竹中半兵衛も真田幸村も「軍師」ではなかった、現代人が誤解する戦国時代のリアル

大阪・三光神社に立つ真田幸村の像(写真:Dora/イメージマート)
戦国時代に軍師はいなかった--。大将や君主を支え、軍事的な作戦や戦略を立案する「軍師」。山本勘助、黒田官兵衛…歴史を振り返るとすぐに名前が挙がるが、そんなイメージは実は数十年前にできたものでしかなかった。『応仁の乱』『陰謀の日本中世史』などの著書でも知られる呉座勇一・国際日本文化研究センター准教授が明らかにする「軍師」の真実とは。
(*)本稿は『軍師の日本史』(呉座勇一著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
諸葛孔明ブームが「軍師」を生んだ
「軍師」という言葉は、もちろん中国から伝わったものだが、中国でも「軍師」という呼称は一般的ではなかった。そんな「軍師」という言葉が日本で普及したのは、『通俗三国志』がきっかけである。
明代の小説『三国志演義』を、元禄2〜5年(1689〜92)に日本語に翻訳したのが『通俗三国志』である。この本は『三国志演義』をほぼ忠実に訳したものと評価されている。『通俗三国志』は江戸時代のベストセラーであり、これを種本とした講釈も流行したので、文字の読めない人であっても内容を知っていた。
三国志の登場人物の中で、日本で一番人気があったのは、諸葛孔明であった。幕臣の大田南畝(1749〜1823)が天明年間(1781〜89)の見聞を記した随筆『俗耳鼓吹』に「いつぞや四谷辺にて、三国志を講じける講師の、ある日門に札をはれり。今日より孔明出る」という一節が見える。「今晩から孔明が登場します」と、集客のために講談師が宣伝するほど、孔明の人気は絶大であった。

江戸時代から人気があった三国志の軍師、諸葛孔明。写真は中国・襄陽市の諸葛亮広場(写真:アフロ)
『通俗三国志』では「軍師」孔明が大活躍し、名軍師孔明の名前が人口に膾炙する。以後、軍記物や近世軍学、芝居などが「軍師」という言葉を多用するようになる。そのはやい例としては、享保6年(1721)に上演された近松門左衛門の浄瑠璃『信州川中島合戦』で山本勘助が「軍師」と呼ばれている。
秀吉の天才参謀・竹中半兵衛の真実、史実にはない「三顧の礼」の裏側
軍記や軍学に登場する日本の「軍師」の多くは、諸葛孔明をモデルとしている。一例として『絵本太閤記』を見てみよう。『絵本太閤記』は豊臣秀吉の生涯を描いた武内確斎作、岡田玉山画による大長編の絵入り読み本である。寛政9年(1797)に初篇が、享和2年(1802)には第7篇が刊行されて完結した。
同書では、秀吉と「美濃一国の軍師」竹中半兵衛との出会いが描かれている。すなわち、「竹中半兵衛は栗原山に閑室を構え隠居して、竊(ひそか)に世の治乱を観る」とある。木下藤吉郎(のちの秀吉)が竹中半兵衛の閑居を訪ね、「我師父」となってくれと頼む。藤吉郎の器量を認めた半兵衛は「信長へ降り計策を献ずるにあらず。汝を教導せん為閑居を洲股へ移す」と述べ、藤吉郎の軍師となる。
発展途上の武将が、隠棲する賢者を訪ね、力を貸してほしいと頼むという構図は、著名な「三顧の礼」と共通し、『絵本太閤記』が竹中半兵衛と孔明を重ね合わせていることは明白である。
なお、竹中半兵衛重治が秀吉に仕えて以降、軍略面で貢献した形跡は同時代史料ではほとんど確認できない。その半兵衛が、江戸時代に秀吉の軍師として脚光を浴びたのは、有名な稲葉山城乗っ取りの印象が強かったこと、重治の息子の重門が著作『豊鑑(とよかがみ)』で父親を持ち上げたことが影響していよう。新井白石は『藩翰譜(はんかんぷ)』で、半兵衛を秀吉の謀臣として紹介している。
幕末に成立した『真書太閤記』では、1度目は木下藤吉郎本人、2度目は半兵衛と旧知の大澤次郎左衛門が藤吉郎の代理として、3度目は2人が、計3度、竹内半兵衛の閑居を訪問して勧誘しており、「三顧の礼」をより強く意識した脚色となっている。なお同書では半兵衛を「名誉の軍師」と呼んでいる。
真田幸村も最初は「軍師」ではなかった?
真田幸村も、時代が下るにつれて、諸葛孔明を彷彿させる軍師として物語の中で活躍していく。まずは「真田幸村」の初出作品とされる『難波戦記』を確認してみよう。
同書は、京都所司代板倉家の門客であった万年頼方と下野国壬生藩主阿部忠秋の家臣である二階堂行憲の共著である。その後、清原範忠らが増補した。増補版で最も流布した本は、寛文12年(1672)の三宅可参(衝雪斎)の序文を持つものである。したがって万年頼方・二階堂行憲が執筆した原本は寛文12年以前に成立したことが分かる。
同書は真田丸の戦いでの幸村の活躍を特筆している。すなわち、「真田は元来、籌(はかりごと)を帷幄の内に運らして勝を千里の外に決する陳丞相(陳平)・張留侯(張良)が肺肝の間より流出する如き者なれば」と絶賛している。陳平・張良は漢帝国を打ち立てた高祖劉邦を補佐した参謀で、中国を代表する軍師である。幸村は陳平・張良に匹敵する名軍師として位置づけられている。
この時点では、諸葛孔明ではなく、陳平・張良が引き合いに出されていることに留意されたい。『通俗三国志』刊行以前は、孔明は必ずしも中国を代表する軍師ではなかったのである。
ところで、『難波戦記』において、幸村は奇策で敵を翻弄する軍師的存在として描写されているものの、「軍師」という表現は見えない。『通俗三国志』刊行以前は、「軍師」という呼称が一般的でなかったからだろう。
「軍師」幸村の初見は、明和年間(1764〜72)以前に成立した大坂の陣の実録『厭蝕太平楽記』と思われる。以後、幸村の人物造形は『通俗三国志』の諸葛孔明を意識したものになっていく。ちなみに、明和6年(1769)に初演された浄瑠璃『近江源氏先陣館』(大坂冬の陣を鎌倉時代に舞台を移して作劇したもの)では、佐々木高綱(真田幸村)が「六十余州に一人の軍師」と称賛されている。
以上で示したように、現実の戦国時代には「軍師」なる用兵家は存在しなかったが、江戸時代の軍学書・軍記・講談などでは、「軍師」が華々しく活躍した。
【関連記事】
私たちが抱く「戦国軍師」のイメージは、実は昭和50年代のビジネス誌が作り出したものだった

『』(呉座勇一著、角川新書)
筆者:呉座 勇一
