『風、薫る』“正しくない”主人公たちだから描ける看護 “道徳ドラマ”にはしない挑戦的試み
「療養中の患者の横でそんな話はやめてください」「看護婦にはたいした仕事はできません」「医者なんかにやらせてあげられない仕事です」
参考:『風、薫る』が描く新しい“明治”とは? 時代考証が明かす史実とフィクションの境界線
NHK連続テレビ小説『風、薫る』第6週「天泣の教室」(演出:新田真三)では養成学校の生徒のひとり・玉田多江(生田絵梨花)の台詞が印象的だった。サブタイトルは「天球」ではなく「天泣」。天が泣くーーお天気雨の意味だ。りん(見上愛)と直美(上坂樹里)たち7人の生徒が厳しい先生に看護の本質を叩き込まれる。そのなかで、本当は医者になりたかった多江が看護婦の価値に気づくのだ。
スコットランドからバーンズ先生(エマ・ハワード)がやって来た。想像していた天使のような先生ではなく、ツンツンしていて厳しい。日本語も話せずコミュニケーションもうまくとれない(最後にじつは日本語が話せないふりをしていたことが判明する)。こういうとき、実践英語を学んでいる直美が役に立つ。通詞は直美がやることになった。その直美は先生を「天の使いではなく天狗」とイヤミを言う。
天狗のようなバーンズ先生は赴任早々挨拶もそこそこに実践授業を始めた。まずはシーツの取り替えと校内の掃除。看護の要素である「清潔」を、身をもって学ぶ7人。でも何度やっても「これは看護ではありません」と言われ続け……。
スパルタ教師(あるいは上司)に鍛えられるエピソードは学校ものやお仕事ものの定番だ。『花子とアン』(2014年度前期)の外国人の先生が花子たちにすぐ「GO TO BED」と言っていたことを思い出す朝ドラファンもいたようである。
バーンズ先生は授業の意図も効率的なやり方も言葉にしない。見よう見まねでまずはやってみて、どうしたらいいのか考えさせようとする。数々の学校ものやお仕事ものを見てきた視聴者はそういうものの道理も知っている。知っているからこそ、あまりにもひねりがなさすぎないだろうか。そう思って観ていると、りんたちが「不潔」と言われ日本髪から洋髪に転換する。このエピソードはひねりが効いていた。日本髪は油で固めるため1週間は洗えないという事実。洋髪にすれば洗髪が頻繁にできて、自身を清潔に保つことができるのだ。
直美が看護学校に入るにあたり、泣きながら髪を切ったエピソードも含め、明治時代の女性の髪の価値と変化に着目したことは興味深い。「女が髪形を変えるといろいろ言われますから」と直美が言う。この認識は時代が変わっても変わらないようだ。
髪形チェンジが多江の物語の入り口になる。バーンズ先生に洋髪を義務付けられたにもかかわらず、多江は日本髪に戻してしまう。実家の手前があるからだ。多江の父・玉田仙太郎(吉岡睦雄)は旧幕府の奥医師で、兄と弟も医者の家系。多江も医者になりたかったが、その道は険しく、せめて看護婦になろうと学校に入った。その矢先、縁談が持ち上がって……。
仙太郎の考えは、女性は結婚して夫を支えるという旧来のものだった。医者の家に嫁ぐにあたり看護婦の知識はあってもいいが、あくまで嫁入り道具のひとつでしかない。将棋が好きな夫のために将棋を学ぶことと看護を同じように位置づけている父に多江は深い絶望を覚える。
洋髪から日本髪に戻ったのは多江の後退の表れとも見える。そのストレスからか、縁談の日に体調をくずして倒れてしまった。
病に倒れた多江の看護に励むりんたち。だがバーンズの教えはまったく生かされない。喉が痛い多江に、固形の野菜がゴロゴロ入ったスープを飲ませようとしたりして。あんなに特訓したにもかかわらず、いざとなるとシーツの取り替えも換気もうまくできない。やっぱり実践あるのみなのだということがわかる。
すったもんだの末、仙太郎は多江が学校で学ぶことを許す。ここがまた駆け足であっけないのはさておく。冒頭に挙げた台詞は、そのときのものだ。衰弱して寝ている多江に向けてネガティブな話をする父に、「療養中の患者の横でそんな話はやめてください」と多江はたしなめる。バーンズの教育の成果か、あるいは自身が病に倒れて実感したのか、患者ファーストが自然と身についていた。
「看護婦にはたいした仕事はできません」「医者なんかにやらせてあげられない仕事です」
看護婦を医者の補助(夫における妻のようなもの)としか思っていない(当時は看護は下賤な仕事とされていた)父に多江は、それでも患者を観察し丁寧に繊細に気を配ることで、医者の治療の精度も上がると主張する。あえて「医者なんかに」というけんか腰な言い方をすることで看護婦の誇りを強調。多江の負けん気の強さが発揮された。
多江のみならず、りんと直美ほか7人の思いも同じであっただろう。
看護婦は自分が感染しないように細心の注意をはらわないといけないという重要なことも描かれた。自分が感染してしまったら、患者を看ることができなくなってしまう。看護婦は家族など、数少ない患者のために存在するのではなく、不特定多数の患者のために存在する。
その自覚をもつことが求められる。そう思うと信右衛門(北村一輝)がりんに伝染らないように自分を隔離したことは極めて適切だったのだろう。現代においても、風邪を引いたとき、自分が頑張っているという自己満足のために学校や職場に出てくる人がいて、その結果、他者に伝染してしまう。他者に感染させないため休むことは、コロナ禍を経てだいぶ浸透した。まずみんなのためを考える。看護婦でなくても重要なことだ。でも、ここをメインに持ってきても道徳ドラマのようでおもしろみはないだろう。
だからこそ、間違えてばかりで、失言が多いりん、正しいことが嫌いな屈折した直美、「医者なんかに」などと口の悪い多江と、従来の正しさや真面目さが薄めてある。しかも「不潔」。なかなか挑戦的だ。
第7週からは病院で本格的に看護がはじまる。正統派からはずれた主人公たちがどんな振る舞いをするか見守っていきたい。(文=木俣冬)

