「ない、ない、私の親指がない!」――早朝のスタジオに響いた絶叫。退会トラブルが招いたのは、講師の人生を一変させる凶行だった。

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 再接合は成功したものの、指は思うように動かない。元生徒の歪んだ執着は、なぜ“切断”という極端な暴力へと暴走したのか――。平成28年、東京で起きた事件の発端を追う。なおプライバシー保護の観点から本稿の登場人物はすべて仮名である。(全2回の1回目/続きを読む)


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「女講師の指を切断した」

「バレエ教室の女講師の指を切断した。救急車を手配してほしい」

 こんな110番通報が早朝にかかってきた。管轄の警察署員が駆け付けると、現場のバレエスタジオで講師の木村里美さん(当時24)が右手の親指を付け根から切断されて倒れていた。

 犯人は元レッスン生の高橋敏弘(同41)。「自分がやった」と認めたため、傷害容疑で現行犯逮捕した。

 里美さんは病院に救急搬送され、11時間に及ぶ手術で接合に成功したが、自分の意思で指を曲げることはできなくなってしまった。ピアニストとしても全国大会で最優秀賞を取るほどの腕前だった里美さんにとって、あまりにも痛々しい障害が残った。

 2人に何があったのか。話は事件の1年前にさかのぼる。

困ったレッスン生

 里美さんが勤めていたバレエ教室では年2回の発表会があり、それぞれの講師が担当する演目にレッスン生が申し込む形を取っていたが、里美さんが担当する『ドン・キホーテ』に申し込んできた7人のうちの1人が高橋だった。

 だが、高橋は「足をもっと上げて」と指導されても、「それは何センチぐらいまで上げればよいか」まで説明しないと理解できないタイプだった。しかも、レッスンの一部始終を勝手に動画撮影し、「それは他の練習生の迷惑になりますからやめてください」と言っても聞く耳を持たなかった。はっきり言って、困ったレッスン生だったのである。

 発表会まであと1カ月に迫った頃、里美さんは希望者を集めて補講をしたことがあった。ところが、そのことを高橋が聞いていなかったため、「自分だけ直接連絡を受けていないのはどういうことなのか?」と激しく詰め寄った。

 里美さんは「伝え漏れだとすれば、申し訳なかったです」と謝罪したが、その日は普段はやらない撮影チェックをしていたことを知り、高橋は再び抗議。うんざりした里美さんに「申し訳ありませんでした!」と吐き捨てるように言われ、人知れず恨みを抱くようになった。

 発表会が終わった後、高橋は里美さんをつかまえて、しつこく詰め寄った。

「何かオレに言うことがあるんじゃないか?」

「退会してもらえないでしょうか?」

「もういい加減にしてくださいよ」

「いい加減にしろ、とはどういうことなんだ!」

 高橋は里美さんを呼び捨てにし、物が揺れ落ちるほど机をたたいて激高した。その様子を見て他のレッスン生が怯え、レッスンが中断する事態にまでなったので、オーナーが高橋を事務所に呼んで問いただした。

「なるほど、それは講師の言い方も悪かったかもしれませんが、講師を呼び捨てにしたり、講義が中断するほどの騒ぎを起こしただけでも十分、入会規約に違反しています。あなたを教室に残すなら、退会すると言っているレッスン生もいる。ここはあなたが退会してもらえないでしょうか?」

 高橋は「分かりました」と了承したが、それは泥沼の揉めごとの始まりにすぎなかった。

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「ない、ない、私の親指がない!」

 バレエ講師を襲った悲劇はこれだけで終わらなかった⋯⋯

「金づちでたたくと簡単に切れた」事件のせいで教室は閉鎖に⋯元教え子(41)に指を切断されたバレエ講師を襲った『さらなる不幸』(平成28年の事件)〉へ続く

(諸岡 宏樹)