「酒と人生」連載第3回目は若林英司さんにうかがった

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 日々入れ替わる客と料理に向き合いながら、忘れられない一杯を出し続ける名ソムリエ・若林英司さんの仕事論を聞く。後編では、客との距離感、信頼の築き方をうかがった。【前後編の後編。前編から読む

【写真を見る】日本が誇るスーパーソムリエ・若林英司さん テイスティング前に絶対してはいけないこととは…?

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 飲兵衛生活40余年になるが、まだ、わからないことがある。そのひとつが、いまさらながらだけれど、酒の味だ。なぜバーで飲む1杯の水割りが格別にうまいのか。この問いに対する明快な答えが、まだ見つかっていない。

 同じ銘柄、同じ熟成年数の酒を、同じ氷を入れたグラスに注ぎ、同じミネラルウォーターを足して混ぜたのに、作り手が違うと味が違う。その不思議。おもしろいよねえ、と繰り返し感想を述べてきたけれど、これという答えが見つからないまま、今に至っている。

 しかし今回、若林英司さんの話を聞くうちに、供する人と飲む人の間に生まれる信頼関係が酒の味に大きく影響していることに、遅まきながら、気が付いた。
前編でも触れたが、パリの「タイユバン」でシェフソムリエとして経験を積んでいた若林さんは、同じ銘柄、同じビンテージのワインであっても、より状態のいい飲み頃のボトルを確保し、担当する顧客に供することで、客の信頼を獲得してきた。つまり、同じ銘柄、同じビンテージであっても、厳密にいえば微妙な差異のあるワインを供してきた。これは、裏技と呼べるものかもしれない。

 それに加えて若林さんは、アラカルトで注文する料理にどんなワインを合わせるかということを客との会話の中に探り、確かめ、客と自分の間に、互いの経験と嗜好を認め合うような関係を築き上げてきた。その信頼によって、あの店で食事をするなら、ソムリエはムッシュ若林に限ると、多くの口うるさい食通たちに思わせてきたのだ。
つまり、酒は、酒そのものが持っている味はもとより、それを供する人という、"別の味"をのせて客に届けられている。バーで飲むウイスキーの水割りが格別にうまい理由のひとつはこれかもしれない。

あるバーテンダーの粋な「ひとさじ」

 そこで思い出したことがある。30年近く前の話だ。銀座の古いバーに、ベテランのバーテンダーを訪ねた。吉田貢さん。東京会館やパレスホテルといった、トップバーテンダーの登竜門であったバーで修業を積んだ後に、銀座にある実兄の店を継いでいた。当時、60代半ばであったか。

 サントリー発行の『ウイスキーヴォイス』という雑誌の取材だった。テーマは水割り。

「水割り? やっかいな題材だなあ」

 太い声でひとことつぶやき、ニコリと笑った。私はカウンターで固唾をのんで吉田さんの所作に見入った。

 ウイスキーの分量は多めだ。水を注ぎバースプーンで軽く混ぜ、完成かと思ったところで吉田さんは、小匙1杯分くらいだろうか、ベースと同じウイスキーを垂らしてから、差し出した。

 え? なんで足したの? 初めて見たな……。私の顔にそう書いてあったのだろう。

「これは、サービスですよ」

 吉田さんはまた、優しい笑顔を見せた。

 私はとても嬉しくなった。同じ銀座の「クール」でも大阪の「吉田バー」でもそうだったが、古い店では、ベースとなる酒の量が多い。バーで飲む酒は決して安くないが、その分、量もしっかり入っているものと理解してきたから、吉田さんもきっと、少しばかり分量を増やして客を満足させるのだろう……。

 まずは、そんなふうに考えた。さらに言えば、これはサービスとおどける配慮によって、緊張の極みにいた私の気持ちを一瞬のうちにほぐしてしまった。

 これもまた、酒を供する人と飲む人の間の信頼関係を物語る。ほんの一言と笑顔によってできあがった信頼が、酒をうまくするのである。

テイスティング前に絶対にしてはいけないこと

 しかし、このような信頼関係は、短い言葉のやり取りや表情だけで醸成されるものだろうか。身振り手振りや軽妙な会話で客をもてなす接客術に長けた人はいる。けれど、いくらスムーズな意思疎通ができたとしても、すぐに信頼が生まれるかどうか。信頼と呼べる何かが生まれるまでには、もう少し深い要素が関係しているような気がする。信頼を醸成する何か、である。

 若林さんは、私のこんな疑問に、ていねいにアプローチしてくれた。

「今は、ネットで調べれば何でも出てくる時代ですよね。だから、すぐに調べたくなる。それが人情です。でも僕は若い人たちに、テイスティングする前に絶対にネット検索するなと言っている。たとえば、あるワインの原料のぶどうがシャルドネだとして、それを先に知ってしまうと、テイスティングしたときにシャルドネについてのコメントをしてしまうんです。人間って、そうなんです。でも、それは絶対にダメです。自分がこのワインのどういうところをいいなと思ったか、それを探し出すことが大事です。なぜ、いいと思ったのか。言い換えれば、このワインのいいところはどこなのか。自分の感じ方をはっきり自分でもったとき、じゃ、なんでそう思ったのだろう、という次の段階に入ります。ここからはロジックが必要になる。たとえばあるワインの繊細さや軽やかさがいいなと思ったとします。では次に考えるべきことは、この繊細さや軽さはどこから来るの? ということ。ぶどう品種なのか、畑が冷涼地にあるのか温暖な土地にあるのか、それともビンテージなのか。つまり、繊細さや軽さの裏付けですが、それを自分で理解できたときにはじめて、そのワインが自分のものになる。これは、日本酒でもウイスキーでも同じです」

 ゼロベースで味わってみて、素直に見つけたその酒の良さを単に語るだけでなく、なぜそうなるかまで理解し、咀嚼して顧客と会話するとき、ソムリエのちょっとした一言は、表層的な同意のレベルを超えて、客に信頼感をもたらす。

 ざっくばらんに過ぎる言い方をすると、
「これ、うまいでしょ?」
 という気持ちの裏側に、ちゃんと理屈があるのだ。では、その論理をより確かなものにするものとは何か。若林さんは、地道なテイスティングだという。

「このワインの繊細さがいい。繊細さを裏付けるものはコレだ。そこまでわかったら、今度は、どんな料理を合わせて、どういう人に飲んでもらったらいいのか、というところまで突き詰めていく。そこで出てきた答えをひとつひとつ整理しておくことが大事なんです。僕がおいしいと思うのと若い子たちが好きなワインは違う。人それぞれでいい。自分がいいと思い、自分も楽しんでいないと、お客さんには伝わらない。また、自分が楽しんでいれば自然に笑顔になるし、緊張も解けて、いいサービスができる。だから自分を大事にしてほしい。自分がいいと思ったワインが、どんな料理と合うのか。それも実際にやってみる。その積み重ねですよ」

ペアリングのロジックは徹底した経験から

 若林さん自身、自分の舌で確かめることによって、ワインと食材との相性を、徹底して探求したという。

「何種類もワインを並べて、たとえばレモンを一滴ずつ舐めてからテイスティングをするんです。レモンの酸がどのワインに合うか。そして、合うなら、なぜ合うのか。レモンの酸と、ワインの酸が、どうつながるのか。それを確かめる。生クリーム、バターなどでもやりましたね。これをやると、提供する料理に使っている乳製品から推測して、このワインならいけるだろうという、自分なりの答えが出るようになる。この乳製品とこの赤ワインは合うとか、合わないとか、なぜわかるかという説明はできない。それは、やってみたことがあるからだ、としか言えません。しかし、お客様を説得するには、センスだけでは無理なんですよ。裏付けになるロジックが必要だし、そのロジックも自分の舌で確かめる経験に根差していないといけない」

 若林さんの語り口は自信に満ちているが、客の意見に耳を傾けることも忘れないという。

「うちでイセエビの料理を出しています。エビの頭の殻の内側にエビ味噌を敷く、日本料理の調理法を参考にした料理です。これに、どんなワインを合わせるか。普通にペアリングを考えれば、シャンパーニュかロゼシャンパーニュでしょう。でも、あるとき、赤ワインを合わせたいというお客様がいらっしゃった。酒質の強いワインですかと訊くと、そうだとおっしゃる。それでイタリアワインをお出ししたら、こういうのなんだよねと。その方の表情を見ていれば、そのペアリングがおいしいことはわかります。なるほど、赤ワインも合うのだなと、こちらも気づく。そういうことがあるから、自分がこれと思うことだけにこだわらず、お客様のセンスや考えを謙虚に受け止めることも大事なんですね」

 若林さんと話をしていると、「エスキス」の客となって料理とワイン、そしてペアリングを楽しみたくなる。

 若林さんは、興味津々な私の気分を察したのか、ペアリングについて、ちょっとおもしろい話を聞かせてくれた。

「生ガキに何を合わせるか。白ワインのきりっとしたやつ、最初はおいしいです。でも、カキも10個、20個とたくさん食べていくと、状況は変わります。カキ独特のヨード香に、シャブリを合わせるとシャブリがカキを生臭く感じさせることがある。そんなとき、あらびきソーセージをつまむと油分が入って口の中のヨード香が取れる。そうすると、今度は赤ワインが欲しくなって、ボジョレーヌーボーの冷えたのを飲むと、うまい。これは実体験です。でも考えてみたら、カキにベーコンを巻いて食べたりするわけで、理にかなっているんですよね。まあ、上質の生カキをひとつふたつ食べるなら、スコットランドのアイラ島産のモルトウイスキーがいいと思いますけどね」

 若林さんは、ワインだけでなく、日本酒やウイスキーの場合も、提供する酒には、それを売る人の心、その人がやってきたことが映ると考えている。つまり、若林さんの薦める1杯のワインには、この世界に入ってから40余年の間に積んできた、彼自身の経験、知識、そして思いが映っているのだ。

 1杯の水割りも、バーで飲むと格別な味がする。そして、1杯のワインも、信頼するソムリエが薦めるものを飲むとき、未知のおいしさに導いてくれる。酒を供する人が変われば味も異なる不思議さに、長年、答えがでなかったけれど、若林さんの話を聞くことで、考え方が大きく変わった。

 同じはずの味が人によって変わるというよりも、酒を供する人と飲む人の出会いの数だけ、酒のうまさがあるのだ。

 そんなことを考えていたら、また今夜も、新しい出会いを求めて夜の巷を歩きたくなってきた。

(了。前編から読む)

【プロフィール】
若林英司(わかばやし・えいじ)/1964年長野県生まれ。エスキス総支配人兼ソムリエ。1995年より東京・恵比寿の「タイユバン・ロブション」シェフ・ソムリエ、2003年より「レストラン タテル ヨシノ」の総支配人を務める。2012年から銀座、エスキス勤務。エグゼクティブシェフ、リオネル・ベカの料理をペアリングで華やかに盛り上げる。2023年「ゴ・エ・ミヨ2023」ベストソムリエ賞、2024年「ミシュランガイド東京2025」ソムリエアワード受賞。テレビ等でも活躍し、ペアリングの醍醐味を伝える。

取材・文 大竹聡(おおたけ・さとし)/1963年東京都生まれ。出版社、広告会社、編集プロダクション勤務などを経てフリーライターに。酒好きに絶大な人気を誇った伝説のミニコミ誌「酒とつまみ」創刊編集長。『中央線で行く 東京横断ホッピーマラソン』『下町酒場ぶらりぶらり』『愛と追憶のレモンサワー』『五〇年酒場へ行こう』『酒場とコロナ』など著書多数。マネーポストWEBにて「昼酒御免!」が好評連載中。