歴戦の零戦搭乗員が、ミッドウェー海戦で「味方に撃墜」されたワケ【太平洋戦争】

写真拡大 (全8枚)

私は戦争体験を持つ多くの元パイロットへインタビューを重ねてきたが、乗機が撃墜され、あるいは墜落したときの話ができる人は多くない。言うまでもなく、飛行機が墜ちることは、大抵の場合、死に直結するからだ。生還した人は、一種の臨死体験をしたとも言えるが、生死を分けたのは果たして何だったのか。ギリギリのところでの無意識の操縦操作で助かったと思われる例や、駆け付けた味方機に間一髪のところで助けられた例もあって、単に「運がよかった」の一言では片づけられないことのようである。ここではそんな、死の淵から生還した男たちのエピソードを、3回に分けて紹介する。今回はその2回目である。

【前編を読む】<「田中を殺した、殺した」…操縦を誤って、教員を「遠心力」で戦闘機から放り出した中尉の自責の念>

味方撃ちの例も

戦争が始まれば、戦闘で撃墜される飛行機も増えてくる。敵機や敵の対空砲火に撃墜される例が多いのはもちろんだが、なかには味方撃ちの例も少なからずあった。

空母蒼龍零戦隊分隊長だった藤田怡與藏(少佐/1917-2006。戦後・日本航空機長)は、昭和17(1942)年6月5日、日米機動部隊が激突、空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍を喪い、日本側の惨敗に終わった「ミッドウェー海戦」で、来襲する敵機を邀撃中に、味方の対空砲火に撃墜されている。

「ミッドウェー島攻撃に向かう第一次攻撃隊が発艦するのを上空から見送った直後、モールス信号の無線電信で敵機来襲の報を聞き、指示された方角に、低空を飛んでくる双発のマーチンB-26多数を発見。追いかけたものの間に合わず、するとまた敵編隊来襲の報が入ったのでそちらの方角に向かって……」

藤田の目に、約20機の敵艦上爆撃機(急降下爆撃)が、5機ずつの編隊を、4段の梯型に組んで飛んでくるのが見えた。周囲を見渡すと、これを攻撃できそうな位置にいる零戦は藤田機しかいない。

「私1機でこいつらに爆撃させないためにはどうしたらいいか考えました。そうだ、敵は斜め後ろ下がりの梯型で来てるんだから、それを、敵が一線に見える斜め上方から攻撃して弾幕をつくれば、相当数撃墜できるんじゃないかと。そう思いついて私は、機銃の発射レバーを握って遮二無二突っ込んでいった。一撃後、振り返ってみると、はたして2機が煙を吐いて編隊から脱落してゆく。同様に何度か攻撃を繰り返し、敵機が約半数になったところで味方の零戦隊も加わって、急降下爆撃に入った敵機は3機だけでした。これも私が針路を妨害したせいか、味方艦隊への命中弾は1発もなし。ホッとしましたね」

「空母の方向から飛んできた機銃弾が、私の機体に命中」

敵機の来襲は切れ目なく続く。藤田は、アメリカ軍搭乗員の勇敢さに内心、舌を巻いた。次に来たのは雷撃(魚雷攻撃)機。これも約20機が、先ほどの艦爆と同様の編隊を組んで飛んでいる。藤田はまたもや斜め上方から攻撃をかけ、駆け付けたほかの零戦とともにその大部分を撃墜した。雷撃に成功した敵機は3機のみ。だがこれらの魚雷も、味方空母の巧みな操艦で回避された。

「敵襲が一段落し、弾丸も撃ち尽くしたので着艦しました。艦橋で報告し、握り飯を待っていると、またもや敵襲。飛行甲板上に準備されていた零戦に急いで飛び乗りました。指示された方位に飛ぶと、敵はまたも雷撃機。先ほどと同じような編隊で、同様の攻撃をしているうちに残りは4機だけとなり、味方の零戦のほうが多くて空中接触の危険を感じたので、あとは仲間に任せようと、味方の母艦に腹(機体下面)を見せる形で旋回した。そこへ、赤城の方向から飛んできた機銃弾が、私の機体に命中したんです。

カン、という音が足元でしたと思ったら、白煙が出てきて、すぐにパッと火がつき操縦席に燃え広がった。胴体の燃料タンクに命中したんでしょう。炎除けに、絹のマフラーをひっぱり上げて顔を覆い、飛行帽の上に跳ね上げていた飛行眼鏡をかけ、不時着水しようと海面の場所を見定めているうちに、目の前にある7.7ミリ機銃の機銃弾倉に火がまわり、銃弾がパチパチ弾けだした。自分の機銃弾に当たったんじゃつまらないと思い、落下傘降下を決意して、ふたたび高度を上げて見ると、眼下に軽巡長良がいる。よし、ここで飛び降りようと、風防を開けバンドを外して身を乗り出したんですが、風圧で体が後ろに押しつけられて脱出できない。それで、両足を風防の上縁にかけ、のけぞって機体の横に転がり出ました」

落下傘が開いたと思った次の瞬間には海面に叩きつけられていた

脱出のとき、高度計をチラッと見ると200メートルを切っていた。落ちてゆく途中、ヒューヒューと風を切る音は聞こえるが、落下傘はヒョロヒョロ伸びるばかりで開かない。風をはらまないのだと直感した藤田は、傘体を両手でつかんで思い切り振ってみた。とたんに大きなショックを感じ、落下傘が開いたと思った次の瞬間には海面に叩きつけられていた。言葉にすると長いが、ほんの数秒の出来事である。

「海に落ちてから落下傘を外そうとしましたが、水中ではこんな単純な作業も手間取るもので、海中で体を回転させて、苦労してようやく外しました。海面に顔を出して周囲を見渡すと、頼みの長良は全速力で横を通り過ぎて行ってしまいました。波は高くないがうねりがあって、底に沈んだときは四方は海の壁みたいだし、頂上では周囲が一望にできるようで、その差10メートルはあるように感じました。うねりに持ち上げられたとき、水平線の彼方に三筋の黒煙が見える。その付近にわが艦隊がいるにちがいないと思い、その方向をめざして泳ぎはじめました」

藤田には知る由もなかったが、遠望した黒煙は、被弾した赤城、加賀、蒼龍から立ち上るものだった。藤田が味方対空砲火に撃墜され、落下傘降下した直後、零戦隊が低空の敵雷撃機に気を取られている隙に、上空から断雲を縫うように急降下してきた敵艦爆の投下した爆弾が、加賀、赤城、蒼龍に次々と命中したのだ。

「鱶に食われたら仕方ないわい」

海上を漂流している藤田には、味方艦隊にいま何が起きているのかわからない。ライフジャケットをつけているので浮力はあるが、泳いでいるうち、身につけているものが海水を含んで重くなってくる。飛行帽、手袋、飛行靴と順に脱ぎ捨て、しまいには靴下まで邪魔になって脱ぎ捨てた。鱶(サメ)が気になったが、鱶は自分よりも長いものは襲わないと言われていたので、首に巻いていたマフラーをほどいて腰に結んで垂らす。ところが泳いでいるうち、海水が胸元から入って寒くなってきた。我慢できなくなり、垂らしたマフラーを手繰り寄せて、首に巻きなおす。

「鱶に食われたら仕方ないわい」

と諦めることにした。

しばらく泳いたが、味方の艦隊は一向に近くならない。藤田はじたばたするのをやめ、海面に大の字になって、暖をとるため手と足の先だけを水面から出した。

「何もすることがないので、自分の手を見て手相を勝手に判断したり、瞑想にひたっていましたが、空腹と疲労のせいか眠くなってきました。こんなウトウトした状態で死ねたら楽だな、などと考えているうち、ほんとうに眠ってしまったようです。

墜落して4〜5時間も経ったかと思われる頃、なんだか周囲が騒がしくなったので目を覚ますと、なんと赤城が燃えながら約1000メートルのところにいる。まだスクリューが回っているのか、少しずつ動いていました。駆逐艦野分が赤城の警戒をしながら私のほうへ向かってくるので、これは助かったと思って泳いでいくと、野分の機銃が私を狙っている。首だけ出して泳いでいたら、遠目には日本人だかアメリカ人だか、見分けはつきませんからね。また味方に撃たれてはかなわんと思い、あわてて立ち泳ぎをしながら手旗信号で、『ワレソウリュウシカン』(われ『蒼龍』士官)とやったんです。やがて銃口が上がったので安心して泳ぎつき、舷側から垂らしてくれた縄梯子を上って、ようやく甲板にたどりつきました。気が緩んだためか、一時的に記憶喪失症のようになりました。だからいまでも、戦争中のことはどうしても思い出せないことが多いんです。――これは、歳のせいかもしれませんがね」

還るべき母艦を失い、戦場の海を漂流する不安との戦い

藤田と同じく空母蒼龍零戦隊の生き残りで、最後まで被弾せずに残った空母飛龍を最後に発艦し、燃料が尽きて不時着水、海面を4時間漂流の末、駆逐艦巻雲に救助された原田要(中尉/1916-2016。戦後、幼稚園経営)が私に語ったところによると、漂流中、同僚の高島武雄二飛曹が、持っていた拳銃で自らの頭を撃ち抜き、自決したという。還るべき母艦を失い、戦場の海を漂流する不安との戦いも、想像を絶するものがあったのだ。

この海戦で、日本側は主力空母4隻のすべてと飛行機約280機を失い、開戦以来初の大敗を喫した。米軍が日本側の通信を傍受し、暗号を解読してその動きを察知して待ち構えていたことは、よく知られる通りである。

ただし、ミッドウェー海戦での飛行機搭乗員の戦死者数を比べると、日本側121名(水上偵察機の11名を含む)に対し、アメリカ側は約210名と、倍近い差がある。この時点ではまだ、空中の戦いでは日本側の方が優勢だったのだ。

【こちらの記事もオススメ】<「特攻隊員」に選ばれた者と選ばれなかった者を分けた「残酷な基準」>

【もっと読む】「特攻隊員」に選ばれた者と選ばれなかった者を分けた「残酷な基準」