2017年、下北沢の自宅で大好きな猫と(撮影=中嶌英雄)

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“唯一無二”“奇跡”……そんな冠をつけられたピアニスト、フジコ・ヘミングさんが亡くなったのは2024年4月21日だった。彼女が好んで演奏したリストのピアノ曲『ラ・カンパネラ』は、フジコさんの代名詞にもなり、これまでクラシックに馴染みのなかった人たちをも魅了した。

 三回忌を迎える今、フジコさんと交流があった人たちが語るエピソードで、知られざる“素顔”を振り返っていきたい。

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「ぶっきらぼうに見えるけど、すごく優しくて気遣いの人でしたね」
 
 こう語るのは、長年フジコさんのコンサートで写真撮影を担当したカメラマンの中嶌英雄さん。彼女との出会いは、約20年前に遡る。

2017年、下北沢の自宅で大好きな猫と(撮影=中嶌英雄)

「知り合いのプロモーターから、来日するヨーロッパのオーケストラの写真を撮って欲しいというオファーがあった。その現場で、ゲスト出演者だったフジコさんと出会ったんです」(中嶌さん、以下同)

 1999年にNHKで放送されたドキュメンタリー番組『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』で一躍有名になり、発売されたアルバム『奇蹟のカンパネラ』が大ヒットした後のタイミングだった。

「フジコさんに“撮ってもいいですか?”と聞いたら“いいわよ”と。ちょうどカメラがフィルムからデジタルに移行していた時期。撮影データをその場でパソコンに移して、彼女に見せました」

 その写真をよほど気に入ったのか、その場で「明日も来るんでしょ」と尋ねてきたという。

「今日1日だけの契約ですよ、と答えたんですが、“明日も来なさい”と。彼女は基本的に写真を撮られるのが嫌いだったから、気に入られたってほどではないと思いますけど……」

 と、中嶌さんは謙遜する。

「彼女、首周りが少しタプタプしていてね、そこを撮られるのが嫌だったと思う。僕はデータをレタッチするのが嫌いだから、首周りを隠すように撮ったんですよ。本人からすると、そういう撮り方なら許しちゃおうかな……という気持ちがあったかもしれないですね」

 以来、彼女のほとんどのコンサートで「撮影OKカメラマン」となった中嶌さん。だが、基本的には「撮影嫌い」のフジコさんを、どのように撮ったのだろうか?

「逆に、すごくやりやすい人でした。リハーサルの時、あの人はピアノの上に時計だのタオルだのって、めちゃくちゃ色んなものを置くんですよ。でも、僕がカメラを持って近付くと、スッとそれらの物をどかしてくれる。何も言わなくても絵作りに協力してくれるんですよね」

 撮影にはとても邪魔だ。とはいえアーティスト、フジコ・ヘミングの長い習慣だろう。

「だから、僕からそれを動かしてください、なんてとても言えなかったのだけど……フジコさん、優しいな、すごく気を遣う人なんだなって思いました」

 そんな優しい彼女の忘れられないエピソードを、中嶌さんは語ってくれた。

「出会ってまだ2〜3回目くらいかな。東京・池袋の芸術劇場でコンサートが終わって、本人を送り出すためハイヤーに乗せた。そうしたら“写真屋さん、あんたも一緒に乗っていきなさいよ”ってね」

 当時、フジコさんの住まいは東京・下北沢にあった。元「青年座の稽古場」をフジコさんの母親が買い取り、日本にいる時はフジコさんもそこに滞在していた。中嶌さんが自宅近くに住んでいることを知っていた彼女は、「同じ方向だから一緒に帰ろう」と誘ってくれたのだ。

「“どうせ近いんだから、乗っていけば”という感覚。まだ会ったばかりの“写真屋”なんかにもそうやって接してくれた。ありがたかったけど、僕は車で来ていたからお礼を言って断ったけどね(笑)。気難しく見えて、一回気持ちを許すとその人に対してすごく優しい人でした」

 優しく、そして「ものすごく乙女」だったと中嶌さんは振り返る。

「フジコさんはすごく惚れっぽい。そんな彼女が最後まで大好きだったのが、スロヴァキア国立放送交響楽団の指揮者としても活躍したマリオ・コシック。何回も共演していて、フジコさんの日本公演の時には“指揮者が彼以外では弾かない”というくらいのお気に入りでした。彼の実家に遊びに行く機会があった時にはずっと浮かれちゃって大変でしたね(笑)」

 彼の日本滞在時には、下北沢のフジコさんの自宅に泊めるほどの仲だったという。ほかにも「乙女」なエピソードが。

「たまたまフジコさんの自宅前を通ったら、お客さんが来るタイミングだったみたいで、前髪を上げてポンパドールにした彼女が外を掃除していた。いつも同じような服を着ていた彼女にはものすごく珍しいヘアスタイルだったから、“その髪型いいですね”と声をかけたんです」

 すると――。

「それから1か月くらい、ずっとそれ。褒められて嬉しかったのだと思うけど、会うたびにポンパドールにしていた。もうそろそろいいんじゃない?なんて思ったけど、そうとも言えないし……(笑)。そんな少女のようなところがありましたね」

 天才ピアニストの可愛らしい一面。ポンパドールのフジコさんはきっと「キュートな乙女」の顔をしていたことだろう。

ホームレスに間違われて

 中嶌さんとも知り合いであり、フジコさんと生前交流があった編集者・Mさんも彼女の一面を知る一人だ。彼女のコンサートを取材・インタビューし、その後、パリのアパルトマンにも遊びに行く仲だった。

「2010年、フジコさんがパリに滞在していたタイミングで僕もたまたま行ったんです。フジコさんの取材前から甥御さんと知り合いだったのですが、彼から“パリに行くなら、せっかくだから叔母のところに顔を出してきて”と言われて」

 Mさんが訪れたのは、パリ市庁舎の近くにある築400年ほどの建物を利用したアパルトマン。

「お昼すぎに“ご無沙汰です”とお邪魔したら、ケーキを買って待っていてくれた。紅茶を飲みながら色々な話をして、気がついたら夕方の18時(笑)。インタビューの時もそうでしたが、フジコさんは相手と気が合ったり、自分の興が乗ってくると、話が止まらないタイプ。寂しがり屋なのかもしれませんが、本当に裏表がなく面白い人でしたね」

 その時に聞いた話で、いかにも「フジコさんらしい」と感じたエピソードを語ってくれた。

「フジコさんがドイツに滞在していた時の話です。犬の散歩をしていたら、事故にあってしまった。すぐに救急車を呼ばれて病院に運び込まれたのですが、そのとき着ていた普段着が、言葉は悪いのですがボロボロ。病院で浮浪者と間違われたそうです」

 ドイツにはひとりで滞在していたので、誰も呼ぶことができない。手持ちのお金もなかったので、病院から出ることもできなかったという。

「“私はピアニストだから、ちゃんとお金を支払うことはできる”と話をしても、病院側は信じてくれなかったそうです」

 困ったフジコさんは、病院のレクリエーション室にピアノを見つけた。

「そのピアノで数曲、弾いてみせたそうです。それを聴いた病院側がようやく信じてくれて、病院を出ることができたとか……。“見てくれで判断するなんて失礼しちゃうじゃない!”なんて本人は笑い話にしていましたね」

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 2023年に自宅で転倒し、脊髄損傷の大怪我を負ってからは、ピアノを弾くこともできなくなってしまっていた。

「それでも私は、永遠に、永遠に生きて永遠に弾くことはできるわよ」

 その言葉通り、彼女が残した“鐘(カンパネラ)”の音は、今も人の心で鳴り続けている――。

取材・文/蒔田稔

デイリー新潮編集部