プラットフォームの跡がポツンと…赤羽の住宅ゾーンに現れる「ナゾの廃線跡」には何がある?
こんな話をすると隠しているわけでもない年齢がバレてしまうが、学生時代にカラオケに行くと、決まってプリンセス プリンセスの「M」を涙ながらに歌い上げる女友達がいた。リアルタイムのプリプリ世代とはちょっと違うのだが、まあ確かに「M」はなかなかの名曲であることは間違いない。
【画像】プラットフォームの跡がポツンと…ナゾの廃線跡を写真で一気に見る(全38枚)
そしてこの名曲の舞台になっているのが、なんと赤羽らしい、ということを知ったのは最近になってからだ。赤羽といったら安くて旨い酒場がひしめく、いわゆる“せんべろの聖地”。そんな庶民的な町と、「M」の切なくも美しい世界観とはどうにもミスマッチのような気がする。
が、見方をひとつ変えるだけで、赤羽だって実に美しい一面を見せてくれるのかもしれない。そんな風に思いながら赤羽の町を歩いていたら、木々の豊かな小さな緑道を見つけた。赤羽駅西口を出て、線路沿いを少し北。高台の上に境内を持つ赤羽八幡神社の近くから、さらに西に向かって続いてゆく、赤羽緑道公園だ。

緑道公園に姿を変えた“ナゾの軍用線”
赤羽緑道公園は、ただの道路とはまったく違った、なんともいえないカーブを描いている。心なしか、ほんのり上り勾配になっているような気もする。
ハッキリした登り坂ではないのも、この緑道の特徴か。道沿いはどこもかしこも住宅地。少し離れたところには、東洋大学のキャンパスが見える。
足元に目を向ければ、レールとまくらぎをあしらったかのようなタイルが敷き詰められていた。
周囲の町並みからはいくらか浮いた感すらある、この緑道。これは、かつての東京陸軍兵器補給廠専用線の廃線跡なのである。
というわけで、さっそくこの廃線跡を終点まで辿ってみようと思う。
高架の下からスタート
スタート地点は、例の神社のすぐ近く。いまでは神社のある高台の下をトンネルで潜ってゆく新幹線・埼京線や、その東を通る京浜東北線・東北本線はともに赤羽駅から高架で北上している。
ただ、東北本線や京浜東北線が高架化されたのは1998年のことだ。
だから東京陸軍兵器補給廠専用線が現役だったその時代は、地上を走っていた東北本線。専用線はそこから分岐して、神社の前を通って西に向かっていた。なんでも、神社に入るには専用線の小さな踏切を渡る必要があったという。
そして例の緑道へ。東京陸軍兵器補給廠専用線、つまりその名からは軍用路線であったことがうかがえる。
その名の通り陸軍の施設に向かって走る軍事路線。だから廃止されたのは戦争が終わったのとほぼ同時、おおよそ80年ほど前のことである。なのに、いまでもその跡が緑道公園としてハッキリ残っているのは、だいぶ珍しいのではなかろうか。
地元民からは忘れ去られた?
ただ、緑道公園が廃線跡であることを明確に教えてくれるような説明書きなどはどこにも見当たらない。
せいぜい、足元のレールっぽいデザイン、そして赤羽並木通りをオーバーパスする部分の階段の手すりが車輪のようなデザインになっていることくらいなものだ。
廃線跡は、いわば軍都・赤羽の名残といっていい。それを積極的にアピールするのも憚られる、といったところなのかもしれない。
いずれにしても、80年経っても都心の真ん中の廃線跡を辿れるというのは僥倖に他ならない。しばらくは、この緑道公園を歩いてゆこう。
なにやら巨大な建造物が…
途中ですれ違うのは散歩中の地元のおじさん。道すがらには、ところどころによく整った花壇があった。地元の人がボランティアかなにかで手がけているのだろうか。
しばらく歩き、赤羽並木通りを渡った先あたりからは、北側に工事中の広大な空き地が見えてくる。
奥には団地らしき巨大な建造物が建っているのが見える。桐ヶ丘都営住宅という、1950年代に完成した団地群だ。
赤羽駅西口が、軍都から住宅都市へと変貌したその先駆けとなった、大規模団地である。
いっときは、高齢化が進んで団地の建物もボロボロになり、口さがない向きには“都会の中の限界集落”などと言われたこともあった。が、現在は建て替え工事が進んでいて、遠くないうちに新しい姿を見せてくれるのだろう。
古めかしい体育館も
そんな桐ヶ丘の団地の脇、緑道沿いには小さくも年季の入った体育館があった。銘板には、北区立桐ヶ丘体育館という施設名と共に「オリンピック東京大会記念」と刻まれている。
このオリンピックは2021年の無観客のアレではない。1964年、戦後日本の復興と経済成長を世界に知らしめたあのオリンピックだ。
どうしてオリンピック記念の体育館が北区の都営住宅の近くにあるのか。もちろんこの小さな体育館でオリンピックの競技が行われたワケでもない。日本中が大歓迎で迎えたオリンピックの開催を記念して盛り上げようというムードがあちらこちらにあったのだろうか。
桐ヶ丘体育館、上から見ると日本武道館と同じ八角形をしている。違うのはその大きさと、てっぺんに玉ねぎを載せていないことである。
軍事施設は何に姿を変えたのか?
体育館の脇を過ぎてしばらく歩くと、赤羽台二丁目の交差点に出る。廃線跡と交差する都道には錆びついて閉鎖されている歩道橋が架かっていた。桐ヶ丘赤羽台歩道橋。このあたりもまだ、桐ヶ丘都営住宅のエリアなのだ。
そして東側には、日本住宅公団(現在のUR都市機構)の赤羽台団地が広がっている。こちらはすでに建て替えられて、現在はヌーヴェル赤羽台というらしい。
つまり、かつての軍用路線の廃線跡は、赤羽の高台に開発された戦後の団地・都営住宅の中を通っているのだ。そしてこれらの住宅ゾーン、お察しの通りすべてかつては軍事施設が置かれていた。
赤羽駅西口の高台、赤羽台が軍都となったのは、明治初期からだ。1872年には現在の桐ヶ丘都営住宅の場所に赤羽火薬庫が設けられ、1887年には第一師団工兵第一大隊や近衛工兵大隊が置かれた。
さらに1919年には、両国から陸軍被服本廠が移転してきた。その場所が、現在の赤羽台団地一帯だ。
ちなみに、両国にあった陸軍被服本廠跡地はしばらく空き地のまま放置され、関東大震災では期せずして住民たちの避難場所になった。が、そこに火災旋風が襲い、約4万人の避難民のうち3万8000人の命が失われるという悲劇の舞台になっている。
話を赤羽に戻そう。陸軍被服本廠の移転に先立つ1902年、廃線の目的地であった東京陸軍兵器補給廠が設置されている(設置時は陸軍板橋兵器庫)。
火薬庫や被服本廠よりはやや赤羽駅から離れていて、どちらかというと現在の都営三田線板橋本町駅のほうが近い。ただ、もちろん当時は都営三田線などはないわけで、赤羽駅からの輸送手段確立は欠かせなかった。
そこで1907年に用地買収が始まって、1908年に運行を開始したのが東京陸軍兵器補給廠専用線、現在の赤羽緑道公園の廃線跡なのである。
終戦後は米軍に使われた?
古い地図を見ると、東京陸軍兵器補給廠だけでなく、赤羽台団地の場所にあった被服本廠にも支線が延びていたようだ。
赤羽駅東口に広がる“せんべろ”の繁華街。そのルーツは、台地の上で働く将兵たちや東口に開設された日本製麻の工場で働く職人たちの憩いの場。
専用線は軍需物資の輸送がその役割だったが、将兵が赤羽の飲み屋街に繰り出すときにも使われたのかもしれない。
これらの軍事施設は終戦後、すべて連合軍に接収されて米軍の施設として使われた。いちおう、専用線は終戦とともに運行を休止した、ということになっているが、米軍が何度か列車を走らせていたという説もあるらしい。
そして接収が解除され、軍都・赤羽の施設はすべて返還された。その跡地に建設されたのが、巨大な団地群なのだ。
3000戸を超えるマンモス団地
1950年代には桐ヶ丘都営住宅が先行して建設されて入居がはじまり、少し遅れて1962年に赤羽台団地が完成する。
赤羽台団地は東京23区内では初めてとなる、3000戸を超えるマンモス団地だ。その後、あちこちに建設された公団住宅の原点、モデルケースになっている。赤羽台団地は、戦後日本の住宅事情を大きく変える、エポックメーキングになったのである。
そんな歴史的な団地の脇を抜けてきた廃線跡の緑道公園は、赤羽自然観察公園の前で途切れる。このあたりには小さなプラットホームもあった。
緑道が整備されたのは1990年代以降のこと。1980年頃までは、かなり明瞭に廃線跡やプラットホームも残っていたという。が、さすがにいまやほとんど痕跡は残っていない。
そして、ここから先は緑道ではなく町の中。市街地や道路、路地となって廃線跡は続いてゆく。
廃線を活用する計画もあった
都道455号線を渡った先の住宅地の中を、大きくカーブを描いて進む細い道。ここが廃線跡であろうことは、地図と照らし合わせなくてもすぐにわかる。
この道を辿ってゆくと、最後は味の素フィールド西が丘というサッカー場の中へ消えてゆく。その奥を見れば、トップスポーツ選手の練習拠点・味の素ナショナルトレーニングセンターが聳えている。ちょうどこの場所が、専用線の目的地・東京陸軍兵器補給廠だったのである。
赤羽駅西口の高台に、戦後拓かれたマンモス団地群。それまでは軍隊の将兵ばかりが暮らしていた町が、急に人口数万人規模の住宅地に変貌した。だから、廃線跡を活用しようという動きもあったのだとか。
東京陸軍兵器補給廠跡地を車両基地として、廃線跡はそのまま地下鉄の引き込み線。途中の桐ヶ丘に駅を設ける……という計画がそれだ。
その地下鉄は、現在の東京メトロ南北線。結局、廃線活用計画は地元の反対などもあって雲散霧消し、南北線は赤羽駅東側の赤羽岩淵駅を終点として開業している。
そして、東京陸軍兵器補給廠跡地には車両基地ではなく、国立のスポーツ施設が建設されたのだ。
わずか2キロに凝縮された近代日本の歩み
こうして2kmとちょっとの専用線の廃線跡を辿ってみると、そこには軍都としての歴史を礎にしつつも、戦後日本の住宅のモデルを築き、さらには近年メダルラッシュに沸く日本のスポーツ界のレベルアップにも大いに貢献したスポーツ施設へとたどり着く。
近代日本の歩みをそのまま追いかけるような、そんな2kmちょっとの廃線跡なのである。
なのだから、どこかにここが廃線跡であるという、そんなことを示す説明板のひとつくらいあっても良さそうなものですが、いかがでしょうか……。
撮影=鼠入昌史
(鼠入 昌史)
