人類初の偉業

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 ついに人類がフルマラソンで2時間を切った。4月26日に英国で行われたロンドンマラソンで、ケニアのセバスチャン・サウェ(31)が1時間59分30秒でゴールしたのだ。しかも、2位でゴールしたエチオピアのユーミフ・ケジェルチャ(28)も1時間59分41秒で2時間切り。いわゆる「サブ2」を達成した。男子マラソンは2時間切りが当たり前となるのか、そして、日本人ランナーはどうなるのか――。元女子マラソン選手のスポーツジャーナリスト・増田明美さんに聞いた。

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――まずはフルマラソンで2時間を切ったことの感想をお聞かせください。

増田:いよいよ来たか!と思いました。人類がマラソンで2時間を切ることができるのか、できないのか、公認記録にならないトラックなどでチャレンジしたこともありましたが、オフィシャルのロンドンマラソンでついに2時間を切りました。アポロ11号が月面着陸を実現した時のような気持ちです。

人類初の偉業

――非公認記録としては、2019年にケニアのエリウド・キプチョゲ選手が複数のペースメーカーを配すなど特別な補助を受けたレースで1時間59分40秒をマークしたことがあったが、それをも上回った。

増田:本人の計り知れない努力に加え、技術革新も大記録を後押ししたと思います。

――今回、サウェ選手やケジェルチャ選手が履いていたのはアディダスのランニングシューズで、片足97グラム(27センチ)という。

増田:実は瀬古(利彦)さんや宗(茂、猛)兄弟、佐々木七恵さんと私がロサンゼルスオリンピックに出場した1980年代前半にも、100グラムくらいのシューズはあったんです。確かに軽かったんですけど、反発力がなくてペタペタするようなシューズでした。でも、今のシューズはソールも厚く、カーボンが入っていて反発力があるから、エネルギーもリターンされるし推進力もある。こうした技術革新もすごいと思います。

高地民族と長い脚、さらに…

――言うまでもないが、このシューズを履けば誰でも2時間が切れるわけではない。今や男子マラソンのベスト10のうち、ケニア勢が6人を占め、エチオピアが3人、残る1人がウガンダだ。ロンドンマラソンも2003年以降、ケニア人(19回)とエチオピア人(5回)の優勝が続いている。

増田:いずれも東アフリカの高地民族であり、ひざ下が振り子のように振れる長い脚、そしてハングリーさが違うと思います。

――日本人選手も心肺機能を鍛えるため、高地へトレーニングに行くとは聞くが……。

増田:マラソン指導の小出義雄監督は、高橋尚子さんと高地合宿に行って脚に血栓を患ってしまいました。やはり標高2000メートルとか3000メートルで生まれ育った人は心肺機能が高いです。そこで子どもの頃から走り回っていたわけですから、平地では酸素運搬能力も高くなるでしょうし、フルマラソンでは後半にスピードを上げることも可能だと思います。

――増田さんも実家のある千葉のみかん山を走り回って速くなったと聞く。

増田:そうなんですよ、高地ではないけれど生活環境の影響は大きいと思います。今回のサウェ選手はケニアのバルソンベ村という所のトウモロコシ農家に生まれ、電気もない家庭で育ち、おばあちゃん子だったそうですよ。

――それでハングリー精神が?

増田:それもあるでしょうね。彼の叔父さんのアブラハム・チェプキルウォクさんはウガンダに帰化した800メートルのオリンピック選手でした。この叔父さんからの誘いで、サウェ選手はケニアの“マラソンの聖地”と呼ばれるイテンに行くんです。

――イテン?

ケニアが強くなったわけ

増田:ケニア人のみならず国外のマラソンランナーもトレーニングに集まるところなんです。しかし、サウェ選手はこの場所では泣かず飛ばず……トップランナーが集まるところでは馴染めなかったのかもしれません。おばあちゃん子ですから、優しいんでしょうね。でも、彼はそこから別の練習拠点に移って頭角を現した。2024年のバレンシアマラソンで2時間2分05秒というその年の世界最速タイムを打ち立て、4度目のフルマラソンで2時間を切ったわけです。遅咲きではありますが、すり減っていませんから、まだまだ記録を打ち立てていくと思います。

――それにしても、ケニアはいつからマラソン大国になったのだろう。エチオピアは“裸足の王者”アベベ・ビキラ選手に代表されるように、古くからマラソンに強いイメージがあったが……。

増田:私は2000年に、ケニアの女子マラソン選手でシドニー五輪にも出場したテグラ・ロルーペさんのご自宅にお邪魔したことがあります。ナイロビから車で10時間ぐらい走ってようやくたどり着いたんですが、当時の世界記録保持者だった彼女ですらすべての親戚にマラソンを続けることを反対されていたんです。その辺りの資産は牛で、「女性は嫁に行けば牛がもらえるのに、いつまで走るんだ!」と言われる感じだったんですよ。でも、その後、マラソンに勝てば賞金が入り、そのお金を家族や親戚ばかりでなく地域にも還元するようになって、見方が変わってきました。ケニアではマラソンが“ビジネス”になったことで、強い選手がたくさん出てくるようになりましたね。

日本人に2時間切りは可能か

――今や活躍が目覚ましいケニアをはじめとするアフリカ勢に、日本人ランナーは立ち向かうことができるのだろうか。

増田:アフリカの高地は意外と涼しいので、アフリカ勢は暑さに弱いと言われています。逆に日本人ランナーは暑さに強いと言われてきました。暑い中でのレースなら勝ち目はあるかもしれませんが、最近は選手の健康管理が重視され、暑熱対策で暑い中での大会は控える傾向にありますね。ましてや日本人の2時間切りとなると、現在日本でトップの大迫傑選手でも2時間4分55秒ですから……ちょっとイメージが湧きません。とはいえ、男子マラソンはかつて瀬古さんが記録した日本記録2時間8分38秒よりも4分近く速くなっているわけです。いずれは日本人も2時間を切る可能性はあると考えたいです。

――世界で見るとマラソンの2時間切りは当たり前となっていくのだろうか。

増田:そうですね、今回の記録で風穴が開いたと思います。100メートルが10秒を切った後、次々と記録が更新されたように、マラソンも2時間切りが続くと思います。「あいつが切ったのだから俺も」という選手が出てくるでしょうね。ロンドンマラソンよりもベルリンマラソン(毎年9月の最終日曜日にドイツのベルリンで開催)のほうが記録も出やすい印象があるので、楽しみです。

デイリー新潮編集部