そりゃ少子化が止まらないワケだ…「共働きで子ども2人は無理」令和の子育て世代が悲鳴を上げる"疲弊"の正体

■「共働き・子ども複数人は無理」の声
先日発表された最新の人口動態統計で合計特殊出生率は過去最低の1.14となった。
出生数も過去最少を更新し、日本社会がこれまで想定してきた少子化対策の前提は、いよいよ根元から問い直されている。高市総理もこれを「静かな有事」と呼び、少子化対策の強化を改めて言明した。
このほどの最新の出生率が発表される前から、子育て世帯からは、「やっぱり共働きしながら複数人の子を持つのは現実的に無理なのではないか?」といった声が近ごろSNS上で目立っていた。夫婦がともに働きながら、家計を支え、家事を回し、子どもと向き合い、学校や習い事に対応し、さらに親としての時間まで確保することの矛盾と疲弊を訴える声が各所で上がっていたのだ。
こうした声の高まりに赤沢経済産業大臣がX上で示したリアクションには、子育て世帯の女性たちから厳しい批判が殺到していた。
「家族で過ごす大切な時間もなげうって必死に働いてギリギリ1〜2人育てられるかという状況がおかしいと言っているのに、『もっと労働にフルコミットできる状況をつくりますよ』というのは返答になっていない」――と、赤沢大臣のポストは炎上状態となってしまっていた。
■現代的で合理的な家族モデル
夫婦二馬力で働き、ペアローンを組んで住宅を取得し、子どもを複数人育て、家事も育児も卒なくこなす。これは一見すると、現代的で合理的な家族モデルのように語られてきた。しかし実際には、かりにその夫婦がどちらも疲れ知らずのサイボーグのような人間であったとしてもなお成立困難だ。理由は単純で、一日は24時間しかないからだ。
もちろん夫婦二馬力のサイボーグカップルが、その高い経済力にモノを言わせて家事や育児をアウトソーシングし、家電やサービスによって家庭運営をオートメーション化していけば、時間的制約の問題は一部解決できる。掃除はロボットに任せ、食事は外注し、送迎や見守りも専門サービスに委ねる。そうすれば「一日が24時間しかないからすべてをこなせない」という問題はある程度は圧縮できるだろう。
■「何のために頑張っているのか」
しかし、そこで別の問いが立ち上がる。では、家族とは何なのか。親とは何なのか。働くとは何なのか。何のために頑張っているのか――と。
ここに共働き子育てモデルの哲学的なパラドックスがある。子どもに会う時間もなく、家族だけで過ごす時間もなく、朝から晩まで、場合によっては土日までも働き、労働だけで生活時間が埋め尽くされる。そうして、働いて得たお金で家事や育児を外部化する。だが、そこまでして維持される家庭とは何なのか。親が子どもと過ごす時間を削り、その削った時間で得た賃金によって、親子の時間の不足を埋める。この循環に対して「何のために生きているのか」という問いが出てくることは、まったく不自然ではない。
かれらは仕事を家庭に煩わされたくないと思っているわけではない。子どもと過ごす時間のすべてを犠牲にしてまで働き、その結果としてようやく生活が成り立つような暮らしそのものに苦しんでいるのである。ゆえにその苦しみの声に「もっとアウトソーシングしやすくしますよ」「家事代行やAI家事ロボットを使いやすくしますよ」「家庭のことに煩わされず仕事に全力投球できますよ」ではまるで答えになっていないのだ。
求められているのは、家庭の時間をさらに効率よく圧縮することではない。家庭の時間を家庭の時間として取り戻すことである。ところが現在の国や政府の政策的発想は、働くために家庭を外注し、外注するためにさらに働くという循環を前提にしている。子育て世帯が疲弊しているのは、まさにその循環そのものなのにだ。

■インフレで「二馬力でもカツカツ」
ともあれ、これまで全社会的に肯定され目指されてきた「女性も当たり前に働いて、働きながら子育てもやっていくべきだ」というロールモデルに対して、SNS上で主に女性側から「さすがに無理があるのでは?」という声が、今までにないほどはっきりと言明されるようになってきたのは注目に値する。共働き子持ち世帯の女性たちのこうした「本音」が可視化され、また大きな賛同を集めるようになったのは、ひとつの時代の潮目が変わったことを感じさせるからだ。
この気づきを加速させたのはおそらくインフレである。物価上昇、円安、住宅価格の高騰、教育費や生活費の重さによって、二馬力で働いてもなお「ふつうの暮らし」に届きにくいという感覚が広がった。自分たちの親や祖父母の時代には男性大黒柱の一馬力でも成立していたはずの生活が、いまでは二馬力でもカツカツだ。夫婦で馬車馬のごとく働き、働いたカネで家事育児を外注してまた働く。「何のために働いているのか?」という問いが出てくるのは当然である。
■あまりに無理がある制度設計
この馬鹿馬鹿しい循環構造がインフレによって強烈に可視化されたことで、多くの人が「やっぱり共働きしながら子育ては無理なのではないか」という結論に近づきつつある。少なくとも、夫婦二人がフルタイムで働き、住宅ローンを組み、子どもを複数人育て、家事も育児も親子の時間も十分に確保するというモデルは、制度設計としてあまりに無理がある。一日は24時間しかない。どれほどテクノロジーが進歩しても、親が子どもと向き合う時間そのものを増やすことはできない。家庭生活とは、効率化できる作業の集合ではないからである。
いずれ政策の議論は避けがたく「共働きモデルそのものの見直し」へと向かう。つまり「夫婦を限界ギリギリまで働かせながら同時に子どもを二人以上持たせることはできない」という現実と向き合うことになる。男女共同参画の30年弱はけっして無駄ではなかった。女性に教育と職業の選択肢を広げ、古い家族制度の息苦しさを相対化したという意味ではたしかな成果があったし、その壮大な社会実験の最終的な到達点が「やはり、誰かが家庭に多くの時間を割かなければ子育ては成立しないし少子化は加速する」という帰結だったとすれば、それはそれで後世の歴史に遺すべき教訓だからだ。

■これ以上労働時間を減らせない
「いやいや、男女ともに労働時間を減らし、子育てに割く時間を融通すればいいじゃないか」――といった意見もあるかもしれない。一見すると理があるようにも思える。
しかしながら、現代の夫婦はこれ以上労働時間を減らしてしまうと生活に困窮してしまうカツカツの状況にある。円安と物価上昇による実質的な賃金低下を相殺するには、労働時間を増やせども減らせることはまずありえない。
あるいは「女性の大黒柱モデルを拡充すればいい」という意見もある。だが男性が稼得役割の比重を下げて家事育児にコミットメントを割こうとすると、そもそも婚姻率が低下する。これでは少子化が加速してしまい本末転倒になる。結局フレキシブルなのは女性の労働時間で、減った女性の労働による稼得を穴埋めするようなインセンティブを男性の働きに付与するほかなくなる。
■「大黒柱モデル」は現実的なのか
しかしながら、今後ますます少子化が深刻化し、社会のインフラや経済活動に目に見える形でリスクが顕在化し、インフレで夫婦共働きの子育て世帯は疲弊していくなかで、「共働きから大黒柱モデルに戻そう」という世論が大きく高まったとしても、本当にそれが現実的に可能かどうかはべつの問題だ。
「私たちはもっと働きやすくするために稼ぎたいのではなく家族の時間を過ごしたいのだ」と赤沢大臣に詰め寄った女性たちの姿をみるかぎり、かつてのような男性大黒柱モデルへの回帰を、女性たちは意外なほど柔軟に受け入れるかもしれない。
実際、統計的には男女共同参画が推進されてきた30年弱、共働き世帯におけるフルタイム女性の割合はほとんど増えていない。もちろんすべての女性がそうだという話ではないが、働きながら出産し、育児し、家事し、なお家庭の中心的責任まで背負わされる暮らしに疲れ果てた女性にとって、「自分だけが労働市場で男性並みに競争しなくてもよい生活」は、ここまで生活状況が悪化した今では、もはや抑圧ではなく解放として映る可能性がある。
■共働きは男性の救済でもあった
しかし男性の立場は異なるだろう。男性から見れば、現在の社会は少子化ではあるものの、少なくとも「自分だけが稼得役割のリスクを負わなくてよい社会」でもある。妻も働くことが当然になったことで、男性だけが家計の全責任を背負い、失業や病気や収入低下の不安を一身に引き受ける重責からはある程度解放された。結婚しても、家庭を持っても、男性だけが大黒柱として燃え尽きる物語に戻らなくてよい。これは多くの男性にとっては救済でもあった。
その男性たちに向かって、社会がいまさら「やっぱり昔のように、あなたたちが大黒柱になってください」と言ったところで、「はいわかりました」と素直に応じるとは限らない。この30年弱、男性はしばしば古い性役割の担い手として批判され、同時に稼得責任だけは暗黙裡に期待されてきた。男らしさは疑われ、父権は否定され、しかし高収入であること、頼れること、家族を守れることだけは都合よく求められる。そのような扱いを受けてきた男性が、再び自己犠牲の物語に戻るかどうかは未知数である。

■なんのために人は働くのか
これは単に家計上の損得勘定ではない。男性にとって大黒柱になるとは、労働市場で勝ち続けることを人生の前提にされるということである。弱音を吐けず、収入を落とせず、家族の将来を背負い、なお家庭でも「よき夫」「よき父」であることを求められる。そこに十分な尊敬と安心が伴わなければ、男性がその役割に戻る動機は生まれない。したがって、今後「共働きモデルの見直し」の議論が起こったとして、女性を説得するよりも、男性を納得させるほうが政治的に難しくなる可能性がある。
女性に対しては「働きすぎなくてもよい」「家庭に時間を戻してもよい」という言葉が、少なくとも一部には救いとして届くだろう。しかし男性に対して「もう一度、大黒柱になってほしい」と言うためには、単なる郷愁や伝統論では足りない。男性の誇り、責任、報酬、社会的承認をどう再設計するのかという、はるかに重い課題が残る。
出生率1.14――それはこの30年弱にわたって、天文学的なコストを投じて行った壮大な社会実験の結果発表である。もう「答え」は出そろったと見ていい。ここから先に向き合わなければならないのは、「なんのために人は働くのか?」という本質的・哲学的な問いであり、同時に「夫婦の分業をなくした社会は持続可能だったのか?」という社会的・政治的な問いでもある。
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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)
