中東情勢の悪化が日本人の暮らしに影響を与えている。産経新聞特別記者の田村秀男さんは「1973年の第一次オイルショックでは、電力の使用規制によって多くの工場の操業が停止し、大騒ぎになった。それでも日本は油田探査・採掘の技術を積み重ねようとはしなかった」という――。

※本稿は、田村秀男『現場記者50年の証言 新書 現代日本経済史』(ワニブックス【PLUS】新書)より、一部を紹介する。

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■今も昔も中東情勢に振り回される日本

1973(昭和48)年10月6日、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的として、エジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河とゴラン高原正面に展開するイスラエル軍に対する攻撃を開始します。第四次中東戦争の勃発です。

これをきっかけに10月16日、OPEC(石油輸出国機構)加盟のペルシア湾岸6カ国が原油公示価格の引き上げを発表します。続く17日には、OAPEC(アラブ石油輸出機構)が、石油生産の段階的削減を決定しました。さらに、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(米国やオランダなど)への石油禁輸を10月20日以降実施することを決定します。イスラエルを支援しないように、石油を武器とする戦略を実行したことになります。

日本はイスラエル支持までいきませんが、反イスラエルではないという理由で供給削減対象にされます。石油の約99.7パーセントを海外からの輸入に頼り、その80パーセント以上を中東地域からの輸入が占めている日本にとって、石油価格引き上げと供給削減は大打撃となります。第一次オイルショックです。

■電力が足りず、工場を動かせない

石油によるエネルギー供給によって産業も国民生活も成り立っていたにもかかわらず、石油の輸入量が減らされる事態が起きるなど、それまで想像したことさえなかったのが日本でした。それが現実に起きてしまい、相当の衝撃が走りました。

石油価格が高騰し供給が減れば生産も減って物不足になるというので、いろいろなものが値上がりしていきます。店頭からトイレットペーパーや洗剤が消えるということが、実際に起きました。不安感で人々が買いだめに走り、値上がりしたら利益が大きくなると踏んだ流通が売り惜しみをした結果でした。騒ぎがひと段落したときに、流通倉庫から大量のトイレットペーパーが見つかったというオチまでありました。

ただし、石油価格の高騰と供給不足は、日本の産業を直撃することになります。石油不足により電力不足となり、工場の操業ができない事態にまでなっていきます。これが米国なら、すぐにレイオフ(労働者の一時解雇)になるところですが、そこまでいかないのは日本的だったと言えます。

■日立製作所「草むしりさせて賃金を払う」

電力の使用規制が始まり、オフィスの照明が制限されたりと、企業はあらゆる節約を迫られることになります。それくらいで間に合うはずもなく、たくさんの工場が操業一時停止に追い込まれ、大騒ぎになっていきました。

あのとき、工場の操業を一時停止すると発表していた日立製作所の役員に取材したことがあります。「レイオフをやるんですか」と質問すると、「工場の操業は停止するが、従業員は絶対に解雇しません。賃金もちゃんと払う」という返事でした。そのために、社員は出社させるという話でした。

「工場は動いていないのに仕事はあるのか」と重ねて質問すると、「工場の草むしりをしてもらう」との答えでした。工場は操業しないので売上がないにもかかわらず、草むしりで操業しているときと同じ給料を払う、というのです。これには、感心しました。ただ、日立市という日立製作所の城下町だけの話だったかもしれません。

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オイルショックの影響は強烈で、翌年、1974(昭和49)年4月入社の内定をもらっていたにもかかわらず取り消しになったり、状況の見通しが立つまで自宅待機を命じられる学生も多くいました。新入社員を雇えるような状況ではなかった、というわけです。

■唯一の救いは、給料も上がったこと

70年代半ばからインフレーション(インフレ)が進んでいたのですが、オイルショックが拍車をかけました。いろいろなものが、どんどん値上がりし、「狂乱物価」という言葉が生まれたほどです。日本経済は冷え込み、1974(昭和49)年の実質国内総生産(GDP)はマイナス0.2パーセントと、戦後初のマイナスを記録します。不況にもかかわらず物価が上がる、まさにスタグフレーションの状態でした。

ただ、賃金も上がりました。1974(昭和49)年の春闘では、記録的とも言われた大幅賃上げが実現しています。日本経済新聞社でもけっこうな賃上げがあって、さらにボーナスで会社との交渉について、会社側の提示を受けいれるかどうか所属部の労働組合員会議がありました。

私はかなり働いているつもりだったので、「もっと多くて当然だ。会社側にはもうひと押しすべきだ」と意見を述べました。そうしたら、先輩記者の何人かが「会社の業績も大変なのだから会社回答を受け入れるべきだ」と言い張るので、かなりもめました。

■労組と経営層が「一時休戦」

いつもは所属部の部長がキャップクラスの記者に対し、「これが最終回答だから、回答受け入れで部内をまとめろ」とひそかに指示を出し、受け入れの根回し工作をするのですが、私は空気を読まなかったのです。指示を受けた先輩記者は後輩記者たちを説得できないと出世できないとビクつくようなサラリーマンタイプで、必死でした。

でも、いつも早朝から深夜までかけずり回っている若手記者としては、そんなゴマスリに調子を合わせるつもりはありません。

産業界全体では、このころから労働組合が経営側の都合を配慮する、いわゆる「労使協調」の雰囲気が出来ていたし、財界との結びつきを重視する日経はその典型例だったのです。

■教訓が生きた第二次オイルショック

サウジアラビアに次いで世界2位の産油国だったイランで、モハンマド・パフラヴィー国王への不満が高まり、1978(昭和53)年1月に「イラン革命」が始まります。その混乱のなかで、イランからの石油輸入が一時ストップします。そしてOPEC(石油輸出国機構)が、石油需給逼ひっ迫を理由に大幅値上げを宣言することになります。

1979(昭和54)年1月16日になると、パフラヴィー国王が国外に退去し、イスラム教シーア派の宗教指導者、ルーホッラー・ホメイニ師が帰国してイラン革命を指導しました。そのホメイニは資源保護を理由に、原油の大幅減産を決定し、世界の石油需給はいっそう逼迫します。そして、OPECの値上げが続きます。

1980(昭和55)年には、イランに対してサダム・フセイン独裁下だったイラクが侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発します。イランの石油輸出はさらに不安定になり、OPECも値上げを続行します。石油価格高騰は、日本にも大きな影響を与えていきます。第二次オイルショックです。

企業の節電などが話題にはなりましたが、第一次オイルショックのときのような混乱はありませんでした。第一次ショックの教訓が生かされた、とも言えます。

石油を海外からの輸入に依存している日本は、海外での自主原油開発を目指します。それを受けて1967(昭和42)年に政府によって設立されたのが特殊法人「石油開発公団」です。1978年には石油国家備蓄も業務となり、名称も「石油公団」に変わります。

■日中で石油開発という一大プロジェクト

この石油公団が注目されたプロジェクトが、中国と組んだ渤海<ぼっかい>での石油開発でした。1972(昭和47)9月に現職の内閣総理大臣として田中角栄氏が初めて中国の北京を訪問します。人民大会堂で日中首脳会談を行い、日中共同声明に調印し、日中の国交正常化を実現させます。それから日中の協力で進められていたプロジェクトのなかに、渤海での石油開発もありました。

田中角栄 内閣総理大臣(第64代)(画像=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

渤海は遼東半島と山東半島によって包まれる中国領の内海です。ここの海底地下に相当量の石油が埋まっているというので、日中共同で掘るプロジェクトが生まれたのです。日中協力を象徴する大プロジェクトだということと、中東からの輸入に依存していた日本にとっては新しい輸入先を確保できる機会だというので、かなり期待を集めたプロジェクトでした。私たち新聞記者の間でも、大変な取材合戦が繰り広げられたものです。

渤海石油開発に関する日中の接触は、1978年6月から7月にかけての第一次石油公団訪中によって始まります。それから2年間で10回にわたる交渉が重ねられ、1980年5月29日に契約の調印が行われ、同年6月9日に契約発効となりました。

■日本は「宝の山」を逃してしまった

しかし、結論から言うと、この共同プロジェクトは失敗します。試掘してみたものの油層が細かく分断されており、商業生産には不適だというので、日本は撤退の羽目に陥り、巨額な赤字を出すことになりました。

ところが2007(平成19)年5月3日、中国最大の国営石油会社である中国石油天然気集団公司(CNPC)が、渤海で巨大油田を発見したと発表します。これを聞いて、私も驚きました。日本が失敗したところですからね。

それ以後も、次々に渤海で新しい油田が発見されています。2021(令和3)年10月にも、石油の地質資源量が1億トンを超えるという巨大油田が見つかりました。

要するに、日本がやっていたときは浅いところを掘っていたけれど、もっと深いところを掘ったら巨大油田があったわけです。つまり、日本の技術力が足りなかったということになります。

■戦前に大油田を掘り当てていたら…

日本の石油会社は、算出された石油を買うだけで、自ら探査して油田開発をした経験が乏しいので、探査・採掘に関する技術力がない。

田村秀男『現場記者50年の証言 新書 現代日本経済史』(ワニブックス【PLUS】新書)

戦前の石油各社の石油鉱業部門を一元化するために1951(昭和16)年に設立された半官半民の国策会社「帝国石油」(2006年〔平成18〕年に「国際石油開発」と合併して「国際石油開発帝石ホールディングス」に)の関係者に取材したことがあります。

戦前や戦中は中国でも油田の探査・試掘をしたのですが、失敗が多かった。中国東北部黒竜江省の大慶油田は、50年代末に発見された100キロメートル四方に広がる中国屈指の大油田です。戦前、帝石はそこも掘ってみたのですが、深くは掘らなかったためにダメだった、もし当てていたら、日本の運命は変わっていたかもしれないと聞かされたものです。

■いつまで「物乞い外交」を続けるのか

中東でもインドネシア周辺でも、すでに採掘されている油田の権利を買うことで、石油を手に入れています。そういう歴史ですから、技術がない。

第一次オイルショック、第二次オイルショックを経験しても、油田の探査・採掘の技術を積み重ねようという方向に、日本は向かわない。「売ってください」と中東諸国に頼んで歩くような「物乞い外交」の発想から抜けられないでいるのが日本です。

一方で1957(昭和32)年にサウジアラビアとクウェートからペルシア湾の海底油田の採掘利権を獲得して設立されたアラビア石油のような例もあります。ただ、あれは幸運だったのです。というのも、あの地域は掘れば、わりと簡単に石油が出てくる。そんな有望鉱区ですから、欧米の巨大石油資本も狙っていたのですが、傑出した行動力を持つ山下太郎さんという実業家がいて、サウジアラビア王族に食い込むことができたためだと思います。

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田村 秀男(たむら・ひでお)
産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員
1946年、高知県生まれ。1970年、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、日本経済新聞社に入社。ワシントン特派員、経済部次長・編集委員、米アジア財団(サンフランシスコ)上級フェロー、香港支局長、東京本社編集委員、日本経済研究センター欧米研究会座長(兼任)を経て、2006年、産経新聞社に移籍、現在に至る。おもな著書に『日経新聞の真実』(光文社新書)、、『人民元・ドル・円』(岩波新書)、、『経済で読む「日・米・中」関係』(扶桑社新書)、『日本再興』(ワニブックス)、『日本経済は誰のものなのか?』(共著・扶桑社)、『経済と安全保障』(共著・育鵬社)、『日本経済は再生できるか』(ワニブックス【PLUS】新書)、『中国経済崩壊、そして日本は甦る』『米中経済消耗戦争』(ともにワニ・プラス)などがある。
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(産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員 田村 秀男)