私立大学文系の受験がどんどん難しくなっている。たとえば「明治大学政治経済学部には不合格だったが、東京大学文科二類には合格した」という生徒も実在する。大手予備校講師の小池陽慈氏は「これからの受験生は旧来からの大学ヒエラルキーではなく、自分の学びたい勉強の分野や、注目している教授の講義がある大学を選ぶべきだ」という――。
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■「東洋×、早稲田○」「明治×、東大文2○」というミラクル

私立大学文系の入試が近年、異様なほどに難化している。

主な要因は、文部科学省の指導による大学入学定員の厳格化だ。各大学は定員よりも多い合格者を出した場合、一定の割合に応じて私学助成金がカットされるようになったため、大学側は合格者を絞るようになった。これが「異様なほどの難化」につながっている。

そして、この難化現象と並行するように、かつてはほとんど見られなかった合否事例を耳にするようになった。例えば、都内のある進学高校の男性教員は、今年の受験シーズンの終わり頃に僕にこう言った。

「ウチの学校で、駒澤大学には落ちたけど、立教大学には受かった子が複数人いて驚きました。逆に立教大学に十分合格できる実力の子が不合格で、駒澤に拾われたケースもありました。私文(私大文系)に関しては、正直、だれがどこに受かるのか、全然予想がつきません。こんな経験は教師になって初めてです」

また、僕とは異なる大学予備校に出講する知人の講師はLINEでこんなメッセージをくれた。

「あまり成績のかんばしくなかった生徒が案の定、専修大学がダメで、暗い気持ちになっていたんだけど、なんと明治大学には合格した! これは奇跡! 感動した!」

その他にも「東洋大学にすべって早稲田大学に合格」。さらには「明治大学政治経済学部には不合格だったが、東京大学文科二類には合格した」といったミラクルも起きている。

■大学ランクのヒエラルキーは有名無実化しつつある

これまで予備校の教壇に長年立ってきた僕を含めた講師陣、また高校教員や生徒のほとんどが次のような前提で大学受験をしていた。

↓早慶上智
↓MARCH(明治/青山/立教/中央/法政)
↓日東駒専(日本/東洋/駒沢/専修)
↓大東亜帝国(大東文化/亜細亜/帝京/国士館)

しかし、こうした大学ランクのヒエラルキーは徐々に有名無実化しつつある。その一端は偏差値にも表れている。

■東洋大文学部と青学・明治大の文学部、中央大法学部が同じ偏差値

立教大学の新興学部である異文化コミュニケーション学部は偏差値67.5(河合塾、以下同)で、偏差値65の慶應義塾大学文学部や早稲田大学教育学部、上智大学文学部といった伝統的な難関学部を上回っている。

また、中堅クラスのイメージが強い東洋大学の文学部や社会学部、国際学部、国際観光学部は偏差値60だ。これは明治大学文学部、青山学院大学文学部、中央大学法学部・経済学部・文学部、法政大学社会学部・現代福祉学部・文学部・国際文化学部、立教大学観光学部・コミュニティ福祉学部などと同ランクである。

河合塾2020年度入試難易予想ランキング表(私立大、文・人文学系)より。

偏差値は偏差値であり、合否はそのまま反映されるとは限らない。だが少なくとも、「合格しやすいか否か」という観点においては、一般にイメージされるような大学ランキングはあまり参考にならなくなりつつあるのだ。

このような「合否結果のカオス化」と、先に述べた難化現象との因果関係は明瞭ではないが、明らかに両者は並行している。

■それでも受験生は「最低でもMARCH」という決まり文句

では、大学を志す受験生や高校生たちの中に、昔からの大学ヒエラルキーをもはや意識していないかといえば、“否”である。やはり多くの生徒たちは、「最低でもMARCH」という決まり文句を、判で押したように口にするのである。

この決まり文句を“翻訳”するなら、「私大文系を目指す以上、最低でもMARCHには進学したい。ニッコマ(=日東駒専)には行きたくない」ということになる。つまり、合格難易度における実質的な開きがどれだけ縮まろうとも、旧態依然とした大学ランクのヒエラルキーは、いまだ確固としたイメージとして多くの生徒の心に根付いているのだ。端的に言えば、世間的にブランド力の強い、いわゆる“難関大学”のボーダーはMARCHまでというイメージである。

とはいえ、このまま旧来のイメージを生徒たちが持ち続けることはよいこととは言えない。大学ランク表を年度ごとに発表し、こうした格付けを再生産、あるいは強化する側の人間がこのようなことを言うのは自己矛盾かもしれないが、それでも旧態依然とした階層的な大学イメージは解体されるべきだと思う。

なぜなら、そのほうが受験生の選択肢が豊かになり、それにより大学間の健全な競争が生まれ、質の高い教育環境が整うと考えられるからだ。

さらに言えば「第一志望のMARCHに落ちて日東駒専に通うことになった」という子も、そこに階層的なイメージが存在しなければ劣等感を抱くことなく、前向きに進学できるだろう。毎年、不本意な受験結果に終わった生徒たちの相談を受けるが、「僕たちが再生産してきた大学ランキングなどなければ、この子ももっとポジティブな気持ちになれただろうに……」と心苦しい思いをせざるをえないのだ。

■大学の階層的なイメージを生産したのは塾予備校業界だけではない

自己弁護・責任転嫁と受け取られてしまうかもしれないが、大学の階層的なイメージを生産してきたのは塾予備校業界だけではない。

『サンデー毎日』2019年3月24号

考えてみてほしい。例えば進学校といわれる高校の多くは、難関大学への進学実績のアピールに躍起だ。とりわけ中堅進学校でその傾向は顕著である。あるいは、「高校別・東大合格者ランキング」や「早慶MARCH・進学実績一覧」といった特集は週刊誌の人気企画だ。

それは企業も同じだろう。SNSの普及により就職活動における「学歴フィルター」の存在が可視化されるようになった。例えば、世間的に認知度の低い大学から説明会に申し込んだら「締め切り」と言われたのに、有名大学の学生にはエントリーが許可された、といった話がたびたび投稿されているのだ。

旧弊を打破するためには、僕ら予備校業界の人間はもちろんのこと、学校も、そして世間も、さらには企業も、皆でこうしたイメージを変える必要がある。

今年度、僕が出講している校舎では、受験の結果を校舎内に貼り出す「合格短冊」を、いわゆる「ランキング順」ではなく、「大学名の五十音順」で並べていた。ささいな試みかもしれないが、こういった取り組みを、もっと広げていくべきだと強く願うのである。

そして、ここで大きな意味を持つことになるのが、高校生や受験生が、どのような観点から志望大学を決定するか、あるいは、親や教師や予備校のスタッフが、どのような観点からわが子や生徒に受験する大学を勧めるか、という点である。

これまでは、大学ランキングに基づいて、自分の成績で目指せる範囲の大学で最も上位の学校を第一志望に考える、という選び方がメジャーであったはずだ。けれども、そのような選び方、勧め方が続く限り、残念ながら大学の階層的イメージは、いつまでたってもなくならない。それどころか、より強化されていってしまうだろう。

■「大学は、先生で選べ!」

それならば、どう選ぶか、どう勧めるか?

僕が言いたいのは「大学は、先生で選べ!」ということだ。生徒自身が学びたい分野で活躍する教授や講師が所属する大学の授業に出られるというのは、本当にエキサイティングなことであるはずだ。大学の〈名〉や〈ブランド力〉などではなく、自分の学びたいジャンルで活躍する研究者がどの大学のどの学部で教鞭をとっているのか。高校生や受験生、保護者、教師、僕ら塾予備校の講師や教務スタッフが、そういった観点にもっと敏感になり、たくさんの情報を集めていく。

■大学ランキング上位でなくても優秀な教授がたくさんいる

大学側も、これまで以上に充実した情報を提供していく。そうしてみなが「先生」によって志望大学を選び、あるいは勧めることができるようになったなら、大学ランキングはその“存在意義”を希薄化させていくことになるだろう。

なぜなら、既存の大学ランキングで上位にこない大学にも、精力的に活躍する研究者はたくさんいるからだ。

文学や哲学に興味を持つ人間である僕からしたら、早慶やMARCHと同等に魅力を感じる大学はいくらでもある。僕は早稲田大学出身だが、いま、僕が受験生ならどの大学を志望するか、かなり迷うだろう。

例えば、「日東駒専」にはとてつもなく魅力的な教授、講師がそろっている。僕の私的な意見なので、あくまで参考程度にしてもらいたいが、たとえば日本大学の文理学部には、『国語教育の危機--大学入学共通テストと新学習指導要領』(ちくま新書)などで教育改革への積極的な提言を試みる、日本近代文学研究者である紅野謙介教授がいる。あるいは『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)で難解極まりないウィトゲンシュタインをギリギリまでわかりやすく説いた哲学者の永井均教授もいる。

小林 恭二『カブキの日』(新潮社)

専修大学の文学部では、『カブキの日』(新潮社)などの小説作品もある、作家・俳人の小林恭二教授がプロの作家育成を目的としたゼミを担当している。また、哲学やポストモダニズムの研究者であるとともに、著書『現代思想史入門』(筑摩書房)が各方面から絶賛された船木亨教授も哲学科で教鞭をとっている。

ミシェル・フーコーやアルチュセールの研究者であり、政治思想をめぐる著書や訳書も出版している山家歩先生も、講師として専修大学で講座を持っている。

「準MARCH」の大学群では、明治学院大学社会学部に、『〈群島〉の歴史社会学』(弘文堂)、『硫黄島』(中公新書)など著作や日本史における南洋群島への視座の重要性を訴える石原俊教授がおり、成蹊大学法学部には、「法学部編」という形式で出版され話題を集めた『教養としての政治学入門』(ちくま新書)を著した高安健将、野口雅弘、西山隆行、板橋拓己らの教授陣が控えている。

また、「ハーフ」をめぐる言説研究で活躍し、著書『「混血」と「日本人」 ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』(青土社)で注目を集めた新進気鋭の社会学者、下地ローレンス吉孝先生は、上智大学のほか、国士舘大学文学部や開智国際大学国際教養学部でも講師をしている。

■MARCHと日東駒専との差がなくなりつつある中での大学選びの基準

これらは私の興味関心に限ったものだが、いわゆる大学ランキングで上位に位置しない大学にも、数多くの有力な研究者が出講していることがわかるだろう。正直に言えば、あまりにも豪華な陣容に、これらの大学に通う学生がうらやましくなるレベルである……。

こういった情報を知るためには、生徒や保護者自身もアンテナの感度を高めておく必要がある。有効な手法としては、新聞の「オピニオン欄」などに投稿された学者のエッセーに頻繁に目を通すこと、あるいは、話題になっている新書を読んでいくことであろう。

駒澤大学や専修大学をはじめ、ホームページの充実している大学も多い。そして、特に若手〜中堅の研究者はツイッターなどのSNSを活用している人が多いので、新聞や読書を通じて知った研究者のアカウントをフォローしてみるのもおもしろい。そこから、さらに多くの教授や講師の活動を知ることができるようになるはずだ。

冒頭でも触れたとおり、「合格しやすいか否か」という点に関して、旧来の大学間格差は有名無実化しつつある。象徴的にいうなら、「MARCHと日東駒専との差がなくなった」、あるいは「なくなりつつある」のである。

僕も生徒を指導する際には、例えば、「MARCHレベルの勉強をしていれば、日東駒専への特別な対策はいらない、といった考えは通用しない」と繰り返しアドバイスしている。これは僕が出講する予備校のチューターも同じ意見だ。

「格差の有名無実化」は、大学受験指導にかかわる者の多くが口にする、確かな実感なのである。であるならば、今こそ、われわれの脳内や社会常識に根強く残る「大学ランキング」のイメージを解体する、千載一遇のチャンスではないだろうか?

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小池 陽慈(こいけ・ようじ)
予備校講師
早稲田大学教育学部国語国文科卒、同大大学院教育学研究科国語教育専攻修士課程中途退学。現在、大学受験予備校河合塾、および河合塾マナビスで現代文を指導。7月末刊行予定の紅野謙介編著『どうする? どうなる? これからの『国語』教育』(幻戯書房)で大学入学共通テストに関するテキストを執筆。
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(予備校講師 小池 陽慈)