられないエピソードは、94年のヴェルディ戦。相手GKと激突して肺気胸と診断された。半年はプレーできない、手術が必要と言われ、手術前にレントゲンを撮られたが、医師が首を傾げる。なんと肺が回復していたのだ。

 また選手の血液検査が行われた時のこと。「ひとつだけおかしな例がありました。人間よりも野生の動物に近いような数値の人がいた」と医師に言われたという。

おまえは秘密兵器だ

 そして88年フランスW杯出場を賭けた、日本代表のアジア最終予選。マレーシアのジョホールバルで行われたこの試合で、岡野にはずっと出番がなかった。試合に起用されない理由を岡田武史監督に一度だけ聞きにいったという。『サッカーをあきらめない』から引用する。

〈「おまえは秘密兵器だと思っている」
 岡田監督は言った。
「秘密兵器、ですか」
「おまえの脚は武器になる。だからこそ、知られて警戒されたくない。我慢してくれ」〉

 運命のイラン戦は2対2で後半終了。勝負は延長前後半各15分のVゴール方式に持ち込まれた。その時に岡田監督が岡野に「来い」と言っている。城と呂比須、FWの二人のカードを後半の交代枠で切った段階で、もう俺に出番はないはず……。岡野は「嘘だろう」と思った。

 岡野は延長前半からピッチを走り回った。中田英寿からのパスを外し、シュートを躊躇して中田にラストパスも。しかし、延長後半13分、中田のシュートをGKが弾き、スライディングしてこぼれた球に右足を伸ばしたらボールがネットに吸い込まれていった。

 これが日本サッカーの歴史を変えた一発、ジョホールバルの歓喜だ。岡野は自身を「雑草」と呼ぶ。この時、雑草に神風が吹いたのだろうか。そして、「ジョホールバルの歓喜」から帰った岡野を、たみ子さんは鶏そぼろでお祝いしてくれたそうだ。

峯田淳/コラムニスト

デイリー新潮編集部