先祖代々受け継がれし名声と財産。

それを守り続けるために、幼い頃から心身に叩き込まれる躾と品位。

名家の系譜を汲む彼らは、新興のビジネスで財を成した富裕層と差別化されてこう呼ばれる。

「オールドリッチ」と。

一見すると何の悩みもなく、ただ恵まれた人生を送っているように見えるオールドリッチ。

しかし、オールドリッチの多くは、人からは理解されない苦悩や重圧に晒されている。

知られざるオールドリッチ達の心のうちが、今、つまびらかにされる-。

前回は、プライドばかりが高いオールドリッチの由紀を紹介した。今回は?




【今週のオールドリッチ】
名前:柳沢梨華
年齢:27歳
職業:商社一般職
住居:芝公園

田園調布駅西口を抜けると、放射状に延びたイチョウ並木はすでに黄色く色づいていた。

「先月来た時はまだ青々としていたのに…」

月に一度開催される祖母宅でのファミリーディナー。この伝統行事のため、梨華は毎月必ずこうして田園調布を訪れる。

幼い頃から通った田園調布は、梨華にとっては自宅の庭のように愛着のある場所だ。

復元された旧駅舎によって、駅にはヴィンテージな雰囲気が漂っている。しかし、街並みそのものは梨華が幼少の頃とはすっかり様変わりしてしまっていた。

かつて大豪邸が並んだ通りには、中規模サイズの家が目立つようになった。それどころか、見るからに空き家といった手入れのされていない家や、空き地すら存在する。

昔では考えられなかった光景に言い知れない切なさを感じながら、梨華は住宅地の奥へと足を進めた。


お嬢様育ちの祖母は、現実が見えていない。女3代の陰鬱な晩餐会


田園調布の歴史を背負う、祖母のプライド


多くの住宅が様変わりしてしまったのに対し、祖母の家はまるで時が止まっているかのように「古き良き田園調布」の様相を保ち続けていた。

160坪ほどの広大な土地に、8つの居室とメイド部屋のあるイギリス風の洋館。手入れされた庭と生垣が、その貫禄を強調している。

昭和の時代に芸能関係で財を成した曽祖父のこだわりが、細部にまで見て取れる豪邸だった。

豪奢なアイアンの門扉を押しあけると、車寄せの向こうの正面玄関からはつらつとした声が響いた。

「梨華さん!いらっしゃいませ。お母様もお婆様もお待ちですよ」

「瀬川さん、ありがとう」

30年近く住み込みで働いている、家政婦の瀬川さんだ。瀬川さんの後についてダイニングへ向かうと、すでに祖母と母はテーブルについてワインを飲んでいるところだった。

「遅くなってごめんね。定時で抜けて来たんだけど、待たせちゃったみたい」

「いいのよ、梨華ちゃん。さぞ会社でご活躍なんでしょ?おばあちゃま、梨華ちゃんが元気ならそれだけで嬉しいの」

ニコニコと話す祖母は、今年で82歳のはずだ。曽祖父の遺産の運用を銀行に丸投げしながら、瀬川さんと二人でこの広大な家で暮らしている。

一人娘として蝶よ花よと育てられた祖母の顔には、シワクチャでありながらもどこか少女のような可憐さがあった。




「さ、揃ったことだし、いただきましょうか」

母がそう言うと同時に、瀬川さんがキッチンからもう1客ワイングラスを運んで来た。

テーブルに並んだ3客のワイングラス。ファミリーディナーといっても、集まるのは祖母、母、梨華の3人だけだ。

祖父は梨華が生まれる前に亡くなり、父は3年前にクモ膜下出血で50代の若さで逝ってしまった。

祖母も母も梨華も、3代に渡って一人娘。

この豪邸の“ファミリーディナー”は、わずか3人の女によって開催される憂いをひそめた饗宴なのだ。



「その時のおじいちゃまったら、本当におかしくって…。お庭の藤棚にぶら下がりながらそんなこと言うのよ!」

「そうそう!それに、梨華が小さい時なんて『孫にブランコを作るんだー』なんて言いながら楓の木にロープを張りだして…」

3人の女は、瀬川さんの作るご馳走に舌鼓を打ちながら会話に花を咲かせる。ファミリーディナーでの主な話題は、祖母と母によるこの家での思い出話だ。

しかし、会話が盛り上がれば盛り上がるほど、梨華の心は重く沈んでいく。

生まれてからずっとこの家で暮らす祖母にとって、家は楽しかった思い出の象徴。いや、祖母の人生の全てと言っても過言ではないのだろう。

その証拠に、「母と梨華の住む芝公園のマンションで一緒に暮らそう」という幾度もの誘いは、毎回にべもなく断られていた。

「私はここで幸せ。瀬川さんもいるし、この家を出たくないの。それに、これだけ立派なお屋敷は田園調布にはもう残されてないわ。私がこの家を見捨てたら、田園調布の名が廃るってものよ」

それが祖母の口癖だった。そしてこのセリフを言われると、同じくこの家で育った母も涙ぐみながら「そうね、その通りだわ」と納得してしまうのだ。

年老いた世間知らずのお嬢様たちによる、戯れのような話し合い。お菓子のように甘い考え。感傷による盲目。

祖母と母は、この家がファミリーを守る神殿のように考えている。本当は、ファミリーを崩壊へと導く脅威であるにもかかわらず…。


数多の田園調布オールドリッチが飲み込まれていった「相続」という名の罠


変わりゆく時代の中で、孫娘が下す苛烈な決断


社会に出ることなく曽祖父の遺産をただ食いつぶし、銀行に運用を丸投げしている祖母と母は、お金のことなど全く考えずに年を重ねたのだろう。

この田園調布の豪邸がファミリーにとって負担になる可能性など、思いもよらないようだった。

そう、つい2年前の梨華がそうだったように。

梨華は、2年前から付き合っている会計士の彼氏・直也が、付き合い始め当初に言ったセリフを思い出す。

―梨華のおばあちゃんちって、すごい豪邸なんだろ?相続税大変だな。

直也にとっては単なる雑談の一つにすぎなかったに違いない。しかしその一言は、それまで全くお金を意識してこなかった梨華の胸に奇妙な不安の種を植えつけた。

直也の言葉が気になった梨華はデートから帰った後、住宅情報サイトで祖母の家と同程度の物件がいくらするのかを検索してみた。

結果は、土地だけでおよそ5億円。

相続税は軽く1億を超えるだろうか。

祖父も父も普通の勤め人だった梨華の家系は、男手のない今は細々とした資産運用で生活をしている。飛び抜けて大きな財産はあの家だけだ。

一人娘である母があの家を相続するには、今住んでいる芝公園の3LDKのマンションを売り払ったところで追いつきそうにない。

それどころか、固定資産税だけでも年間数百万円。庭の樹木の手入れに年間約百万円。住むことになるなら家屋の修繕費も必要になるだろう。調べれば調べるほど、梨華は祖母の家を継ぐことの難しさを痛感した。

―おばあちゃまの大切な家は、私たちには荷が重過ぎるよ。このままじゃあ、豪邸に押しつぶされる…。

膨らむ不安に、頼れる人を思い浮かべる。しかし、しっかり者だった父はすでに他界しており、婚約もしていない直也に家族の財産について事細かに相談する気にもなれないのだった。




「ねえ、梨華ちゃんはその時のこと覚えてない?」

祖母の話しかける声で現実に引き戻された梨華は、微笑みながら「そんなこともあったっけ」と曖昧な返事で場をごまかした。

祖母と母の思い出話は、いつのまにかひと段落したようだ。

「あぁ、本当にこの家には思い出がいっぱい。ねえ、2人とも。私が亡くなったあとも、きっとこの家でたくさんの思い出を作っていってね。いつまでも田園調布にこの家を残してね…」

「ママ、もちろんよ。そんなことより、うんと長生きするって約束して」

瞳をキラキラとさせながら、祖母と母が見つめあっている。梨華はイエスともノーとも言わず、ただコクリと頷いた。

―おそらく、私は祖母を裏切ることになる。

心のうちにある決意が2人にバレないよう、梨華は目を伏せつづけた

母は泣きながら責めるかもしれない。瀬川さんは仕事を失って露頭に迷うかもしれない。“古き良き田園調布”に小さいながらもトドメを刺すことになるのかもしれない。

―それでも…この家を守るために、私が破滅するわけにはいかない。

梨華は、相続の際にはこの家を売りに出すことを密かに覚悟していた。

母にどんなに反対されようとも、その覚悟が揺らぐことはない。



祖母と瀬川さんに玄関先で見送られると、母と梨華は夜のイチョウ並木を駅に向かって歩いた。

昔よりも小さな家が増えたとはいえ、都内の一軒家としては十分な広さを持つ邸宅が並ぶ。景観保持に厳しい田園調布では、売りやすい小さなサイズに土地を分割することは禁じられているためだ。

あの家を売る決意をしたところで、簡単に売れるとは限らない。分割したとて庶民には手の届かない高額な土地になるだろう。第一種低層住居専用地域であるため、マンションなどの大規模住宅を建てることも許されないのが痛い。

そんな梨華の心配をよそに、上機嫌な母がのんきに呟く。

「あの家とこのイチョウ並木だけは昔と変わらないわね」

同じ方向に歩いていても、母と梨華の心は全く別の方向を向いていた。

―ママ、許して。時は過ぎるし、物事は変わり続けるの。私たちもいつまでも無邪気なオールドリッチじゃいられないのよ。

つい先月まで青々としていたイチョウは、今はもう黄金色に染まっている。

―おばあちゃまは、あと何年元気でいられるんだろう?このまま、時が止まってくれたらいいのに…。

変わりゆく街並みを歩く母と梨華の頭上に、色づいた葉がときおりひらひらと舞い落ちていた。

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