「あのときだけは右から左へ受け流せなかった…」ムーディ勝山が明かす“ブーム終焉”を悟った瞬間

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「右から来たものを左へ受け流す」。独特なリズムとクセになるフレーズでお茶の間を席巻した芸人・ムーディ勝山さん(46)。その歌は瞬く間に全国区の人気を獲得し、2007年には紅白への出演も果たすほどのブレークを見せた。

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ネタ誕生の裏側から、爆発的なブレークの日々、そして静かに訪れたブーム終焉の瞬間まで、“一発屋”と呼ばれた芸人のリアルに迫った。(前後編の前編)

「右から左へ受け流す」の歌、発案のきっかけは?

――「右から左へ受け流す」の歌は、どのようにして生まれたんですか?

ムーディ勝山(以下、同) 僕はもともと関西で漫才コンビを組んでたんですが、家でネタづくりに詰まった際、なんとなく口ずさんだのが、「右から左へ受け流す」の歌だったんですよ。

――では、あの印象的なフレーズは、緻密に作り込まれたものではなく、たまたま口ずさんだものだったんですか?

そうなんです。誰しもしょうもない歌を一人で口ずさんだりするじゃないですか。そんなノリで口ずさんだのが「右から来たものを左へ受け流すの歌」のほぼ完成形だったんです。出だしの「チャラチャッチャッチャラッチャー」から1分半ぐらいアドリブでスラスラでてきたんです。

――それはすごいですね。

歌いながら、「これ、面白いかも!」って思って、自分でめちゃくちゃ笑っちゃったんですよ。「とんでもない名曲が生まれたかも」って(笑)。すぐ録音して、同期の芸人仲間を呼んで聴かせたら大ウケで、「もっと長く、しつこくやったほうがいい」と言われて。そこから3分半のロングバージョンを作りました。

――それは芸歴何年目のときだったんですか?

芸歴5~6年目くらいですね。ちょうど25、26歳の頃でした。

――そんなにお若い頃だったんですね。

モニター1人で判断するのは不安だったので、芸人仲間と居酒屋に行ったんです。そこで接客してくれた女性店員さんに「すみません、ビール頼むので、1曲聴いてもらっていいですか?」ってお願いして、営業中にもかかわらず聴いてもらったんです。そしたらそのお姉さんもすごく笑ってくれて、「これはいける!」って手応えを感じてネタにしました。

ブレーク直後の大混乱、“あの人気モデル”が「結婚したい相手」に指名

――漫才から現在のスタイルに至るまで、どんな試行錯誤があったんですか?

もともとは僕、漫才師だったので、その歌を漫才の中に取り入れていたんですが、どうもしっくりこなくて。そこで笑い飯の哲夫さんに直談判して、吉本の劇場の大喜利コーナーにピンで出させてもらったんです。

――そこから現在のキャラクターが形づくられていったんですね。

そのときはまだ芸名も衣装も決まっていなかったんですよ。ただ、ムード歌謡っぽい曲調だったので、本名の勝山慎司ではなく“ムーディ勝山”にして。衣装や髪型、歌っている間は微動だにしない仕草まで、一つひとつキャラクターを作りあげていきました。

――実際にブームに火が付いたのはいつだったんですか?

全国的に火が付いたのは2007年の正月ですね。「ガキの使い大新年会」と「さんまのまんま 新春SP」です。ガキ使では旅館の大広間で、メンバーやスタッフが見守る中、数十組の芸人がネタを披露して優勝を決める企画で、1分半の歌を披露しました。「さんまのまんま」では、今田耕司さんが“おすすめの若手芸人”として何人か連れてきた中の一人で、さんまさんの前でネタを披露しました。

――正月の人気番組に立て続けに出演されたあとの反響はいかがでしたか?

めちゃくちゃすごかったですね。友達や先輩から連絡が殺到しましたし、それまで挨拶しても目もくれなかった吉本の社員が、急にすり寄ってきたりして(笑)。街を歩いていても声をかけられるようになって、周囲の反応は一気に変わりました。

――ブレーク当時はかなり多忙な日々だったのでは?

これも“一発屋あるある”だと思うんですが、忙しすぎて本当に記憶がないんです。毎日が初めてのことばかりで、1日に10本ぐらい仕事が入っていて。大阪からマネージャーもついてこられないこともあって、一人で「アルタってどこやねん!」って汗だくで新宿駅をさまよったりしていました。

――環境の変化に戸惑いはありましたか?

でもやっぱり、急にちやほやされるようになって。現場に行くと企業の社長さんが直々に挨拶にきてくれたり、当時『CanCam』の専属モデルだった押切もえちゃんが「結婚したい相手はムーディ勝山さん」って言ってくれたりして…そんなん、調子乗りますよね(笑)。

ブーム終焉を感じた“象徴的な出来事”

――どのあたりでブームの終焉を感じ始めたのでしょうか?

年をまたいで2008年に入った頃から、「あれ…?」と違和感を覚えるようになりました。「爆笑レッドカーペット」では新しい芸人がどんどんベルトコンベアに乗って量産されていく。気付けばTV中心だった仕事も地方営業やラジオが増えていって、目に見えて仕事が減っていきました。

――ブームの終焉を迎えて、周囲の対応にも変化はありましたか?

2008年に入ると、新宿の吉本東京本部を歩いていても、以前のように人が集まってこなくなりました。他の売れている芸人さんに吉本社員が大勢群がっている様子を見た瞬間は、さすがに右から左へ受け流せず、膝から崩れ落ちましたね。

――それはかなりショッキングな光景ですね…(笑)。

まさに、時代が変わった音がしましたね。

後編「『一発屋LINE』に37人集結、まるで“アベンジャーズ”な“一発屋”たちの絆と生き様」へつづく

取材・文/木下未希 撮影/村上庄吾