津波で4歳の息子を亡くした美幸さん。当時は「もう一生分泣いて涙が枯れた」とうつろな目をしていたけれど…【遺された時を生きる母親たちの15年】
2万人近くの犠牲者を出した東日本大震災。なかでも震源地に近く、最大被災地となった宮城県石巻市では、行方不明者を含む約3600人が犠牲となった。石巻に移住して11年目を迎えるライターが、震災で子どもを亡くした母親たちの声を伝える
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穏やかな10年目の再会
昨年の秋、スーパーでの買い物中にバッタリ、中里家の父娘と再会した。出会いは2011年の冬。私が震災ボランティアとして東京から宮城県に通っていた時だ。のちに私は石巻に移住することになるが、被災地への思いが深まった背景には、この家族との出会いがあった。
しかし、その後はなんとなく疎遠になり、移住後もSNS上で軽いやりとりをする程度で、あっという間に10年が過ぎてしまっていた。
「美幸さん!」
私が声を掛けると、「ヨシコさん!」と彼女も目を見開いて驚いた。「オトォ! ヨシコさんよ!」と、父の勉さんを手招きする。スキンヘッドの迫力ある風貌は当時のまま。しかし私の顔を見て記憶をたどるその表情が、柔らかい。
美幸さんの笑顔もあっけらかんとして、どこかピリピリしていたあの頃とは印象が違う。今はふたりの間に、穏やかで優しい時間が流れているのだ……。帰路、車を運転しながら私は胸がいっぱいになった。この機を逃さず、改めて中里家を訪問しようと決めた。

2014年頃の中里美幸さん(左)と筆者(右)
地主である中里家は震災前と同じ場所で家を建て替え、借家業を続けていた。甚大な津波被害を受けた一帯は道路も新設され、すっかり様変わりしている。
以前は同じ敷地内に中里家が所有する平屋の借家が並び、そのうちの1棟にシングルマザーの美幸さん(当時37歳)と娘の風夏(ふうか)さん(当時18歳)、息子の煌冴(こうが)君(当時4歳)が暮らした。
30m先にある2階建ての母屋には、父の勉さんと母のこう子さん、勉さんの母で美幸さんの祖母、はつよさんが住んでいた。保護犬のガンコもいて、4世代6人と1匹、母屋でともに食卓を囲む。仙台には美幸さんの弟と妹もいて、賑やかな大家族だった。
2011年3月11日、14時46分。巨大地震が発生し、美幸さんが車で職場から戻ると、風夏さんが母屋の前で自分の軽自動車にこう子さんと煌冴君、ガンコを乗せ、避難の準備をしていた。
美幸さんが「充電器と着替えも持っていこう」と声を掛け、ふたりで自宅に向かう。夢中でバッグに荷物を詰めていたその時、風夏さんが叫んだ。
「みーちゃん(美幸さんのこと)、やばい!」
ザーッという音とともに足元に来た水が層のように膨らみ始める。外では車の盗難防止ブザーが次々と鳴り始めた。
「もう荷物どころじゃない、母屋に戻ろう!」
叫んだ瞬間、バーン! と音を立て濁流が押し寄せる。玄関を入ってすぐの居間にいたふたりは一瞬で水にのまれ、気づけば天井まで頭ひとつ分を残して浮き上がっていた。
「もうダメだ、ダメだ!」
その時、濁流の向こうに玄関の外の雨どいが見えた。
「風夏、水に潜って外に出て、雨どいにつかまれ!」
娘が外に出たのを確認し、美幸さんもあとを追う。

震災前にビニール袋に入れておいた、SDカードに残っていた写真。右は大の仲良しだった煌冴君とガンコ。左は美幸さんと煌冴君(写真提供:美幸さん)
氷点下でひと晩、生き延びて
雨どいにしがみつき、電柱などを足場にしてなんとか屋根に上がる。しかし本当の地獄はここからだ。残してきた4歳の息子が気がかりでならない。
「煌冴、煌冴ー!」
半狂乱で名前を叫び続けたが、周囲の轟音にかき消された。
娘とふたり、ずぶ濡れのまま氷点下でひと晩。強烈な寒さと眠気に耐えながら、互いの体をつねり合い、しりとりをして意識をつないだ。ようやく朝日が昇り、その暖かさには感動すら覚えたが、明るくなって見えてきたのは、立ち並ぶ平屋の屋根の上で息絶えた人々の姿。
道路に降りても水位はまだ胸のあたりまであり、母屋へ向かう30mが進めない。ふたりはいったん目の前の老人介護施設に避難した。翌朝、水が腰の高さまで下がった頃、美幸さんは眠る娘を残し、ひとり母屋へ向かった。玄関は瓦礫でふさがれて入れず、見知らぬ車の屋根に上って2階の窓から中へ入ると、そこにいたのは父の勉さんひとり。「お母さん(こう子さん)と煌冴が見つからない」と言った。
父は、半身不随の祖母を抱いて逃げようとして一緒に津波にのまれた。天井の板をこぶしで割り、なんとか水から顔を出して耐えたが、祖母は「今までありがとう」と言葉を残し、腕の中で息を引き取ったという。
「水にのまれる一瞬前、お母さんが煌冴を背負って、2階に向かって廊下を走る姿を見た。だから、上にいると思ったのに」
翌朝、水が引いた階下を捜すと、水を含んで重くなった畳の下、手をつないだままのふたりの体が見つかった。

現在の勉さんと犬のガンコ。勉さんは震災後に出家した
前回、私が美幸さんから被災時の話を聞いたのは、まだ震災から1年しか経たない頃。最愛の息子を含む家族3人の死を詳細に語りながら、彼女は淡々として声を震わせることもなかった。なぜ? と尋ねると、「もう一生分泣いて涙が枯れた」と答えた時のうつろな目を思い出す。
その後は毎年、10月になると息子の誕生日を祝う手作りケーキの画像がSNSに投稿されてきた。「生きていれば20歳だね」と話しながら、久しぶりに会った美幸さんに「最近はどう? 泣いている?」と聞いてみる。すると「年に2、3回くらいね」と、前とは違う答えが返ってきた。
「誕生日や3月が近づいてくると、どうしようもない時がある。でも、泣いたらそれで終わり」
それから美幸さんは、震災の前夜に布団の中で、煌冴君と一緒に「上を向いて歩こう」を歌ったこと、仙台に住む妹がいつもお土産に買ってくるミニカーを彼が楽しみにしていたこと、働く車が大好きで、勉さんが操縦するユンボーに乗せてもらって大はしゃぎしたこと……などを楽しそうに話してくれた。
聞いていると目の前に、4歳の男の子が姿を現すようだった。彼の小さな手のひらに、私もミニカーを載せてあげたくなる。
美幸さんは今、以前から好きだったハンドメイド作品づくりに熱中し、マルシェなどで販売もしている。被災時は高校を卒業したばかりだった娘の風夏さんは、33歳になった。石巻を出てやりたいことを見つけ、今はひとり、関東で暮らす。
「寂しいけど、娘の人生だもん。絶対後悔がないように生きてほしいから応援する。自分の人生を楽しまなきゃ、なんのために生かされたかわからないじゃん。ね、ガンコ」
傍らで静かに眠る白い老犬。それは津波の直前、家族と一緒に軽自動車に乗せられていたあのガンコだ。ブロック塀に乗り上げた状態の車の中で、生きて発見された。今年で19歳。不思議な形で生かされた命、中里家の人々を支えるために使いきろうとするかのようだ。
<後編につづく>
